3話 主君の足
月に二度の見回りは、雨でもやめなかった。
家臣たちはそれを知っているから、雨の朝には誰かが必ず「今日はお待ちになっては」と言いに来る。アレスは毎回断る。理由は一度だけ言ったことがある。晴れの日の領内しか知らなければ、晴れの日の政しかできない。それ以来、家臣たちは止めるのをやめた。止めても無駄だと分かったからだろう。
今日は曇りだった。
出がけに廊下でエルドと行き合った。エルドは何か書いたものを抱えて、どこかへ向かうところだったらしい。アレスと目が合うと、すぐに頭を下げた。
「どこへ行く」
「……し、ょこ、に……この、まえ、の……すい、ろの……」
「書庫か。後でいい。来い」
「……え」
「見回りだ。一緒に来い」
エルドは少し固まった。見回りに同行したことは、これまでなかった。軍略方が領内を歩くのは、地形を把握するという意味では筋が通っている。だがエルドにとっては、おそらくそういう理屈より先に、外を歩くこと自体が久しぶりなのではないかとアレスは思った。
「嫌か」
「……い、いえ」
「では来い」
◇
城下を出て、まず北の集落へ向かった。
タムが後ろに続く。エルドはその少し前、アレスの斜め後ろを歩いた。歩幅が小さい。石畳の継ぎ目を一つ一つ確かめるように歩く。
集落の入り口近くで、子どもが数人、泥の中で何かを作っていた。近づくと、溝を掘って水を流す遊びをしていた。小さな川を作ろうとしているらしかった。
「うまくいかぬか」
アレスが声をかけると、子どもの一人が顔を上げた。七つか八つの男の子だった。
「水が曲がってこっちに来ない」
「どこで曲げたい」
「あそこの石の手前」
アレスはしゃがんで溝を見た。水は石の手前で広がって、ぼんやりと消えている。溝が浅すぎる。
「もう少し深く掘れ。広げてはいかぬ。深く、細く掘るんだ」
「こう?」
「そうだ。水は細い道の方が速く流れる」
男の子は真剣な顔で溝を掘り直した。水がすっと石の方へ向かう。子どもたちが声を上げた。
アレスは立ち上がった。
横を見ると、エルドが少し離れたところで、子どもたちが作った溝の全体をじっと見ていた。視線がゆっくりと動いている。溝の流れを、どこかで計算しているような目だった。
「エルド」
「……は、い」
「何を見ている」
少し間があった。
「……こ、どもの……つく、る、みぞ、は……ひく、いほう、へ……なが、れる、だけ、で……む、だが、ない……と、おもって」
「無駄がないか」
「……おと、なが……つく、る、と……き、れいに、しよ、うと、して……な、がれを……じゃ、まする、こと、が、ある」
アレスはもう一度溝を見た。確かに、子どもの掘った溝は曲がりくねっているが、低いところへ低いところへと、迷わず向かっている。
「そうだな」
エルドは何も言わなかった。ただ、また溝を見た。
◇
集落の奥へ進むと、一軒の家の前で女が二人、言い合いをしていた。
片方は四十がらみの女で、もう片方は六十を超えていそうな老婆だった。聞こえてくる声から察するに、畑の水の引き方で揉めているらしかった。老婆の畑に水が来ない、女の引き方が悪い、いや去年からそうやっている、という話だった。
アレスが近づくと、二人とも口をつぐんだ。領主だと分かって頭を下げる。
「続けろ。聞いている」
二人は顔を見合わせた。女の方が先に口を開いた。
「あの、畑の水なんですが……」
「聞こえていた。どっちの畑が上にある」
「私の方が少し上です」
「水の引き方を変えたのはいつだ」
「去年の秋から……夫が足を悪くしたので、楽な方法に変えまして」
「老婆の畑にはいつから水が来なくなった」
「今年の春から……」老婆が言った。「去年の秋から変わったなら、冬は水が要らないから気づかなんだ」
「なるほど」アレスは少し考えた。「水路の分岐に石を一つ入れれば、両方に流れる。やってみろ」
「石を……どのくらいの大きさで」
「それは自分で試せ。大きすぎれば上の畑も止まる。小さければ足りない。何度かやれば分かる」
女は少し不満そうな顔をした。答えをもらえると思っていたのだろう。老婆は黙っていた。
「うまくいかなければまた言え。城の者を寄越す。ただし、まず自分でやってみろ」
アレスはそう言って歩き出した。二人が頭を下げる気配が後ろにあった。
少し行ってから、タムが小声で言った。
「答えを教えてやればよかったのでは」
「石の大きさなど、実際にやってみなければ分からぬ。私が言っても当てずっぽうだ」
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
後ろでエルドが、老婆の畑の方をちらりと見ていた。何かを確かめるように、水路の流れを目で追っている。
◇
昼を過ぎた頃、街道沿いの小屋の前を通った。
小屋の前に男が座っていた。三十前後に見えるが、片足がない。膝から下が、きれいに無い。古い戦傷だった。この領地の兵ではない。流れてきた者だろうとアレスは思った。
男はアレスたちに気づくと、目を伏せた。厄介ごとを持ち込まれると思ったのかもしれない。
「ここに住んでいるのか」
「……はい」男は顔を上げなかった。「邪魔でしたら、出ていきます」
「邪魔だとは言っていない。飯は食えているか」
男は少し黙った。
「……なんとか」
「なんとかというのは、食えているのか、食えていないのか」
「……食えない日も、あります」
アレスはタムを見た。タムが頷いて、小袋を取り出した。銭が入っている。
「今日はこれを持っていけ。城下の東に、仕事を世話する者がいる。明日、そこへ行け」
「しかし私は足が」
「足がなくてもできる仕事はある。手はあるか」
