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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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8話 孤立する主君

異変に気づいたのは、朝の廊下だった。


 アレスが執務室へ向かう途中、二人の若い家臣が柱の陰で話していた。アレスの足音に気づくと、二人は同時に口を閉じた。頭を下げる。アレスが通り過ぎると、背後でまた小声が始まった。


 聞き取れたのは一語だけだった。「外すべきだ」。


 誰を外すのか、聞かなくても分かった。



 その日の午前、タムが報告に来た。


「砦への兵の追加は完了しました。ロウからの書簡では、到着した兵の練度に問題はないとのことです」


「谷の物見は」


「二人を選んで送りました。狼煙の準備も進めています」


「よし」


 タムが少し間を置いた。何か言いたげな顔だった。


「何だ」


「……お耳に入れておくべきかどうか迷ったのですが」


「迷うくらいなら言え」


「昨夜、若い家臣たちが集まっていたそうです。ガルト殿の部屋ではなく、城下の酒場で」


「ガルトは」


「いません。ガルト殿は関わっていないようです。若い者だけで、五人ほど」


「話の中身は」


「はっきりとは分かりません。ただ、出入りした者の顔ぶれを見ると……」タムは言葉を選んでいた。「評定でエルドの紙が出された後、一番顔色が変わった者たちです」


 アレスは窓の外に目をやった。朝の光が中庭に落ちている。木の葉が風に揺れている。いつもと同じ景色だった。だが、城の中の空気は変わりつつあった。


「放っておけ」


「……よろしいのですか」


「酒場で愚痴を言うのは、家臣の権利だ。禁じれば、次は見えない場所でやる。見える場所でやっている方がまだいい」


 タムは頷いたが、顔は晴れなかった。



 昼前、アレスは城の中を歩いた。


 用があるわけではなかった。ただ、城の中の空気を自分の足で確かめたかった。


 厨房の前を通ると、ヤスが鍋を見ていた。アレスに気づいて、軽く頭を下げた。


「殿、今日は芋が少のうございましてな。汁が薄いかもしれません」


「構わん。食えれば十分だ」


「……ありがとうございます」


 ヤスの声にいつもの軽さがなかった。アレスは足を止めた。


「何かあったか」


「いえ……」ヤスは鍋をかき混ぜながら、少し考えてから言った。「厨房の若い者が、落ち着かないのです。戦になるのか、ならないのか。はっきりしない時が一番よくない」


「分かる」


「あと……殿、これは厨房の話ですが」ヤスは声を落とした。「昨日、若い家臣の一人が飯を取りに来た時に、エルドのことを聞いてきました。あの男は本当に使えるのか、と」


「何と答えた」


「知らん、と答えました。私は厨房の人間ですから」ヤスは少し笑った。「ただ、あの人は飯をきちんと食う。残さない。それだけは知っておる、と」


「そうか」


「飯を残さない人間は、信用できますよ。少なくとも厨房の人間はそう思います」


 アレスは少し頷いて、厨房を出た。


 ヤスの言葉は軽かった。だが、軽いからこそ残った。厨房にまでエルドの話が降りてきている。城の隅々まで、あの評定の空気が染みている。



 午後、詰所の前を通った時、声が聞こえた。


 若い兵たちが三人、壁に背をもたれて話していた。トーマの声だった。


「……俺は別にいいと思うけどな。殿が使うと言ってるんだから」


「お前はそう言うけどよ。戦になったら、あの人が横にいて安心できるか? 声も出ないのに」


「声が出るかどうかと、頭が回るかどうかは別だろ」


「そりゃそうだけど、戦場で紙は読めないだろうが」


 三人目が口を挟んだ。


「でも、あの谷の話は当たってたんだろ。物見を出したってことは、ガルト殿も認めたってことだ」


「認めたのと、戦場で任せるのは違うだろ」


 アレスは足を止めなかった。聞こえないふりをして、そのまま通り過ぎた。


 トーマが庇っていた。先日「怖いか」と聞いた時に「怖いです」と答えたあの若い兵が、エルドのことを「別にいいと思う」と言っていた。ただし、それは少数意見だった。残りの二人は「戦場で紙は読めない」と言っている。


