6話 隣国の影
斥候が帰ってこなかった。
南の境に出した三人のうち、二人は予定通り戻った。残りの一人——若い男で、名をルッツといった——が、四日経っても帰らない。
ルッツはアレスが領主に就いた翌年に取り立てた男だった。街道の荷運びをしていたのを、足の速さと記憶力を買って斥候に移した。無口だが観察が細かく、戻ってくるたびに地形の変化や人の動きを正確に報告した。アレスが「そなたの目は地図より細かい」と言ったことがある。ルッツはその時だけ少し笑った。
妻がいる。子はまだいない。城下の東端に小さな家を借りていて、妻は染物をして暮らしていた。ルッツが斥候として留守にする間、妻が一人で家を守っている。アレスはそれを知っていた。知っていて、送り出した。
「死んだか」
アレスが問うと、タムが首を振った。
「分かりません。ただ、ルッツは慎重な男です。遅れるにしても連絡を飛ばすはずで」
「飛ばせなかった、ということか」
タムは黙って頷いた。
アレスは窓の外に目をやった。ルッツが最後に発った日の朝を思い出していた。「気をつけろ」とだけ言った。ルッツは「はい」とだけ答えた。それだけの別れだった。それだけで済むと思っていた。
ルッツの妻に、まだ何も伝えていない。伝えるべきか。四日で騒ぐのは早い。だが五日、六日と経てば、妻の方が先に気づく。その時どう言えばいい。「まだ分からない」は、待つ側にとって一番きつい言葉だ。
「タム、ルッツの妻に、遅れていることだけ伝えろ。理由はまだ分からないと正直に言え。飯に困るようなら、城から出す」
「……御意」
タムの声が少し低くなった。タムもルッツを知っている。一緒に走った仲だ。
朝の光がまだ薄い執務室で、アレスは地図を広げた。南の境。ガルトが砦を増強した場所。エルドが谷の地形を書いた場所。その二つの間に、ルッツが消えた。
「ガルトを呼べ」
◇
ガルトは、ルッツの件を聞いても表情を変えなかった。
「境を越えた先で捕まったのでしょう。ヴァルノの兵が南に来ているのは確かですから、斥候の一人が消えてもおかしくはない」
「殺されたと見るか」
「捕まっただけかもしれません。ヴァルノは無駄な殺しをしません。聞き出すことがあれば生かしておく」
「聞き出すこと」
「我が家の兵数、配置、領主の性格」ガルトは淡々と言った。「ルッツが話すかどうかは分かりません。ただ、話さずとも、捕まった斥候が帰ってこない、という事実自体が、ヴァルノにとっては情報になります」
「こちらが焦るのを待っている」
「はい」
アレスは地図に目を戻した。
「追加の斥候は出すな。こちらの出方を見ている時に、もう一人消えたら終わりだ」
「御意」
ガルトが出ていった後、アレスはしばらく地図を見ていた。
ヴァルノの勢力圏は、半年前と比べて明らかに南へ伸びている。小国を二つ呑んだ。
一つ目は東のモーヌ領だった。モーヌの領主は七十を超えた老人で、跡継ぎの息子が病で倒れた。ヴァルノはその隙を突いた。兵は出さなかった。使者を一人送り、「従えば禄は保つ。従わなければ、次の収穫の前に兵を送る」とだけ伝えた。モーヌの老領主は三日で降った。
二つ目は西のケルツ領だった。こちらは戦になった。ケルツの領主は若く、血気に逸って野戦を挑んだ。兵数は互角に近かった。だがヴァルノは正面から受けず、糧道を断って三日間待った。飢えた兵が崩れたところを一気に押した。ケルツの領主は戦場で死んだ。
強い者には報い、弱い者は切る。その原則を、国同士の関係にも当てはめている。そしてヴァルノは、相手に合わせて手を変える知恵がある。老人には恫喝、若者には罠。どちらにも対応できる敵は、一番始末が悪い。
アレスの領地は、次の標的になりうる。アレスは若い。ヴァルノの目には、ケルツと同じ類いに映っているかもしれない。
◇
昼の評定は、空気が違った。
ルッツの件は家臣たちの耳にも入っていた。誰が漏らしたかは分からない。だが城の中で秘密を保つのは難しい。若い家臣たちの顔が硬かった。
ガルトが報告する。南の境の現状。砦の兵数。ロウからの書簡。淡々としているが、その淡々さが逆に重さを増していた。
報告が終わった後、しばらく沈黙があった。
誰も口を開かない。普段なら「関所の収支はどうか」「街道の荷はどうか」と日常の話題で埋まる時間だ。だが今日は、誰もそれを口にしなかった。