「……あります」
「では行け」
男は受け取った小袋をしばらく見ていた。それから、地面に額をつけるようにして頭を下げた。声が出なかった。
アレスは小屋の前を離れた。
エルドが横に並んだ。珍しかった。いつもは斜め後ろにいる。
「……あの、ひと、は……あし、が……」
「ない」
「……それで、も……し、ごと、が……ある、のです、か」
「作る」
エルドは少し黙った。
「……つく、る」
「ない仕事を作る。それも主君の役目だ」
エルドはそれ以上何も言わなかった。でも、歩きながら何かを考えている顔だった。アレスはそれを横目で見て、何も言わなかった。
◇
夕餉の前、アレスは城の帳場へ寄った。
帳場は禄や物資の管理をする場所で、今日は月末の締めをやっていた。帳場を預かるのはセイという名の四十がらみの男で、生真面目な人物だった。数字に強く、誤魔化しが嫌いで、自分にも他人にも厳しい。
「今月はどうだ」
「は、概ね問題ございません」セイは帳面を開いた。「ただ、一点ご報告が。南の村の税が少し足りておりません。去年の不作の影響が、まだ残っているようで」
「どのくらい足りない」
「銭にして、おおよそここに書いた分です」
アレスは数字を見た。
「分かった。今年の分は待つ。来年、少しずつ収めさせろ」
「……よろしいのですか」
「踏み倒されるような額ではない。無理に取り立てれば村が痩せる。痩せた村は来年も払えない」
セイは少し考えてから頷いた。
「御意。そのように伝えます」
「あと、南の村の子どもで、字を読める者はいるか」
「……字を? さあ、確かめておりませんが」
「調べてくれ。読める子がいれば、城下の寺子屋に通わせる。費用は城が出す」
セイの筆が止まった。
「それは……南の村の、ですか」
「南に限らない。城下から遠い子は通えていないだろう。順に調べてくれ」
「……かしこまりました」
セイは帳面に何かを書き加えた。筆を走らせながら、少し困ったような、しかし嫌いではない顔をしていた。
アレスが帳場を出ると、廊下にエルドがいた。
書庫へ向かう途中だったらしい。アレスを見て、また頭を下げる。
「聞いていたか」
「……す、こし……」
「どう思う」
エルドは少し考えた。今日の見回りを経てか、少しだけ間の取り方が変わった気がした。焦らずに、自分のペースで考えている。
「……みな、みの、む、らが……らい、ねん……はら、えれ、ば……むき、の……ご、ちそうは……でな、い、ですが……む、らが、いき、のこ、れば……さ、らい、ねん、も……み、おさめ、が……つづ、く」
「そうだ」
「……こ、どもに……よ、みかき、を……おし、えれ、ば……」
エルドは少し口をつぐんだ。
「……す、ぐには……やく、に、たたな、い……けれ、ど」
「十年後に立つ」
「……は、い」アレスの言葉を引き取って、エルドは静かに言った。「……じゅう、ねん、ご、に」
廊下に夕方の光が差していた。細く、やわらかい光だった。
「そなたが今日見たもの、覚えておけ」
「……み、まわり、を……です、か」
「領内に何があるか、誰がいるか。それを知っていれば、机の上の数字が変わって見える」
エルドは頷いた。言葉にはしなかったが、今日一日で何かを掴んだ顔をしていた。
「では行け」
「……は、い」
エルドは書庫へ向かった。小さな歩幅で、でも今朝よりは少し迷いのない足取りで。
アレスはその背中を少し見てから、夕餉の間へ向かった。
◇
城へ戻る道は、来た道と少し違う裏道を通った。
夕方の風が吹き始めていた。麦畑が揺れる。遠くで鳥が鳴いた。タムが後ろで欠伸を噛み殺している。
しばらく歩いて、エルドが口を開いた。
唐突だった。歩きながら、前を向いたまま言った。
「……あなた、は……な、ぜ……そこ、まで」
アレスは足を止めなかった。
「何がだ」
「……こど、もの……みぞ、も……ふた、りの……おんな、も……あし、のない……おとこ、も……みん、な、に……じかん、を……つか、う」
「使う」
「……なぜ、です、か」
アレスはしばらく黙った。うまく答えられない問いというのがある。これはそういう問いだった。
「分からぬ」
エルドが少し顔を上げた。
「見えれば気になる。それだけのことだ。理由はない」
エルドは黙った。しばらく歩いた。
「……わた、し、は……きょう……お、ばあさん、の……はたけ、の……みずを……み、て……」
声が途切れた。また続く。
「……あの……みず、は……た、ぶん……い、しを、いれ、ても……す、ぐには……なお、らな、い、と……おもい、ました」
アレスは少し驚いた。
「なぜ」
「……ぶん、きの……かたち、が……む、ずかし、くて……い、しの……お、きかた、に……な、れる、まで……す、こし……かかる、と……おも、って」
「そうかもしれぬ」
「……で、も……あなた、は……じ、ぶんで、やれ、と……い、った」
「言った」
「……そ、れは……な、おし、てや、らな、い、の、では、なく、て……じ、ぶんで……で、きる、と……おも、って、いる、から……です、か」
アレスはその問いを少し持った。
「そうだ」
エルドはそれ以上何も言わなかった。でも、今度は考えている顔ではなかった。何かが腑に落ちた、という顔だった。
城の門が見えてきた。タムがほっとしたような息をついた。エルドはまた斜め後ろに下がって、小さな歩幅で石畳を踏んでいる。
門をくぐる時、エルドが小さく言った。
「……きょう、は……あり、がと……ございました」
「また来い」
「……み、まわり、に、です、か」
「そうだ」
エルドは少し間を置いた。
「……は、い」
返事は短かったが、今日一番はっきりした声だった。