 正しい懸念だとアレスは思った。ガルトも同じことを言った。評定と戦場は違う。紙に書けても、戦場では声が要る。


 その問題の答えを、アレスはまだ持っていなかった。



 城下に出た。


 門を出て、街道に沿って少し歩く。昼過ぎの城下は、いつもなら荷を運ぶ商人や畑帰りの農夫で賑わっている時間だった。だが今日は、人の動きが少なかった。


 通りの端で、女が二人立ち話をしていた。アレスの顔を見て、一人が慌てて頭を下げた。もう一人は、少し遅れてから頭を下げた。その遅れに、聞きたいことがある、という気配があった。


 アレスは足を止めた。


「何か困っていることはあるか」


 二人は顔を見合わせた。先に頭を下げた方が、おずおずと口を開いた。


「殿様、戦は……来るのでしょうか」


「分からん。来るかもしれないし、来ないかもしれない」


「来たら、ここは……」


「ここは守る。そのために砦に兵を送った」


 女は少し安堵した顔をした。だが、もう一人の方は表情が変わらなかった。


「殿様」


「何だ」


「うちの人が、殿様の兵に呼ばれるかもしれないと言っていました。畑仕事が忙しい時期で……」


「今のところ、領民から兵を募る予定はない。だが、状況が変われば分からん。その時は、できる限り配慮する」


 嘘は言えなかった。状況が悪くなれば、領民からも人を出さなければならないかもしれない。それを「大丈夫だ」とは言えない。


「配慮、というのは」


「畑仕事の時期を見て、交代で出せるようにする。全員を一度に引き上げるようなことはしない」


 女は頷いた。完全に安心した顔ではなかったが、聞けたことで少し肩の力が抜けたようだった。


 城に戻る道で、アレスは考えた。領民の不安も、家臣の不安も、根は同じだ。「この主君は、何を見ているのか。何を考えているのか」。それが見えないから、不安になる。


 見せればいいのか。だが、何を見せる。エルドの紙か。谷の地形図か。それは家臣には見せた。だが家臣たちすら、まだ半信半疑だ。


 サルナの言葉が浮かんだ。聞かせるのと、聞こえるようにするのは違う。


 見せるのと、見えるようにするのも、違うのかもしれない。



 夕刻、ガルトが来た。


 今度は酒を持っていた。小さな瓶と杯を二つ。アレスの前に置いて、黙って注いだ。


「珍しいな。そなたが酒を持ってくるのは」


「たまには」


 二人で飲んだ。しばらく無言だった。ガルトの沈黙は、いつも種類がある。今日の沈黙は、切り出すためのものではなく、ただ一緒にいるためのものだった。アレスは珍しく感じた。


「若い者が動いている、と聞いたか」


「聞いています」ガルトは杯を置いた。「酒場に集まったそうですな」


「そなたは関わっていないと聞いた」


「関わっていません。ただ……」ガルトは少し間を置いた。「止めてもいません」


「止めなかったのか」


「止める理由がないからです。家臣が不安を口にすることは、悪いことではありません。問題は、不安の向かう先です」


「エルドに向かっている」


「はい。ただし、エルドに向かっているというよりも」ガルトは言葉を選んでいた。「アレス様の判断に向かっている、と言った方が正確です」


 アレスは杯を口に運んだ。酒は辛かった。


「つまり、私が測られている」


「はい。以前と同じです。ただし、あの時より深い」


「何が違う」


「あの時は、まだ戦の気配がなかった。今は、ルッツが消え、砦に兵を送り、物見まで出した。戦が近いと全員が感じている。その状態で、主君の判断が揺れているように見えると、家中が割れます」


