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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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9話 待つということ

二日後の夜に、エルドが来た。


 足音が廊下に聞こえた時、アレスはすぐに分かった。エルドの歩き方は他の者と違う。一歩が遅く、間隔が不揃いで、途中で一度止まる癖がある。障子の前で止まってから声が出るまでにも間があった。


「……アレス、さま」


「入れ」


 エルドが入ってきた。


 紙を持っていた。ただし、いつもと様子が違った。いつものエルドは、紙をきちんと折りたたんで、両手で差し出す。今日は、紙を握りしめていた。端が少しよれていた。


 エルドは座った。紙を膝の上に置いた。置いてから、しばらく動かなかった。


「見せろ」


「……ま、だ……でき、て……いません」


 アレスは少し黙った。


「できていない」


「……は、い。と、ちゅう……です」


「途中でもいい。見せろ」


 エルドはためらった。長い間だった。灯りが揺れて、影が動いた。やがて、紙をゆっくりと差し出した。


 アレスは受け取って広げた。


 谷の東側のさらに奥、丘陵地帯の地形が描いてあった。だが、途中で線が止まっている。丘の南斜面の地形は詳細に描かれているが、北斜面が空白だった。空白の横に、小さな字で「記憶が曖昧。確認が必要」と書いてある。


 その下に、もう一つ書いてあった。


「敵が谷を通った後、合流する地点が二つある。一つは砦の東。もう一つは——」


 そこで文が途切れていた。


 アレスは紙から目を上げた。


「もう一つは、どこだ」


「……わ、かり……ません。お、もいだせ、ない……のです」


「思い出せない」


「……じゅう、ねんまえ、に……いち、ど……ある、いた、だけ……なので……き、おく、が……と、ぎれ、ています」


 エルドの声は小さかった。いつもより、さらに小さかった。恥じている、というのとは少し違った。悔しがっている、というのが近い。自分の記憶を、自分で信用できないことへの苛立ちが、声に混じっていた。


「エルド」


「……は、い」


「途中で持ってきたのは、初めてだな」


 エルドが顔を上げた。


「……す、みません……でき、あがって、から……もって、くる、べき……でした」


「違う」アレスは首を振った。「これは良いことだ」


「……よい、こと」


「今まで、そなたは完成した紙しか持ってこなかった。考えて、書いて、繋がって、形になったものだけを渡してきた。だが、途中のものを持ってくるのは、今日が初めてだ」


 エルドは黙っていた。


「途中で見せるということは、ここから先を一人で抱えなくていい、と思えたということだ。それは、変わったということだ」


 エルドはしばらく紙を見ていた。自分が書いたものを、自分で見直しているようだった。


「……ひと、りで……かかえ、なく、ていい……と……おもった、わけ、では……ありません」


「では、なぜ持ってきた」


 長い沈黙があった。灯りが一度大きく揺れて、また戻った。


「……おとと、い……かけ、なかった、のです」


「知っている」


 エルドが目を見開いた。


「……し、って……」


「そなたの部屋の前まで行った。筆の音が聞こえた。書いて、丸めて、捨てていた」


 エルドの顔が強ばった。


「……き、いて……いた、のですか」


「聞こえた。だが、声はかけなかった」


「……なぜ」


「書けない夜に、人が来ても書けるようにはならない。そなたが自分で止まって、自分で動き出すのを、待った」


 エルドは長い間、黙っていた。膝の上の手が、少し震えていた。


「……ま、った……のですか」


「待った。そして今夜、そなたは来た。途中の紙を持って。だから、待って正解だった」


 エルドは俯いた。声が出なかった。しばらくして、途切れ途切れに言った。


「……わた、しは……ずっと……おもって、いました」


「何を」


「……な、ぜ……アレス、さまは……まつ、ので、すか」


 アレスは少し考えた。


 この問いを、いつかエルドが聞いてくるだろうとは思っていた。だが、聞かれてみると、すぐには答えが出なかった。なぜ待てるのか。待つことに理由があるのか。理由があって待っているのか、それとも、待つことしかできないから待っているのか。


