11話 動き出す軍
物見の狼煙が上がったのは、三日後の未明だった。
タムが走ってきた。まだ空が白みきっていない時刻だった。アレスは寝ていなかった。ここ数日、夜中に何度も目が覚める。体が、何かを待っている。
「殿、南の砦から早馬です。谷の物見が狼煙を上げました」
「敵が谷に入った」
「はい。歩兵の一隊が谷の入口に確認されたと。数は不明ですが、少なくとも百以上」
アレスは立ち上がった。
「ガルトを起こせ。評定は要らない。主だった者だけ、ここに集めろ」
◇
集まったのは五人だった。ガルト、タム、バード、それに武官が二人。
灯りの下で、アレスは地図を広げた。エルドの地形図も並べた。
「谷に敵が入った。エルドの分析通りだ」
バードが地形図を見た。
「物見を置いていなければ、気づかなかった」
「そうだ」
ガルトは黙っていた。地図を見ていた。その目は、何かを計算している目だった。
「ガルト」
「……はい」
「砦の正面にも来るか」
「来ます。谷に入ったのは迂回部隊です。正面に主力が来なければ、迂回の意味がない。おそらく今日中に、砦の前に敵の旗が見えます」
「兵数は」
「斥候の報告を合わせると、ヴァルノの動員は四千から五千。そのうち谷に回したのが百から二百。残りが正面に来る」
四千。こちらは千八百。倍以上。
部屋の中に、沈黙が落ちた。数字の重さが、灯りの下で全員の顔にかかっていた。
「出陣する」
アレスが言った。
「砦で受けるだけでは削られる。こちらから出て、地形を使う。エルドの地形図にある丘陵地帯に布陣する。細道と窪みで敵の進軍を削ぎ、数の差を縮める」
バードが頷いた。武官の一人が口を開いた。
「殿、兵の招集にどのくらいかかりますか」
「城の常備が八百。砦に送った二百を合わせて千。残り八百は領内の各所から集める。半日で集まるか」
「厳しいですが、やります」
「頼む。昼までに揃えろ。昼過ぎに出る」
五人が立ち上がった。ガルトだけが最後に残った。
「エルドは」
「連れていく」
ガルトは何も言わなかった。頷いて、出ていった。
◇
城が動き始めた。
アレスは城の中を歩きながら、その動きを見ていた。
兵が走る。武具が運ばれる。馬が引き出される。厨房からは握り飯の匂いが流れてきた。ヤスが鍋の前に立って、若い者を怒鳴っている。「飯を炊け、多めに炊け、戦に出る者は腹が減る」。
母の部屋に寄った。
サルナは起きていた。灯りの前に座って、縫い物をしていた。この時刻に起きているのは珍しい。城の中の騒ぎで目が覚めたのだろう。
「出るのかい」
「出る」
「そう」
サルナは針を止めなかった。アレスの顔を見て、また手元に目を戻した。
「飯は食べた?」
「これから」
「食べなさい。ヤスが炊いているはずだから」
「分かった」
少し間があった。サルナの針が、一度だけ止まった。
「帰ってきなさい」
「帰る」
「約束して」
「約束する」
サルナは頷いた。それ以上は何も言わなかった。アレスも何も言わずに部屋を出た。
廊下を歩きながら、喉が少し熱くなった。振り返らなかった。
◇
詰所の前で、ゴウが片腕で槍を整えていた。アレスを見て、頭を下げた。
「殿、後方の指揮、承りました」
「頼む。若い連中を頼む」
「任せてください」
ゴウの声に迷いはなかった。片腕の男が、胸を張って立っていた。
隣の詰所から、トーマが出てきた。槍を持っていた。顔は白かったが、目は前を向いていた。
「トーマ」
「は、はい」
「怖いか」
「……はい」
「よし。行くぞ」
トーマは少し笑った。笑えるようになっていた。
◇
エルドの部屋に行った。
障子を開けると、エルドはすでに身支度を整えていた。いつもの粗末な着物ではなく、薄い鎧の下に厚手の衣を着ている。腰に短刀を差していた。短刀の柄が古びていて、長く使われていないことが分かった。
「支度が早いな」
「……ゆう、べから……して、いました」
「昨夜から」
「……のろし、が……あがる、まえ、から……く、ると、おもって……いました」