若い家臣の一人が、ちらりとエルドを見た。
エルドは末席に座っている。いつもと同じだ。手元の紙に視線を落としている。何かを書いている。
その視線が、ガルトにも伝わった。ガルトは何も言わなかったが、アレスには分かった。あの目だ。「戦を前にして、あの者をまだ置いておくのか」という目。口には出さない。出さないが、空気が言っている。
アレスは評定を閉じた。
「各自、持ち場の備えを見直せ。兵糧の確認を急がせろ。以上だ」
家臣たちが立ち上がる中で、一人が隣の者に小声で言ったのが聞こえた。
「……戦になるのか」
「分からん。だが、なるなら……」
その先は聞こえなかった。聞かなくても分かった。「なるなら、足手まといは要らぬ」。そう言いたかったのだろう。
評定の後、ガルトが残った。
二人きりになると、ガルトは腕を組んで地図を見た。
「ヴァルノの動きが本格化すれば、評定の空気はもっと悪くなります」
「分かっている」
「若い者たちは怖がっています。戦を知らない世代です。怖い時、人間は分かりやすいものに縋る。強い将、実績のある策、目に見える武力。そういうものを求めます」
「エルドはそのどれでもない」
「はい」ガルトは正直だった。「あの者が何を書いているか、家臣たちは知りません。知っているのはアレス様だけです。それでは足りない」
「足りない、とは」
「アレス様だけがエルドを信じている状態は、アレス様が倒れたら終わるということです。主君一人の判断に全てがかかっている。それは危うい」
アレスは黙った。
ガルトの言葉は、いつも正しいところを突いてくる。感情ではなく構造を見ている。だからこそ厄介で、だからこそ聞かなければならない相手だった。
「どうすればいい」
「エルドの考えを、家臣たちの前で試す機会を作ることです。口でなくていい。紙でいい。ただし、結果が見える形で」
「結果を出す前に戦が来たら」
「その時は」ガルトは少し間を置いた。「私が切れと言います。今度は聞いていただきます」
アレスはガルトの目を見た。脅しではなかった。覚悟だった。
「……分かった。機会は作る」
ガルトは頷いて、出ていった。
◇
午後、アレスは城の北側を歩いた。
兵の詰所を見回るためだった。詰所といっても大した建物ではない。板張りの小屋が三つ並んでいるだけだ。中には武具が掛けてあり、当番の兵が二、三人ずつ座っている。
一番奥の詰所に、年かさの兵がいた。ゴウという男で、五十を過ぎている。左腕が肘から先で止まっていた。先代の時の戦で失った。以来、実戦には出ず、詰所の管理と若い兵の指導をしている。
「ゴウ」
「おお、殿」
ゴウは立ち上がった。片腕で器用に刀掛けを整えながら、アレスを迎えた。
「武具の状態はどうだ」
「槍は全部磨き直しました。弓が三張り、弦が傷んでおります。替えを出してよろしいですか」
「出せ。足りなければ言え」
「ありがとうございます」
アレスは詰所の中を見回した。壁に掛かった槍の列。並べ方が揃っている。穂先が全て同じ向きを向いている。ゴウの仕事だった。
「若い連中の腕はどうだ」
「まあ……当たらぬ者は当たりませんが」ゴウは少し笑った。「走るのだけは速い。逃げ足とも言いますが」
「逃げ足が速いのは悪いことではない。生き残れる」
「殿がそう言ってくださると、連中も喜びます」
アレスはゴウの腕を見た。見たことは何度もある。だが今日は、少し違うことを考えていた。
「ゴウ、戦になったら、そなたはどうする」
ゴウは少し黙った。
「出ます」
「片腕で」
「片腕でも槍は持てます。振り方が少し変わるだけで」
「無理はさせたくない」
「無理ではありません」ゴウの声は静かだった。「殿が禄を下さっている間は、この腕が動く限り、出ます。それが筋です」
アレスはそれ以上止めなかった。止める言葉を探したが、ゴウの目を見て、やめた。
「分かった。ただし最前線には出すな。後方の指揮を任せる」
「……御意」
ゴウは頭を下げた。その顔に、少し安堵があった。最前線に出る覚悟はしていたが、後方を任されたことで、別の形で役に立てると分かったのだろう。
詰所を出る時、ゴウが背中に声をかけた。
「殿」
「何だ」
「若い連中にも、一声かけてやってください。殿に声をかけてもらえると、あいつらは三日間やる気が保ちます」
「三日か」
「三日で十分です。その次はまた来てください」
