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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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3話 主君の足

月に二度の見回りは、雨でもやめなかった。


 家臣たちはそれを知っているから、雨の朝には誰かが必ず「今日はお待ちになっては」と言いに来る。アレスは毎回断る。理由は一度だけ言ったことがある。晴れの日の領内しか知らなければ、晴れの日の政しかできない。それ以来、家臣たちは止めるのをやめた。止めても無駄だと分かったからだろう。


 今日は曇りだった。


 出がけに廊下でエルドと行き合った。エルドは何か書いたものを抱えて、どこかへ向かうところだったらしい。アレスと目が合うと、すぐに頭を下げた。


「どこへ行く」


「……し、ょこ、に……この、まえ、の……すい、ろの……」


「書庫か。後でいい。来い」


「……え」


「見回りだ。一緒に来い」


 エルドは少し固まった。見回りに同行したことは、これまでなかった。軍略方が領内を歩くのは、地形を把握するという意味では筋が通っている。だがエルドにとっては、おそらくそういう理屈より先に、外を歩くこと自体が久しぶりなのではないかとアレスは思った。


「嫌か」


「……い、いえ」


「では来い」



 城下を出て、まず北の集落へ向かった。


 タムが後ろに続く。エルドはその少し前、アレスの斜め後ろを歩いた。歩幅が小さい。石畳の継ぎ目を一つ一つ確かめるように歩く。


 集落の入り口近くで、子どもが数人、泥の中で何かを作っていた。近づくと、溝を掘って水を流す遊びをしていた。小さな川を作ろうとしているらしかった。


「うまくいかぬか」


 アレスが声をかけると、子どもの一人が顔を上げた。七つか八つの男の子だった。


「水が曲がってこっちに来ない」


「どこで曲げたい」


「あそこの石の手前」


 アレスはしゃがんで溝を見た。水は石の手前で広がって、ぼんやりと消えている。溝が浅すぎる。


「もう少し深く掘れ。広げてはいかぬ。深く、細く掘るんだ」


「こう?」


「そうだ。水は細い道の方が速く流れる」


 男の子は真剣な顔で溝を掘り直した。水がすっと石の方へ向かう。子どもたちが声を上げた。


 アレスは立ち上がった。


 横を見ると、エルドが少し離れたところで、子どもたちが作った溝の全体をじっと見ていた。視線がゆっくりと動いている。溝の流れを、どこかで計算しているような目だった。


「エルド」


「……は、い」


「何を見ている」


 少し間があった。


「……こ、どもの……つく、る、みぞ、は……ひく、いほう、へ……なが、れる、だけ、で……む、だが、ない……と、おもって」


「無駄がないか」


「……おと、なが……つく、る、と……き、れいに、しよ、うと、して……な、がれを……じゃ、まする、こと、が、ある」


 アレスはもう一度溝を見た。確かに、子どもの掘った溝は曲がりくねっているが、低いところへ低いところへと、迷わず向かっている。


「そうだな」


 エルドは何も言わなかった。ただ、また溝を見た。



 集落の奥へ進むと、一軒の家の前で女が二人、言い合いをしていた。


 片方は四十がらみの女で、もう片方は六十を超えていそうな老婆だった。聞こえてくる声から察するに、畑の水の引き方で揉めているらしかった。老婆の畑に水が来ない、女の引き方が悪い、いや去年からそうやっている、という話だった。