アレスは少し驚いた。
「なぜ分かった」
「……さん、にち、まえの……ものみ、の……ほうこく、で……てき、が……たに、に、はいった……と。たに、に、はいった、なら……ほんたい、も……うごいて、いる、はず、です。ほんたい、が……うごく、まで……にさん、にち。だ、から……き、ょう、か……あした」
「斥候の報告から逆算したのか」
「……は、い。あと……きせつ、です。い、まは……かんき、で……たに、の……みず、が……ひくい。て、きが……うごく、なら……いま、しか、ない」
アレスは黙った。エルドは、物見の報告と季節の変化を繋げて、敵の動きを読んでいた。紙に書けなかったのはそのせいかもしれない。断片がまだ繋がりきっていなかったのだ。だが、今朝の狼煙で全部が繋がった。
「エルド」
「……は、い」
「そなたの目を、借りるぞ」
「……め」
「目で地形を見ろ。声は出なくてもいい」
エルドは少し間を置いて、頷いた。今度は震えていなかった。
◇
昼過ぎ、城門の前に兵が揃った。
千八百。
数字では知っていた。だが、実際に城門の前に並んだ人間の列を見ると、千八百という数が、思っていたよりも少なく感じた。
列の前方に、常備の兵がいた。鎧の手入れが行き届いていて、槍の穂先が光っている。ゴウが磨かせた槍だ。その後ろに、領内から集められた兵が並んでいた。農夫の顔をした者、職人の手をした者。鎧が合っていない者が何人もいた。借り物の鎧で、自分の体に馴染んでいない。
バードが隣に来た。
「千八百、揃いました。ただし、練度に差があります。領内から集めた八百は、半数が実戦未経験です」
「分かっている。未経験の者は後方に置く。ゴウの指揮下だ」
「御意」
ガルトが馬に乗って、列の横を歩いてきた。兵の顔を一人ずつ見ていた。ガルトはこういう時、黙って歩く。声はかけない。だが見る。見ることで、兵の状態を把握する。三十年の癖だった。
ガルトがアレスの横に並んだ。
「兵の状態は」
「常備は問題ありません。領内の兵は、三割ほど顔色が悪い。だが、崩れてはいない。行軍には耐えます」
「そうか」
「アレス様。一つだけ」
「何だ」
「訓示は短くしてください。長いと、兵は不安になります。主君が長く話すのは、主君が不安な時だと、兵は知っています」
アレスは少し笑った。
「分かった」
先頭にアレスが立った。馬に乗り、兵の前に出た。
風が吹いていた。南からの風だ。乾いた風だった。エルドの言う通り、乾季の風だ。
兵たちの顔が、こちらを向いていた。若い顔。年かさの顔。怖い顔。覚悟した顔。まだ覚悟できていない顔。全部が混ざっていた。
アレスは声を上げた。
「これから南へ向かう」
千八百の目が、一斉にアレスを見た。
「敵は四千を超える。数では勝てない。だから、地形を使う。丘と細道で敵を分断し、数の差を潰す」
短く。ガルトの言う通りに。
「一つだけ言う。この戦で、そなたたちに無駄死にはさせない。そのために、できることは全てやる。だから、ついてこい」
沈黙があった。誰かが槍の石突きを地面に打った。一つ。それが二つになり、三つになり、やがて千八百の石突きが地を打つ音になった。
言葉のない応答だった。言葉がない分、重かった。
「行くぞ」
アレスは馬を進めた。
◇
城門を出た。
城下の通りを、兵の列が南へ向かう。道の両側に、領民が立っていた。黙って見ている者。手を振る者。泣いている者。子どもが母親の手を握って、兵の列を見上げていた。
水争いの時に会った女が、道端に立っていた。アレスに気づいて、頭を下げた。その隣に老婆がいた。老婆は何も言わず、ただ手を合わせていた。
アレスはまっすぐ前を見ていた。振り返れば、城が見えるだろう。父が好きだった中庭の木が見えるかもしれない。だが振り返らなかった。
隣に、エルドがいた。
馬ではなく徒歩だった。鎧の上から筆と紙を包んだ布を背負っている。戦場に筆を持っていく軍略方を、兵たちは不思議そうに見ていた。だが、誰も何も言わなかった。