「逆に聞く。なぜ今、それを聞く気になった」


 エルドは少し間を置いた。


「……おと、とい……か、けなかった、よる、に……おもった、のです」


「何を思った」


「……わた、しが……と、まっている、あいだ……アレス、さまは……なに、を……して、いる、の、だろう……と」


「何もしていない。待っていただけだ」


「……それ、が……わか、らない、のです」エルドの声が、少しだけ強くなった。強いというのは大きいという意味ではない。言葉に力が入っている、という意味だった。「ま、つ……ということ、は……なに、も……しない、ということ、です。な、にも、しない、のに……なぜ……つづ、ける、のですか」


 アレスは黙った。


 エルドの問いは、核心を突いていた。待つとは何もしないことだ。何もしないことに意味を見出すのは、普通は難しい。何かをした方が、成果が出る。成果が出れば、意味がある。何もしないことには、意味がない。少なくとも、外からはそう見える。


 ガルトが「甘い」と言ったのも、同じことだ。待つことは、何もしていないように見える。何もしていないように見えるものに、家の命運をかけるのは愚かだと。


「……そなたに、ひとつ聞きたい」


「……は、い」


「おととい、書けなかった時、何を考えていた」


 エルドは少し黙った。


「……た、にの……ひがし、がわ……の、つづき、を……かこう、と……しました。で、も……おもいだせ、ない、ところ、が……あって。む、りに、かこうと、すると……ぜんぶ、が……ばらばら、に……なる」


「ばらばらになると、どうなる」


「……て、が……とまります。あ、たまの、なかが……しろく、なって……なにも……で、てこ、なく……なる」


「それで丸めた」


「……は、い」


「何枚丸めた」


「……なな、まい」


「七枚」


 エルドは小さく頷いた。


 七枚。七回、書こうとして、七回、失敗した。その七回の間、エルドは一人で机に向かっていた。誰にも見せず、誰にも言わず、七回繰り返して、八回目を書けなくて止まった。


「そなたは、その七枚の間も考えていた」


「……かんがえ、ては……いました」


「考えていたが、形にならなかった」


「……は、い」


「だが、二日後の今夜、途中の紙を持ってきた。形になっていないまま、持ってきた。それは、七枚丸めた夜があったからだ」


 エルドは何も言わなかった。


「止まっている時間は、何もしていない時間ではない。そなたは止まっている間も考えている。考えているが形にならない。形にならないから、外からは何もしていないように見える。だが中では動いている」


 アレスは少し間を置いた。


「私が待つのは、そなたの中が動いていると知っているからだ。外が止まっていても、中が動いていれば、いつか出てくる。出てこなかったことは、今まで一度もない」


 エルドの目が揺れた。


「……い、ちども……ですか」


「一度もない。遅い時はある。だが、出なかったことはない」


 しばらく沈黙があった。


「……父の話をしてもいいか」


「……は、い」


「父は、病で死んだ。長い病だった。一年ほど寝込んで、最後の半年はほとんど話せなかった」


 エルドは黙って聞いていた。


「見舞いに行くと、父は何かを言おうとしていた。口が動いていた。だが声にならなかった。何を言いたいのか、分からなかった。母に聞いても、母にも分からなかった」


 灯りが揺れた。


「最後の日に、もう一度行った。父はまた口を動かしていた。今度は、少しだけ聞き取れた。『頼む』と言っていた。何を頼むのか、分からなかった。家のことか。母のことか。領民のことか。分からないまま、父は死んだ」


 アレスは少し間を置いた。


「あの時、私はもっと早くから聞いていればよかったと思った。父が話せる時に、もっと聞いていればよかった。話せなくなってから聞こうとしても、遅い。言葉は、出る時に聞かなければ消える」


