2話 三日後の答え
エルドが来たのは、二日後の夜だった。
約束の三日より一日早い。アレスが執務の書類を片付けていると、廊下の外で小さな足音がした。迷うような間があって、それから障子の前で止まった。
「エルドか」
返事はなかった。しかし足音も去らなかった。
「入れ」
障子がゆっくりと開いた。エルドが立っていた。両手に紙を持っている。昨日渡したものより厚い。それを胸の前で持ったまま、一歩入って止まった。
「……も、って……きました」
「そうか。座れ」
エルドは文机の前に座った。正座で、背中をやや丸めている。いつもの姿勢だった。アレスは書類を脇へ寄せ、向かいに座った。
「見せろ」
紙を受け取って広げる。
昨日のものより、さらに細かかった。街道の地形だけではなく、周辺の村の人口、季節ごとの荷の量、商人が好む宿場の位置まで書き込まれていた。関所の候補地は三つのまま変わっていないが、それぞれに「利」と「害」が分けて記されている。字が細い。紙の余白をぎりぎりまで使っていた。
アレスは黙って読んだ。
読み進めるうちに、一箇所で手が止まった。
二番目の候補地の項に、こう書いてある。
『此処に関所を置けば、秋の収穫期に南からの干し魚の荷が止まる。城下の食卓に影響が出る。関所収入と天秤にかけること』
アレスは顔を上げた。
「これを書いたのはいつだ」
「……ゆ、うべ……です」
「昨日の夜か。ほとんど眠っていないな」
エルドは答えなかった。否定もしなかった。
「なぜ干し魚まで気にした」
少し間があった。
「……じょ、うかの……た、な、に……に、しの……さ、かな、が……な、くなる、と……こど、もが……」
そこで声が途切れた。喉が詰まったようだった。エルドは視線を膝に落とし、また口を開く。
「……こど、もが……か、なしむ、と……おも、って」
アレスはしばらくその言葉を持っていた。
軍略方が、城下の子どもの食卓を気にしている。それを誰にも言えないまま、夜通しかけて紙に書き込んでいる。
「よく見ている」
アレスが言うと、エルドはかすかに首を振った。
「……み、てい、るだ、けで……な、にも……で、きな、い」
「できることをやればいい。そなたはこれをやった」
エルドは答えなかった。ただ、膝の上で手を握った。
◇
翌朝の評定で、アレスはエルドの案を使った。
「軍略方エルドの進言による」と前置きして、三つの候補地を順に説明した。数字を示し、利害を並べ、最後に二番目の候補地を推す理由として、干し魚の件を加えた。
場が静まった。
ガルトは最初、目を細めた。昨夜アレスから紙を見せられていたから、内容そのものには驚かなかった。だが「エルドの進言による」という言葉には、少し間があった。
若い家臣のひとりが、エルドの方をちらりと見た。エルドは末席に座ったまま、視線を手元に落としている。いつもと同じ姿勢だった。その横顔を見て、家臣はまた前を向いた。信じたのか、信じなかったのか、顔からは読めなかった。
別の家臣が口を開いた。三十半ばの男で、ガルトに近い立場の者だ。
「一点、よろしいでしょうか」
「言え」
「干し魚の件ですが……これは軍略方が調べたのですか。商人から聞いたのか、書物で調べたのか」
含みのある問い方だった。要するに、本当にエルドが考えたのかと疑っている。
アレスはその家臣を真っ直ぐ見た。
「エルドが書いた。昨夜、私が受け取った」
「しかし評定では」
「評定で言えぬ者が、考えておらぬとは限らない」
家臣は口をつぐんだ。
ガルトが静かに割って入った。
「内容の是非を問おう。出所は問わぬ」
それで場が落ち着いた。ガルトなりの、収め方だった。
「……異議はあるか」
アレスが問うと、誰も口を開かなかった。
結局、二番目の候補地に関所を置くことが決まった。評定はそれで終わった。
廊下に出ると、ガルトがアレスの隣に並んだ。歩きながら、小声で言う。
「……あの案、悪くはない」
「そうだろう」
「しかし、エルドが書いたとは信じぬ者もおりましょう」
「信じなければ次も書いてくる。そのうち信じる」
ガルトは少し黙った。
「……買いかぶりではないかと」
「そなたも昨夜、二度読んだだろう」
「……」
「買いかぶりなら、二度読まぬ」
ガルトはそれ以上言わなかった。足音だけが廊下に続いた。
◇
城の奥、母の居室へ顔を出したのは、その日の夕刻前だった。
アレスの母、サルナは五十を少し手前にした女で、体は丈夫だが足が悪い。冷えると痛むと言って、夏でも足元に布を巻いている。先代が死んでから、城の奥からほとんど出なくなった。
「今日は早いね」
縫い物をしていたサルナが顔を上げた。針を持ったまま、アレスを見る。
「少し時間ができた」
「評定はどうだった」
「関所の件が決まった」
「ガルトが煩かったでしょう」
「それほどでもない」
サルナは少し目を細めた。母親の目だった。
「エルドの案を使ったと聞いた」
アレスは少し驚いた。
「誰から」
「タムの母親と顔見知りでね。あの子は口が軽い」
「……覚えておく」
「よかったじゃないか」サルナは縫い物に目を戻した。「あの人、ずっとそこにいたけど、誰も聞かなかったから」
「知っていたのか」
「あなたのお父さんも、聞かなかった一人だよ」
アレスは黙った。
「聞けばよかったんだろうけど、忙しかったから、と言い訳していたね。あなたはちゃんと聞いた。それでいい」
サルナは針を動かした。しばらく二人とも黙っていた。
アレスはそこに座ったまま、母の横顔を見ていた。父が死んでから、サルナはこの部屋で何をして過ごしているのだろうと、たまに思う。縫い物。それだけではないはずだが、外へ出ない。人とも会わない。それでいいのか聞いたことがない。聞けていない。