エルドは歩きながら、南の空を見ていた。風が頬に当たっている。目が、周囲の地形を追っているようだった。
行軍が始まって一刻ほど経った頃、タムがアレスの横に来た。
「殿、エルドの様子が少し変です」
「変、とは」
「歩きながら、ずっと首を動かしています。道の左右を見て、丘を見て、空を見て。それと……時々しゃがんで、土を触っています」
「触っている」
「はい。指で土を摘んで、固さを確かめているようでした」
アレスは少し後ろを振り返った。エルドは列の後方で歩いていた。確かに、首が絶えず動いている。顔が上を向いたり、横を向いたりしている。周囲の兵は少し距離を取っていた。
アレスは前を向き直した。
「放っておけ」
「はい」
「あれは、見ているんだ」
タムは少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
◇
街道を半日歩いた。
日が傾き始めた頃、丘陵地帯の入口に着いた。エルドの地形図に描かれていた場所だった。左右に丘が迫り、細い道が南へ伸びている。道の両側に窪みがあり、兵を隠すことができる。
アレスは馬を降りて、丘の上に立った。南を見た。
まだ敵の旗は見えない。だが、地平線の向こうに、薄い土埃が上がっているのが分かった。
ここに来る。
明日か、明後日か。
ガルトが横に来た。同じ方向を見ていた。
「……あの土埃の量から見て、三千以上は動いています」
「主力だな」
「はい。谷の迂回部隊と合わせれば、やはり四千を超えます」
「砦は」
「ロウが持ちこたえています。ただ、正面の圧力が増せば、長くは保ちません。三日が限度かと」
「三日」
「三日のうちに、何かを起こさなければ、こちらが先に崩れます」
アレスは頷いた。三日。千八百の兵と、丘陵の地形と、エルドの目。それで、四千五百を崩す。
後ろを振り返った。千八百の兵が、丘陵地帯の手前に並んでいる。疲れた顔だが、崩れてはいなかった。
その列の後方に、エルドが立っていた。紙を広げて、何かを書いている。周囲の地形を見ながら、自分が描いた地形図と実際の地形を照らし合わせているようだった。
時折、筆が止まる。顔を上げて、丘の形を見る。また書く。止まる。立ち上がって、十歩ほど歩いて、しゃがんで、土を触る。また戻って、書く。
書けている。
しかも、城の部屋で書いていた時より、速い。紙の上の記憶ではなく、目の前の地形を見ながら書いている。手が迷っていない。
アレスはそれを見て、もう一度南を見た。土埃は、少しだけ近づいているように見えた。
◇
日が落ちる前に、布陣を始めた。
ガルトが指揮を執った。常備の兵を丘の尾根沿いに配置し、細道の左右に弓兵を散らした。窪みには予備の部隊を隠した。
アレスは丘の頂に立って、布陣の様子を見下ろしていた。エルドが横に来た。紙を持っていた。
「見せろ」
受け取った。行軍中に書いたものだった。地形図の修正が入っている。丘の東側に、地図にない小さな窪みがあることが書き足されていた。「ここに二十人伏せれば、敵の側面を突ける」と注記がある。
「これは、歩きながら見つけたのか」
「……は、い。ち、ず、とは……すこし……ちがって、いたので」
「違っていた」
「……おか、の……かたちが……じゅうねんまえ、より……けず、れて……います。あめ、で……つち、が……ながれた、のだと……おもいます」
十年前の記憶と今の地形の差を、歩きながら見つけた。そしてその差を、戦術に変えた。
アレスはガルトを呼んだ。
「東の窪みに二十人を伏せる。エルドの提案だ」
ガルトは紙を見た。少し考えて、頷いた。
「……やります」
それだけだった。それだけで十分だった。
日が沈んだ。丘陵地帯の陰が長く伸びて、南の平野を覆った。その向こうに、敵の篝火がぽつぽつと見え始めた。
近い。
アレスは丘の上に立ったまま、その火を数えた。一つ、二つ、三つ。数え切れないほどあった。四千五百の火だった。
背後では、千八百の兵が、最後の握り飯を食べていた。