 アレスが近づくと、二人とも口をつぐんだ。領主だと分かって頭を下げる。


「続けろ。聞いている」


 二人は顔を見合わせた。女の方が先に口を開いた。


「あの、畑の水なんですが……」


「聞こえていた。どっちの畑が上にある」


「私の方が少し上です」


「水の引き方を変えたのはいつだ」


「去年の秋から……夫が足を悪くしたので、楽な方法に変えまして」


「老婆の畑にはいつから水が来なくなった」


「今年の春から……」老婆が言った。「去年の秋から変わったなら、冬は水が要らないから気づかなんだ」


「なるほど」アレスは少し考えた。「水路の分岐に石を一つ入れれば、両方に流れる。やってみろ」


「石を……どのくらいの大きさで」


「それは自分で試せ。大きすぎれば上の畑も止まる。小さければ足りない。何度かやれば分かる」


 女は少し不満そうな顔をした。答えをもらえると思っていたのだろう。老婆は黙っていた。


「うまくいかなければまた言え。城の者を寄越す。ただし、まず自分でやってみろ」


 アレスはそう言って歩き出した。二人が頭を下げる気配が後ろにあった。


 少し行ってから、タムが小声で言った。


「答えを教えてやればよかったのでは」


「石の大きさなど、実際にやってみなければ分からぬ。私が言っても当てずっぽうだ」


「……そういうものですか」


「そういうものだ」


 後ろでエルドが、老婆の畑の方をちらりと見ていた。何かを確かめるように、水路の流れを目で追っている。



 昼を過ぎた頃、街道沿いの小屋の前を通った。


 小屋の前に男が座っていた。三十前後に見えるが、片足がない。膝から下が、きれいに無い。古い戦傷だった。この領地の兵ではない。流れてきた者だろうとアレスは思った。


 男はアレスたちに気づくと、目を伏せた。厄介ごとを持ち込まれると思ったのかもしれない。


「ここに住んでいるのか」


「……はい」男は顔を上げなかった。「邪魔でしたら、出ていきます」


「邪魔だとは言っていない。飯は食えているか」


 男は少し黙った。


「……なんとか」


「なんとかというのは、食えているのか、食えていないのか」


「……食えない日も、あります」


 アレスはタムを見た。タムが頷いて、小袋を取り出した。銭が入っている。


「今日はこれを持っていけ。城下の東に、仕事を世話する者がいる。明日、そこへ行け」


「しかし私は足が」


「足がなくてもできる仕事はある。手はあるか」


「……あります」


「では行け」


 男は受け取った小袋をしばらく見ていた。それから、地面に額をつけるようにして頭を下げた。声が出なかった。


 アレスは小屋の前を離れた。


 エルドが横に並んだ。珍しかった。いつもは斜め後ろにいる。


「……あの、ひと、は……あし、が……」


「ない」


「……それで、も……し、ごと、が……ある、のです、か」


「作る」


 エルドは少し黙った。


「……つく、る」


「ない仕事を作る。それも主君の役目だ」


 エルドはそれ以上何も言わなかった。でも、歩きながら何かを考えている顔だった。アレスはそれを横目で見て、何も言わなかった。




 夕餉の前、アレスは城の帳場へ寄った。


 帳場は禄や物資の管理をする場所で、今日は月末の締めをやっていた。帳場を預かるのはセイという名の四十がらみの男で、生真面目な人物だった。数字に強く、誤魔化しが嫌いで、自分にも他人にも厳しい。