 エルドはこちらを見ていた。目が揺れていた。


「だから私は待つ。そなたの言葉は、出るのが遅い。だが、出る。出た時に聞き逃したくない。父の時に聞き逃したものを、もう一度聞き逃したくない」


 長い沈黙が落ちた。


 外で虫が鳴いていた。遠くで、城下の犬が一声吠えた。


「……それ、が……りゆう……ですか」


「理由になっているかは分からん。だが、そういうことだ」


 エルドは俯いた。肩がわずかに震えていた。泣いているのか、こらえているのか、アレスには分からなかった。聞かなかった。


 しばらくして、エルドが顔を上げた。目は赤くなかったが、声はいつもより低かった。


「……わた、しも……にて、います」


「何がだ」


「……こ、とばが……でない、のです。い、いたい、ことが……あるのに……でない。で、ないまま……じかん、が……すぎる。す、ぎた、あとで……あの、とき、いえば、よかった……と……おもう」


「同じだ」


「……は、い。お、なじ……です」


 アレスは少し驚いた。エルドが自分から「同じだ」と言ったのは、初めてだった。アレスの経験と自分の経験を、並べて見ていた。


 それは小さなことかもしれない。だが、エルドがこれまで自分の言葉で誰かと何かを共有したことが、どれだけあったか。評定で黙り、廊下で俯き、部屋で一人紙に向かう。その人間が、「同じだ」と言った。


「だから、途中でもいい。完成していなくてもいい。出せる時に出せ。形になっていなくても、持ってこい。後で繋げればいい」


「……あ、とで」


「そうだ。後で。そなたの後でと、私の後では、同じ速さでなくていい。そなたの速さで持ってこい」


 エルドは頷いた。小さく、一度だけ。


 それからエルドは、もう一つ聞いた。


「……ほか、の……か、しん、たちは……まって、くれ、ません」


「そうだな」


「……なぜ、ですか」


「待てないのではない。待つ必要がないと思っているからだ。今すぐ答えが出る者が他にいれば、遅い者を待つ理由がない。それは、間違ってはいない」


「……ま、ちがって、は……いない」


「いない。ガルトの考えは正しい。今すぐ答えが出る方が、戦場では強い。だが」


「……だが」


「今すぐ出る答えと、三日後に出る答えは、見ている場所が違う。今すぐ出る答えは、目の前を見ている。三日後に出る答えは、目の前の奥を見ている。どちらか一方では足りない」


 エルドは少し考えていた。


「……わた、しの……こたえ、は……おく、を……みて、いる……と」


「少なくとも、谷の地形図を見る限り、そうだ」


「……でも、それ、は……わたし、が……おそい、から……おく、まで、いく、しか……ない、だけ、です」


 アレスは一瞬、黙った。それから、少し笑った。


「そういう見方もあるか」


「……す、みません……へん、な、こと、を」


「いや。面白い」アレスは言った。「遅いから奥まで行くしかない。それは弱みだと思っているかもしれないが、奥まで行ける者は少ない。速い者は手前で止まる。手前で止まれるから速い。だが奥は見えない」


 エルドは黙っていた。


「そなたの遅さは、弱みではなく道だ。遠い道だが、着く場所が違う」



 エルドが帰った後、アレスは紙をもう一度見た。


 途中で止まっている線。空白の北斜面。「記憶が曖昧」という小さな字。


 完成した紙にはなかった弱さが、この紙にはあった。だが弱さがあるからこそ、エルドが一人で考えていた時間の重さが伝わってきた。完成した紙は結果だった。この紙は過程だった。


 棚を開けた。エルドの紙が積まれている。一枚目の、関所の候補地を書いた紙。水路の橋の紙。谷の地形図。それから、何枚も。厚みが少しずつ増えている。


 その中に、今日の未完成の紙を加えた。


 端がよれていた。折り目がついていた。他の紙よりも少し小さく、少し汚れている。だが、ここにあるどの紙よりも、アレスには重く感じた。


 完成を待ってから持ってくるのではなく、途中で持ってきた。それは、エルドが初めて「一人で閉じない」ことを選んだということだ。


 紙の上では、まだ合流地点の「もう一つ」が空白のままだった。


 明日来るか。三日後に来るか。それとも、もう来ないか。分からない。


 だが、来た時に聞く。来なかったら、また待つ。


 アレスは棚を閉じて、灯りを落とした。外の月は、一昨日より少し太っていた。

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