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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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7話 戦評定

評定の間に入った時、空気が重いことはすぐに分かった。


 家臣たちはすでに揃っていた。ガルトが上座の右手に座り、他の家臣が左右に並んでいる。末席にエルドがいる。いつもと同じ姿勢で、手元の紙に目を落としている。


 だが今日は、エルドを見る目の数が多かった。


 昨日の評定で、ルッツの消失が伝わった。戦の気配が城の中にまで染みてきている。そういう時、人間は周囲を見る。誰が頼れるか。誰が足を引っ張るか。測り始める。ガルトが言った通りだった。


 アレスは上座に座った。


「今日は、南の境の防備について二つの案を出す」


 家臣たちの視線が集まった。


「一つは、ガルトが立てた砦増強案。これは既に聞いている。もう一つは、エルドが書いた地形分析に基づく案だ」


 空気が動いた。


 ガルトは表情を変えなかった。だが他の家臣たちの間で、小さな動きがあった。隣の者と目を合わせる者。眉を上げる者。末席のエルドをちらりと見て、すぐに視線を戻す者。


 アレスはエルドの紙を広げた。五枚。机の上に順に並べた。


「まず、ガルトの案から確認する。ガルト」


 ガルトが立ち上がった。


「砦に兵二百を追加し、守将ロウの指揮下に置きます。兵糧は一月分を現地に備蓄済み。正面からの攻勢に対しては、砦を起点に迎撃し、敵を丘の手前で止める。手堅い守りです」


 家臣たちが頷く。聞き慣れた構成だった。ガルトの案はいつも堅実で、隙がない。少なくとも、隙がないように見える。


「次に、エルドの分析を出す」


 アレスは五枚の紙を家臣たちの方へ向けた。


「これはエルドが三日かけて書いたものだ。南の境の地形を、砦の周辺だけでなく、東の谷まで含めて分析している」


 一枚目の地形図を指した。


「この谷は、地図には載っていない。エルドが十年前に一度歩いた記憶をもとに描いている」


 若い家臣の一人が、小さく息をついた。信じていない、という息だった。その隣の者が地形図を覗き込んだが、すぐに顔を上げた。何が描いてあるか分からない、という顔だった。


 無理もなかった。エルドの地形図は、普通の地図とは描き方が違う。道と川と建物を記号で示す一般的な図面ではなく、地面の高さを色の濃淡で表した独自の方式だった。見慣れない者には、ただの模様に見えるだろう。


「二枚目は谷の断面図だ。幅、深さ、傾斜が描いてある」


 アレスは説明しながら、家臣たちの顔を見ていた。半数以上が、紙の内容よりもエルドの方を見ていた。「あの男が、本当にこれを?」という目だった。


「三枚目を見ろ」アレスは続けた。「谷の水量は季節によって変動する。雨季には馬が通れない。だが乾季には、歩兵二百が通れる幅がある」


 ガルトが紙を見ていた。表情は変えていない。だが、目の動きが速い。読んでいる。一枚目から三枚目まで、行ったり来たりしている。何かを確かめている目だった。


「四枚目は、兵が通れる道と通れない道の一覧だ。そして五枚目」アレスは最後の紙を指した。「エルドの結論はこうだ。ヴァルノが砦を正面から圧しながら、谷の東を歩兵で迂回する可能性がある。砦だけを固めると、横から崩される」