アレスは少し笑った。この戦の前に、笑えたのはこれが最後かもしれなかった。
隣の詰所に入ると、若い兵が三人、槍の手入れをしていた。アレスの顔を見て慌てて立ち上がる。
「座れ。続けろ」
三人はぎこちなく座り直した。一番若い男は、まだ十七か十八に見えた。手が震えている。槍の穂先を布で拭く手つきが、ぎこちない。
アレスはその男の隣に座った。
「名は」
「ト、トーマです」
「トーマ、初陣か」
「は……まだ分かりません。戦に、なるかどうか」
「なるかもしれん」
トーマの顔がこわばった。
「怖いか」
「……はい」
「正しい。怖くない兵は、先に死ぬ」
トーマが顔を上げた。
「怖いまま動け。それだけでいい。怖くなくなる必要はない」
隣の二人も黙って聞いていた。アレスは立ち上がった。
「槍の手入れは丁寧だ。その調子でやれ」
それだけ言って出た。背後で三人が何か話し始めたのが聞こえた。声が、入った時より少し明るくなっていた。
◇
夜。
エルドが紙を持ってきた。
今回は五枚あった。南の境の地形を描いた図。谷の断面図。水量の季節変動。兵が通れる道と通れない道の一覧。そして最後の一枚に、こう書いてあった。
「……ヴァルノが来るとすれば、こちらの砦を正面から圧しながら、谷の東を歩兵で迂回する。馬は通れない。歩兵だけなら二百は入る。砦だけを固めると、横から崩される」
エルドの字だった。几帳面で、小さい。だが書いてあることは、ガルトの砦増強案の弱点を突いていた。
アレスは紙を机に並べた。
「これは、いつから考えていた」
「……さ、ん……にち、まえ……から」
「三日前」
「……あの、ひ……アレス、さまが……み、なみの、きょうの……ちけいに、ついて……きいた、とき、から」
三日前の評定で、アレスが「書いてこい」と言った時からだ。
「この谷を、歩いたことがあるか」
「……じゅう、ねんまえ、に……いち、ど」
「十年前の記憶か」
「……ちず、には……のって、いません……でも……おぼ、えて、います」
アレスはしばらく考えた。十年前の記憶で、地図にない谷の地形を覚えている。それを三日かけて紙に起こした。口では言えない。だが紙には、これだけのことが書ける。
「明日、ガルトにこれを見せる」
「……また……わたし、の、な、まえで……ですか」
「当然だ」
エルドは少し俯いた。
「ガルトの案と、ぶつかるかもしれない」
「……は、い」
「ぶつかっていい。二つの見方がある方が、正しい判断ができる。そなたが遠慮することではない」
エルドは黙った。長い間があった。
「……わ、かり……ました」
エルドが出ていった後、アレスは五枚の紙をもう一度読んだ。
谷の東。歩兵の迂回。砦の死角。
一枚目の地形図は、見たことのない精度だった。等高線の引き方が独特で、高さの変化を色の濃淡で示している。地図師が描いたものとは違う。地形を目で見て覚えた人間が、記憶の中にある立体を紙の上に押し出したような図だった。
三枚目の水量の季節変動に目が止まった。「雨季の三日目から五日目に水位が最も高くなり、馬はおろか荷車も通れない」と書いてある。十年前にたった一度歩いただけの谷の、水の動きまで覚えている。
ガルトの案は厚い守りだった。砦を固め、正面の圧力を受け止める。実績のある手であり、家臣たちが納得する策だった。
エルドの案は、敵の足を読んだ守りだった。「正面が厚いと分かれば、ヴァルノは正面を避ける。避けた先に何があるか」を見ている。誰も見ていない場所を見ている。
どちらも正しい。だが、どちらか一方しか見ていなければ、穴が空く。
ヴァルノという男は、穴を見つける人間だ。ケルツの若い領主は、正面しか見ていなかったから死んだ。
アレスは紙を畳み、明日の評定の資料に加えた。
昼間のガルトの言葉が、まだ頭に残っていた。「エルドの考えを、家臣たちの前で試す機会を作れ」。ならば明日の評定で、この五枚を家臣の前に出す。エルドの名で。ガルトの案と並べる形で。
ぶつかるだろう。だが、ぶつからなければ、エルドの考えは永遠に誰にも見えないままだ。
窓の外では、風が変わり始めていた。南から吹く風が、少し冷たくなっている。季節が変わる。その前に、何かが動く。
動く前に、見ておかなければならないものがある。アレスはそれを、家中で自分だけが見ている自信はなかった。だが、自分だけが聞いている声があることは、知っていた。