「何か欲しいものはあるか」
サルナは針を止めずに答えた。
「何もないよ」
「本当に」
「本当に。あなたが来れば十分」
それが社交辞令なのか本心なのか、アレスには分からなかった。ただ、そう言う母の針の動きが、少しだけ緩くなった気がした。母の部屋は、いつも少し暗い。灯りを増やせと言っても、もったいないと断る。
「足は痛むか」
「今日は大丈夫」
「嘘をつくな」
「……少しだけ」
「医者を呼ぶ」
「大げさだよ」
「呼ぶ」
サルナは苦笑いした。
「あなたはそういうところ、お父さんよりも頑固だね」
「そうかもしれぬ」
アレスは立ち上がった。扉へ向かう前に振り返る。
「また来る」
「来なくていい。仕事をしなさい」
「来る」
サルナは答えなかった。でも針が止まっていた。
◇
夕方、執務室に戻ると、扉の前に小さな紙が置いてあった。
折り畳んであって、表に何も書いていない。アレスは拾って開いた。
短い文だった。
『昨日の夜、関所の件をさらに考えました。二番目の候補地について、もう一つ気になることがあります。お時間のある時にお聞きいただけますか』
字は丁寧だった。昨日の紙と同じ手だった。
アレスは紙を机の上に置いた。それからしばらく、その文を眺めた。
昨日、エルドは「できることをやればいい」と言われた。今日の評定で自分の案が採用された。そして夜が来る前に、また次のことを考えている。
報われたから動いているのではない、とアレスは思った。もともとそういう人間なのだ。ただ、誰も聞かなかっただけで。
ふと、評定での家臣の問いが頭に戻った。「本当にエルドが考えたのか」。疑うのは分かる。これまでのエルドを見ていれば、そう思うのが普通だ。アレスだって、最初に紙を受け取った時、一瞬だけ驚いた。
だがそれは、エルドが考えていなかったからではない。考えていても、誰も受け取らなかったからだ。
受け取る人間がいなければ、渡せない。渡せなければ、あったことにもならない。エルドの紙は、どこかの夜ごとに書かれて、そのまま仕舞われ続けていたのだろう。何年分あるのか、アレスには分からない。
アレスは紙の裏に一行書いた。
『今夜、来い』
それを折り直して、廊下に出た。エルドの部屋は城の北側にある。タムに渡すと、タムは少し驚いた顔をしたが、黙って受け取った。
◇
夜、エルドが来た。
今度は迷わなかった。足音がまっすぐ廊下を来て、障子の前で止まった。
「入れ」
エルドは入って座った。また紙を持っていた。今度はそれほど厚くない。一枚だった。
「見せろ」
受け取って読む。
二番目の候補地の、さらに北側に、小さな水路があるという。雨季には水量が増し、荷車が通れなくなる。そこを見落とすと、秋から冬にかけて関所が機能しなくなる可能性がある。対策として、水路の上に簡単な橋を架けることを提案していた。費用の概算まで書いてある。
「……こ、れは……きの、うの、よ、るに……き、づいた、ので……す、が……ひと、りで……き、めて……よ、いか……わか、らな、くて」
「正しい判断だ。一人で決めなくていい」
「……は、い」
「橋の件は明日ガルトに伝える。そなたの名で」
エルドはまた何か言おうとして、止まった。今度は喉が詰まったわけではないようだった。ただ、言葉を選んでいる、という間だった。
「……あの……アレ、ス様は……なぜ……わたし、の……なまえ、で……」
「そなたが考えたからだ」
「……でも、わた、しは……ひ、とに……い、えな、い……の、で」
「言えなくても考えた。考えたものはそなたのものだ」
エルドは黙った。長い沈黙だった。
灯りが揺れた。外で虫が鳴いている。
「……わた、しは……ず、っと……じぶん、の……かんが、えが……ただ、しい、のか……わか、らな、かった……の、です」
アレスは口を挟まなかった。
「ひ、とに……いえ、ない、から……た、しかめ、られ、ない……た、しかめ、られ、ない、から……あって、いる、か……わか、らない……わか、らない、から……い、えな、い……」
声が途切れた。エルドは少し俯いた。
「……ずっと、そう、でした」
アレスはしばらく黙っていた。
「エルド」
「……は、い」
「今日の評定で、そなたの案が通った。干し魚の件も、ガルトは悪くないと言った。口には出さなかったが、そういう顔をしていた」
エルドは顔を上げなかった。
「一つ確かめられた。次も持ってこい。そのうち、自分の考えが正しいかどうか、分かるようになる」
エルドがゆっくりと顔を上げた。
灯りの中で、その目がどんな色をしていたか、アレスはうまく言葉にできなかった。ただ、何かが、少しだけ解けたような顔だった。
「……あり、がとう……ございます」
「礼はいい。また来い」
エルドは深く頭を下げて、立ち上がった。廊下へ出る前に一度振り返ったが、それは昨夜のガルトとは違う振り返り方だった。
何かを言おうとして、やめた。でもそのやめ方が、今日は穏やかだった。
障子が閉まった。
アレスは机の上に残った一枚の紙を、手の平で軽く叩いた。水路の橋。費用の概算。几帳面な字。
この男は、誰にも聞かれなかった時も、ずっと考えていたのだろう。どこかの夜に、一人で紙に書いて、それを誰にも渡せないまま仕舞っていたのかもしれない。
アレスはその紙を、昨日の紙の上に重ねた。
まだ二枚だった。これが積み重なっていけば、いつかエルド自身も、自分の考えを疑わなくなる日が来る。
そのくらいのことは、待てる。