 沈黙が落ちた。


 長い沈黙だった。家臣たちは紙を見ている。見ているが、何を言えばいいか分からない顔だった。


 最初に口を開いたのは、ガルトだった。


「……この谷の存在を、確認した者はおりますか」


 アレスはエルドを見た。


 エルドは顔を上げていた。いつもなら下を向いている。だが今日は、紙を前に出された以上、顔を上げざるを得なかった。


「エルド、答えられるか」


 沈黙。


 エルドの喉が動いた。唇が震える。視線が宙をさまよう。いつもの光景だった。家臣たちの中に、また来た、という顔をする者がいた。


「……じゅう、ねん、まえ……に……ある、いた……とき……みず、が……くるぶし、まで……」


 声が途切れた。


「……みち、は……せまい、です、が……ふた、り、なら、び……で……」


 また途切れた。エルドの手が膝の上で震えていた。


 若い家臣が、隣の者の袖を引いた。「もういいだろう」という顔だった。


 だがガルトが、静かに言った。


「二人並びで通れる幅があるなら、隊列を組めば二百は入る」


 場が止まった。


 ガルトが、エルドの言葉を拾った。途切れた言葉の先を、ガルトが自分で繋いだ。エルドがそこまで言おうとしていたことを、ガルトは紙から読み取っていた。


「エルド」ガルトが続けた。「谷の出口は、砦の東にあるか」


「……は、い……ひがし、の……おか、の、うら……に」


「砦から見えない位置か」


「……み、えません」


 ガルトはしばらく黙った。腕を組んだ。目を閉じた。


 家臣たちは、ガルトの反応を見ていた。ガルトが否定すれば、エルドの案はここで消える。ガルトが認めれば、家中の空気が変わる。全員がそれを分かっていた。


 一人の家臣が、隣に小声で言った。「ガルト殿がどう出るか」。隣の者は黙って頷いた。この場にいる全員が、同じことを考えていた。


 ガルトが目を開いた。


「……砦の増強は予定通り行います。ただし、谷の出口に物見を置くべきかと」


 アレスは内心で息をついた。顔には出さなかった。


「物見の数は」


「二人で十分です。谷から敵が出てくるかどうかを見るだけですから。戦力を割く必要はない」


 家臣の一人が口を開いた。年配の者で、名をバードといった。


「ガルト殿、確認させてください。エルドの谷の話が正しいとして、物見を置いて敵の迂回が見えたとしても、その時にはもう正面が始まっているのでは。物見の報告が届く前に、砦が持ちこたえられますか」


 良い質問だった。アレスはバードの方を見た。この男は普段あまり発言しないが、核心を突く時がある。


 ガルトが答えようとした時、エルドが口を開いた。


「……ものみ、は……ほうこく、の、ため、では……なく……」


 場が静まった。エルドが評定で自分から発言するのは、初めてだった。


「……てき、が……たに、に、はいった……じてん、で……のろし、を……あ、げれば……さんじゅう、びょう、で……とどきます」


 声は小さかった。途切れていた。だが、言っていることは明確だった。物見は走って報告するのではない。狼煙を上げる。谷の入口から砦まで、狼煙なら視認できる距離にある。


 バードが頷いた。


「……なるほど。狼煙か」


 エルドの言葉は、そこで途切れた。それ以上は出なかった。だが、出た分だけで、バードの疑問は答えになっていた。


「エルド、それでいいか」


 エルドは少し間を置いて、頷いた。


「……は、い」


「よし。砦の増強はガルトの案通り。谷の出口に物見を二人、狼煙の準備をさせる。両方やる」


 評定が終わった。



 家臣たちが出ていく中で、アレスはエルドの顔を見た。


 エルドは立ち上がるのが遅かった。膝の上の手がまだ震えている。紙を抱えて、末席から出ようとしていた。


 若い家臣の一人が、エルドの横を通りがかった。足を止めた。


「あの谷の話、本当なのか」


 エルドが顔を上げた。


「……ほん、とう……です」


「十年前に一度歩いただけで、あそこまで描けるのか」


「……お、ぼえて、いる……ので」


 若い家臣は少し黙った。信じていいのか、まだ決めかねている顔だった。だが、馬鹿にしている顔ではなかった。


「……そうか」


 それだけ言って、出ていった。


 エルドはしばらくその場に立っていた。



 廊下で、ガルトがアレスに並んだ。


「機会を作ると言いましたな」


「そなたが作れと言った」


「まさか翌日にやるとは思いませんでしたが」ガルトの口元が、ほんの少し動いた。笑いではない。だが、不快でもなかった。「エルドの地形図は、悪くなかった」


「悪くなかった、か」


「悪くなかった、と言っています。それ以上は言いません」


 アレスは何も言わなかった。


「ただ」ガルトは続けた。「あの場で声が出なかったのは、やはり問題です。紙は読めても、あの者が口で説明できなければ、戦場では使えない。評定と戦場は違います」


「分かっている」


「分かっているなら、次の手をお考えください。私が補えるのは、評定の場だけです。戦場では、私には私の持ち場がある」


 ガルトは頭を下げて、去っていった。


 アレスは廊下に立ったまま、少し考えた。


 ガルトがエルドの言葉を拾った。あれは、アレスが頼んだわけではない。ガルトが自分の判断でやったことだ。紙を読んで、内容に価値があると認めたから、途切れた言葉の先を繋いだ。