「今月はどうだ」


「は、概ね問題ございません」セイは帳面を開いた。「ただ、一点ご報告が。南の村の税が少し足りておりません。去年の不作の影響が、まだ残っているようで」


「どのくらい足りない」


「銭にして、おおよそここに書いた分です」


 アレスは数字を見た。


「分かった。今年の分は待つ。来年、少しずつ収めさせろ」


「……よろしいのですか」


「踏み倒されるような額ではない。無理に取り立てれば村が痩せる。痩せた村は来年も払えない」


 セイは少し考えてから頷いた。


「御意。そのように伝えます」


「あと、南の村の子どもで、字を読める者はいるか」


「……字を? さあ、確かめておりませんが」


「調べてくれ。読める子がいれば、城下の寺子屋に通わせる。費用は城が出す」


 セイの筆が止まった。


「それは……南の村の、ですか」


「南に限らない。城下から遠い子は通えていないだろう。順に調べてくれ」


「……かしこまりました」


 セイは帳面に何かを書き加えた。筆を走らせながら、少し困ったような、しかし嫌いではない顔をしていた。


 アレスが帳場を出ると、廊下にエルドがいた。


 書庫へ向かう途中だったらしい。アレスを見て、また頭を下げる。


「聞いていたか」


「……す、こし……」


「どう思う」


 エルドは少し考えた。今日の見回りを経てか、少しだけ間の取り方が変わった気がした。焦らずに、自分のペースで考えている。


「……みな、みの、む、らが……らい、ねん……はら、えれ、ば……むき、の……ご、ちそうは……でな、い、ですが……む、らが、いき、のこ、れば……さ、らい、ねん、も……み、おさめ、が……つづ、く」


「そうだ」


「……こ、どもに……よ、みかき、を……おし、えれ、ば……」


 エルドは少し口をつぐんだ。


「……す、ぐには……やく、に、たたな、い……けれ、ど」


「十年後に立つ」


「……は、い」アレスの言葉を引き取って、エルドは静かに言った。「……じゅう、ねん、ご、に」


 廊下に夕方の光が差していた。細く、やわらかい光だった。


「そなたが今日見たもの、覚えておけ」


「……み、まわり、を……です、か」


「領内に何があるか、誰がいるか。それを知っていれば、机の上の数字が変わって見える」


 エルドは頷いた。言葉にはしなかったが、今日一日で何かを掴んだ顔をしていた。


「では行け」


「……は、い」


 エルドは書庫へ向かった。小さな歩幅で、でも今朝よりは少し迷いのない足取りで。


 アレスはその背中を少し見てから、夕餉の間へ向かった。



 城へ戻る道は、来た道と少し違う裏道を通った。


 夕方の風が吹き始めていた。麦畑が揺れる。遠くで鳥が鳴いた。タムが後ろで欠伸を噛み殺している。


 しばらく歩いて、エルドが口を開いた。


 唐突だった。歩きながら、前を向いたまま言った。


「……あなた、は……な、ぜ……そこ、まで」


 アレスは足を止めなかった。


「何がだ」


「……こど、もの……みぞ、も……ふた、りの……おんな、も……あし、のない……おとこ、も……みん、な、に……じかん、を……つか、う」


「使う」


「……なぜ、です、か」


 アレスはしばらく黙った。うまく答えられない問いというのがある。これはそういう問いだった。


「分からぬ」


 エルドが少し顔を上げた。


「見えれば気になる。それだけのことだ。理由はない」


 エルドは黙った。しばらく歩いた。


「……わた、し、は……きょう……お、ばあさん、の……はたけ、の……みずを……み、て……」


 声が途切れた。また続く。


「……あの……みず、は……た、ぶん……い、しを、いれ、ても……す、ぐには……なお、らな、い、と……おもい、ました」


 アレスは少し驚いた。


「なぜ」


「……ぶん、きの……かたち、が……む、ずかし、くて……い、しの……お、きかた、に……な、れる、まで……す、こし……かかる、と……おも、って」


「そうかもしれぬ」


「……で、も……あなた、は……じ、ぶんで、やれ、と……い、った」


「言った」


「……そ、れは……な、おし、てや、らな、い、の、では、なく、て……じ、ぶんで……で、きる、と……おも、って、いる、から……です、か」


 アレスはその問いを少し持った。


「そうだ」


 エルドはそれ以上何も言わなかった。でも、今度は考えている顔ではなかった。何かが腑に落ちた、という顔だった。


 城の門が見えてきた。タムがほっとしたような息をついた。エルドはまた斜め後ろに下がって、小さな歩幅で石畳を踏んでいる。


 門をくぐる時、エルドが小さく言った。


「……きょう、は……あり、がと……ございました」


「また来い」


「……み、まわり、に、です、か」


「そうだ」


 エルドは少し間を置いた。


「……は、い」


 返事は短かったが、今日一番はっきりした声だった。

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