「揺れてはいない」


「揺れていないことを、どう見せるかです」ガルトは静かに言った。「エルドの紙は認めます。あの谷の分析は、私よりも先を見ていた。それは事実です」


 アレスは少し驚いた。ガルトがエルドの能力を、ここまではっきり認めたのは初めてだった。


「だが」ガルトは続けた。「それを家臣たちに信じさせるには、もう一つ何かが要る。紙だけでは足りない。声だけでも足りない。目に見える結果が要る」


「結果」


「谷の物見が何かを見つければ、それが結果になります。見つけなければ、エルドの分析は空振りだったと見なされる。その時は——」


「その時は、切れと言うか」


 ガルトは杯に酒を注ぎ直した。ゆっくりとした動きだった。


「……その時は、切れとは言いません」


 アレスは顔を上げた。


「ただし、戦場にはエルドを出さないでいただきたい、とは申し上げます。後方に置く。それが落としどころかと」


「後方に置いて、何をさせる」


「何もさせなくていい。ただ、戦場で声が出ない者を最前線に置けば、周囲の兵が動揺します。それだけは避けなければならない」


 アレスは黙った。


 ガルトの案は現実的だった。切れとは言わない。だが戦場には出さない。それは、エルドの能力を認めつつ、戦場での限界も認めるということだ。


 正しいかもしれない。だが、それでいいのか。


 エルドの本領は、紙の上だけで発揮されるものなのか。あの男の目を、アレスは何度も見てきた。紙に向かっている時の目と、評定で口が止まる時の目は、まるで違う。だが先日の評定で、バードに答えた瞬間の目は、紙に向かっている時よりもさらに鋭かった。あの目が、もし戦場で全体を見渡した時に開いたら。それは後方ではなく、戦場の只中でしか起きないのではないか。


 だが、それは希望であって根拠ではなかった。


「……考えておく」


「御意」


 ガルトは酒を飲み干して立ち上がった。


「もう一つ」


「何だ」


「若い者たちの不安は、私が散らします。酒場に集まるなとは言いませんが、評定の場でそれを出させないようにはします。主君が割れた家中を見せるのは、ヴァルノに付け入る隙を与えます」


「頼む」


 ガルトは頷いて、出ていった。



 夜。


 エルドは来なかった。


 いつもなら紙を持って来る時間だった。だが、廊下に足音はなく、障子の外は静かだった。


 アレスはしばらく待った。待っている自分に気づいて、少し苦笑した。待つのは自分の方だったのに、待つことに慣れてしまっている。


 しかしエルドが来ないのは珍しかった。体を壊したか。それとも、城の中の空気を感じ取って、自分から身を引いているのか。


 アレスは立ち上がり、エルドの部屋へ向かった。


 廊下は暗かった。灯りが一つだけ、遠くで揺れている。エルドの部屋の前に立つと、中に灯りがあった。障子の隙間から、わずかに光が漏れている。


 筆の音が聞こえた。書いている。


 だが、声をかけようとした時、もう一つの音に気づいた。紙を丸める音だった。書いて、丸めて、捨てている。書いて、丸めて、捨てている。同じことを繰り返している。


 書けていないのだ。


 アレスは障子の前に立ったまま、少し考えた。


 声をかけるべきか。かけなくていいのか。かければ、エルドは紙を見せるだろう。だが今夜は、見せられる紙がないのかもしれない。見せられないことを恥じているのかもしれない。


 紙を丸める音が、また一つ。


 エルドが何を書こうとしていたのか、アレスには分からない。谷の続きか。別の地形か。あるいは、全く違う何かか。書こうとして書けない夜があることを、アレスは知らなかった。いつも持ってくるから、いつも書けているのだと思っていた。


 それは、甘い見方だった。


 以前も、同じようにこの障子の前に立ったことがあった。あの時も、中から筆の音が聞こえていた。あの時は声をかけなかった。あの時の音は、止まることなく流れていた。考えながら書いている音だった。


 今夜の音は違う。書いて、止まって、丸めて、また書いて、止まって、丸める。何かに行き当たって、そこから先に進めないでいる音だった。


 アレスは障子に手をかけようとして、止めた。


 今夜は、かけない。


 ここで声をかけてしまえば、エルドは安心するかもしれない。だがそれは、「書けない夜でもアレスが来てくれる」という安心であって、「自分で書けた」という安心ではない。


 待つとは、来ないことも含めて待つことだ。


 廊下を戻りながら、アレスは考えていた。エルドが来ない夜がある。書けない夜がある。それは当たり前のことだ。毎回紙を持ってくる方がおかしい。人間には、止まる日がある。


 だが、止まっている人間を待てるかどうかが、問われている。


 自室に戻ると、窓の外に月が出ていた。欠けた月だった。満ちるまでにはまだ日がある。


 満ちる前に、何かが動くかもしれない。動いた時に、エルドが止まっていたら。


 その問いの答えを、アレスはまだ持っていなかった。

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