 認めた、のだろうか。


 認めたとまでは言えないかもしれない。だが、無視しなかった。今まで無視していた者の言葉を、初めて拾った。それだけでも、昨日とは違う。



 夜、アレスは母の部屋を訪ねた。


 サルナは縫い物をしていた。足元に布を巻いて、灯りの前に座っている。アレスが入ると、針を止めずに顔を上げた。


「珍しいね、夜に来るなんて」


「少し聞きたいことがある」


「座りなさい」


 アレスは母の向かいに座った。


「父は、戦の前にどういう顔をしていた」


 サルナの手が止まった。


「……急にどうしたの」


「戦になるかもしれない。まだ分からないが、近い」


 サルナはしばらく針を見ていた。


「お父さんはね、戦の前は静かだった。普段より口数が減って、庭を歩く時間が長くなった。考えている時は、いつもそうだった」


「怖がっていたか」


「怖がっていたよ」サルナは静かに言った。「でも、怖がっていることを誰にも見せなかった。それが正しかったのかどうかは、私には分からない」


「私は見せてもいいと思っている」


「そう」サルナは少し笑った。「あなたはお父さんより正直だね」


「正直なのではなく、隠せないだけだ」


「同じことだよ」


 しばらく沈黙があった。縫い物の針が、また動き始めた。


「お母さん」


「うん」


「父が聞かなかった声を、私は聞いている。それが正しいかどうか、まだ分からない」


 サルナは針を動かしながら、アレスを見た。


「正しいかどうかは、後で分かるものだよ。今分かるのは、聞いているかどうかだけ」


 アレスは頷いた。


「聞いている」


「なら、それでいい」


 サルナの声は穏やかだった。母の声だった。それ以上でも以下でもない、ただの母親の声だった。


 少し間があった。サルナが針を止めた。


「一つだけ言っておくよ」


「何だ」


「あなたは家臣に聞いてもらいたいと思っている。エルドの声を、家中に。でもね、聞かせるのと、聞こえるようにするのは違うよ」


「……どういう意味だ」


「無理に聞かせようとすると、聞く方は耳を塞ぐ。でも、聞こえる場所に置いておけば、いつか自分から聞く人が出てくる」


 アレスは黙った。今日の評定で、自分がやったことを振り返った。エルドの紙を家臣の前に出した。ガルトの案と並べた。それは「聞かせた」のか、「聞こえる場所に置いた」のか。


 バードが自分から質問した。エルドが自分から答えた。あの瞬間は、「聞こえた」のだろう。


「……覚えておく」


「覚えておきなさい」


 部屋を出る時、サルナが背中に言った。


「ご飯はちゃんと食べなさい。戦の前に痩せる男は、お父さんで懲りたから」


 アレスは振り返らなかった。だが、少しだけ口元が緩んだ。



 自室に戻ると、机の上にエルドの紙が置いてあった。評定で使った五枚を、タムが戻しておいてくれたのだろう。


 一枚目の地形図を、もう一度見た。


 今日、あの評定で、エルドの声は初めて家臣たちの前で形になった。小さく、途切れ途切れで、まだ誰も信じてはいない。だが、聞こえた。バードが質問し、エルドが答え、ガルトが拾った。それだけのことだ。


 それだけのことが、今まで一度も起きなかった。


 アレスは紙を重ねて、棚に入れた。一枚目の時から数えて、もう何枚になったか。数えてはいない。だがその厚みが、少しずつ増えていることは分かる。


 風が窓を揺らした。南からの風は、昨日よりさらに冷たくなっていた。

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