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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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4話 切れと言われた

ガルトが改まって来たのは、見回りから三日後だった。


 朝の執務が終わり、アレスが昼の茶を飲もうとしていた時だった。障子の外でタムの声がして、ガルトが来ていると告げた。


「通せ」


 ガルトは一人で入ってきた。いつもより少し改まった顔をしていた。正座して、背筋を伸ばす。こういう入り方をする時は、言いにくいことを正式に言いに来ている。雑談ではない。


 アレスは茶を置いた。


「何だ」


「申し上げます」ガルトは一拍置いた。「エルドを、切っていただきたい」


 部屋の空気が変わった、というより、アレスの中で何かが静まった。


「理由を聞こう」


「先日の評定で、エルドの案が使われました。それ自体は結構なことです」ガルトの声は穏やかだった。感情的ではない。だからこそ、重かった。「しかし、その後の家中の空気が、よくない」


「続けろ」


「若い家臣たちの間で、あれはアレス様がエルドに書かせたのだ、という話が出ております。エルドが自分で考えたとは、信じていない者が多い」


「信じなければ、次も出せばいい。そう言った」


「はい、おっしゃいました」ガルトは頷いた。「ですが、それを待つ間に、別の問題が起きております」


 アレスは黙って続きを待った。


「エルドを庇うアレス様を、若い者たちが測りはじめております。主君が情に流されているのか、それとも何か見えているものがあるのか、と。今はまだ静観しておりますが、ヴァルノの動きが大きくなれば、そうはいかない。戦を前にして、家中が主君を測っているというのは、よくない状態です」


 それは正しい指摘だった。アレスはそれを分かっていた。


「だからエルドを切れ、と」


「左様です。情の問題ではございません。家中の統率の問題です」ガルトは続けた。「弱い者を庇うことと、弱い者に引きずられることは、違います。今の家中には、その区別がついていない。アレス様がどちらなのか、見えていない」


「私がどちらだと、そなたは思う」


 ガルトは少し間を置いた。


「……正直に申し上げれば、まだ分かりかねます」


 アレスは少し驚いた。ガルトがそういう答え方をするとは思っていなかった。


「分からぬのか」


「はい。エルドの紙は確かに鋭かった。しかし、評定でああいう姿を見続けると、どうしても信じ切れない。紙と評定で、あれほど差が出る者を、私はこれまで見たことがない」


「だから信じられない」


「……見たことがないものは、信じにくい」


 それは正直な言葉だった。アレスはそれを、悪いとは思わなかった。


 しばらく沈黙があった。


 アレスは窓の外を見た。中庭の木が、風に揺れている。先代が植えた木だ。父はこの木が好きで、よく縁側に座って眺めていた。


「ガルト、そなたは長くこの家にいる」


「はい」


「父の代から、どれほど人を切ってきた」


 ガルトは少し黙った。


「……何人か」


「切った人間の中に、切るべきでなかった者はいたか」


 ガルトの表情が、わずかに動いた。


「……それは」


「答えなくていい」アレスは視線を戻した。「だが私は、切ってから後悔したくない。エルドを切った後で、あれは切るべきではなかったと思いたくない」


「しかし今のままでは」


「家中が私を測っているというのは分かった」アレスは静かに言った。「だが、測らせておけばいい。私が情に流れているのか、それとも見えているものがあるのか——答えは、これから出る」


 ガルトは口を開きかけて、閉じた。


「エルドは切らぬ。これは変わらない」


「……御意」


 ガルトは頭を下げた。しかしその顔は、納得した顔ではなかった。それでいいとアレスは思った。納得させようとは思っていない。



 その日の夕方、アレスはエルドの部屋の前まで行った。


 用があったわけではない。ただ、ガルトと話した後で、エルドの顔を見ておきたかった。理由はうまく言えない。確かめたかった、というのが近いかもしれない。何を確かめるのかは、自分でも分からなかった。


 障子の向こうに灯りがあった。起きている。


 声をかけようとして、止まった。


 中から音が聞こえた。筆が紙を走る音だった。止まって、また走る。止まって、また走る。一定のリズムではなく、考えながら書いている音だった。


 アレスはそのまま廊下に立っていた。


 誰にも頼まれていない。評定もない。見回りでもない。それでもエルドは書いている。今夜も、どこかの問いに向かって、一人で紙に向き合っている。


 障子は叩かなかった。


 そのまま廊下を戻りかけて、ふと足が止まった。戻って、障子の前に立つ。


「エルド」


 筆の音が止まった。


「……は、い」


「明日の評定に出ろ。いつも通り末席でいい。ただ、出ろ」


 少し間があった。


「……わ、かり……ました」


 また間があった。今度は長かった。障子の向こうで、エルドが何か言おうとしているのが分かった。


「……あの」


「何だ」


「……きょう……ガ、ルト、さま、が……こ、られた、と……き、いた、の、です、が」


 アレスは少し考えた。タムから聞いたのだろう。タムの口が軽いのは、母から聞いていた。


「来た」


「……わ、たし、の……こと、で……です、か」


「そうだ」


 長い沈黙があった。


「……も、うしわけ……ございません」


「謝るな」


「……で、も」


「エルド」アレスは障子に向かって言った。「そなたが謝ることは何もない。ガルトと私の話は、私とガルトの間で決める。そなたには関係ない」


「……かん、けい、ない……です、か」


「ない。そなたは書いていろ」


 また間があった。それから、小さく。


「……は、い」


「以上だ」


 それだけ言って、アレスは廊下を歩いた。歩きながら、障子の向こうでまた筆の音が始まるのを聞いた。



 翌朝の評定は、ヴァルノの動向についてだった。


 斥候の報告によれば、隣国の兵が南の境に集まりつつあるという。まだ動いてはいない。しかし、動く前の空気というのがある。その空気が、じわじわと国境を越えてきている、という報告だった。


 家臣たちの顔が、昨日より少し固かった。


 ガルトが口を開いた。


「境の砦を増強すべきかと。兵を二百、回します」


「砦の守将は誰だ」


「ロウという男です。堅実な守りができます」


「兵站は」


「一月分は現地に備蓄があります。延びるようであれば追加を」


 話が進む中で、アレスはちらりとエルドを見た。


 エルドは末席に座って、手元の紙に何かを書いていた。顔は下を向いている。いつもと同じ姿勢だった。だが今日は、その手が止まらなかった。筆が動き続けている。


 評定が一区切りついたところで、アレスが口を開いた。


「エルド」


 場が静まった。また、という空気があった。


 エルドは顔を上げた。


「……は、い」


「南の境の地形について、そなたの見方を聞きたい。今日でなくていい。書いてこい」


 エルドは少し固まった。それから、小さく頷いた。


「……か、しこ、まり、ました」


 評定はそれで終わった。


 廊下に出ると、ガルトがアレスの隣に並んだ。しばらく無言で歩いた。階段を下りて、中庭に出たところでガルトが口を開いた。


「……昨日申し上げたことは、撤回しません」


「分かっている」


「エルドを使い続けるなら、結果を出してもらわなければ困る。家中が納得できる結果を」


「出る」


「……根拠は」


「勘だ」


 ガルトは少し黙った。


「勘、ですか」


「長く人を見ていれば、分かることがある。そなたにも、あるだろう」


「……私の勘は、切れと言っています」


「私の勘は、待てと言っている」


 また沈黙があった。中庭の木が風に揺れた。


「ガルト、一つ聞く」


「はい」


「そなたが今まで切った者の中で、後から惜しいと思った者はいるか」


 ガルトは少し歩みを止めた。止まったのは一瞬で、またすぐ歩き出した。


「……一人、います」


「どういう男だった」


「口が達者で、仕事は遅く、周囲との折り合いが悪かった。先代の時に切りました。ただ……あとから、あの男が残した書き物を読んで、少し後悔しました。仕事は遅かったが、考えは深かった」


 アレスは何も言わなかった。


「だからといって、エルドが同じだとは言いません」ガルトは続けた。「あの男は口が立った。エルドとは違う」


「違う」


「……はい」


「だが、そなたはもう一度、切った後で後悔したくない、とは思っているだろう」


 ガルトはしばらく黙った。


「……そのために、昨日申し上げました」


「分かっている」アレスは頷いた。「そなたが私を止めに来たのは、そういう理由もあると思っていた」


 ガルトはそれ以上何も言わなかった。中庭の木が、また風に揺れていた。



 夜、エルドが来た。


 紙を三枚持っていた。南の境の地形を、三方向から分析したものだった。砦の位置、街道の幅、丘の高さ、川の深さ。兵が動くとすればどの道を通るか、どこで止められるか。ガルトが「砦を増強する」と言った場所とは、少し違う見方をしていた。


 アレスは黙って読んだ。


「砦より、こちらの丘の方が守りやすいと見ているか」


「……は、い。す、などめ、に……な、って……き、どうが……お、そく、なる」


「砦を捨てるのか」


「……す、てる、ので、は……な、くて……す、などめ、の……ほう、を……お、もく、する」


「なるほど」


 アレスはしばらく考えた。ガルトの案と、エルドの案。どちらも間違っていない。ただ、見ている場所が違う。ガルトは守りの厚さを見ている。エルドは敵の足を見ている。


「明後日の評定で、これを出す。そなたの名で」


「……ま、た、です、か」


「また、だ」


 エルドは少し黙った。


「……か、じゅう……で、はない、です、か」


「家中のことか」


「……みな、が……わたし、を……しん、じて、いな、い……こと、は……わ、かって、います」


「分かっているなら、どうだ」


「……き、に、なります」アレスが聞き返す前に、エルドが続けた。「……わた、し、の、せい、で……アレ、ス様、が……む、ずかし、い、たち、ばに……な、って、いる、の、では、ない、か……と」


 アレスは少し意外に思った。エルドがそこまで見ているとは、思っていなかった。


「見えているのか」


「……す、こし……」


「そうだ。難しい立場に、なっている」


 エルドが顔を上げた。アレスが認めるとは思っていなかったのだろう。


「だが、エルド」アレスは続けた。「私が難しい立場に立つのは、そなたのせいではない。それを選んでいるのは私だ。そなたは関係ない」


「……で、も」


「関係ない。そなたが気にするのは、地形と敵の動きだけでいい。家中のことは、私が気にする。それが主君の役目だ」


 エルドは長い間、黙っていた。


 灯りが揺れた。外は静かだった。


「……わ、かり……ました」


 声は小さかった。だが、揺れていなかった。


 アレスは紙を折り直した。


 ガルトの言葉が、まだ耳に残っていた。私の勘は切れと言っている。それは本物の言葉だとアレスは思っていた。ガルトは長く人を見てきた。その勘を、軽く見るつもりはない。


 ただ、アレスの勘も、本物だった。


 どちらが正しいかは、これから分かる。

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