10話 主君の覚悟
朝の評定の前に、ガルトが来た。
「南の物見から、狼煙の試しを終えたとの報告がありました。砦からの視認に問題はないとのことです」
「そうか。エルドの案が機能している」
「……はい」ガルトは少し間を置いた。「機能しています」
認めている。だが、その認め方には距離があった。正しいことを正しいと言っているだけで、そこに信頼はまだない。
「ガルト、先日の話の続きをしたい」
「先日の」
「エルドを後方に置け、という提案だ」
ガルトの目が、わずかに鋭くなった。
「考えていただけましたか」
「考えた。答えは、出さない」
「……出さない」
「後方には置かない。エルドは戦場に出す」
ガルトの表情が変わった。
これまで何度もエルドの話をしてきた。切れと言われて切らぬと言った。後方に置けと言われて考えると言った。だが、「戦場に出す」と言ったのは、これが初めてだった。
「……アレス様」
「聞け。まだ話し終えていない」
ガルトは口を閉じた。
「エルドの地形図は、そなたも認めた。谷の分析は、物見の配置にまで反映された。だが、それは全て紙の上の話だ。紙の上では勝てない。戦場で動かなければ意味がない。そこまでは、そなたと同じ考えだ」
「ならば——」
「だが、だからこそ戦場に出す」
ガルトの眉が動いた。
「エルドの目は、地形を見る目だ。紙に書いてある時点で、すでに戦場を見ている。あの男は、ここに座って地図を見ているのではない。頭の中で戦場を歩いている。十年前の谷の水量まで覚えている男が、実際の戦場を前にした時、何が見えるか。私はそれを見たい」
「見たい、で兵を動かすのですか」
ガルトの声が、初めて少し硬くなった。
「見たい、ではない。必要だと言っている」
「必要である根拠は」
「根拠はない」
ガルトが黙った。
「根拠がないことは分かっている。だが、ガルト。そなたの砦の案だけで、ヴァルノの四千五百に勝てるか」
沈黙があった。
「勝てない。そなたも分かっているはずだ。砦を固めて守ることはできる。だが、守るだけでは削られる。敵が引くまで持ちこたえるか、こちらから崩しにいくか。持ちこたえるには兵が足りない。崩しにいくには——」
「知恵が要る」
「そうだ。知恵が要る。そして、知恵を戦場で使うには、戦場にいなければならない」
ガルトはしばらく黙っていた。腕を組んで、目を閉じていた。アレスはその沈黙を待った。
「……アレス様の仰ることは、分かります」ガルトは目を開いた。「エルドの目が必要だということは、認めます。ですが、一つだけ問います」
「何だ」
「あの男が、戦場で声を出せなかったら。どうなりますか」
アレスは答えなかった。
「評定で声が出ないのは、恥で済みます。戦場で声が出なければ、人が死にます。エルドの横にいる兵が死にます。エルドの命令を待っている部隊が、命令が来ないまま崩されます。それでもよいのですか」
正しい問いだった。アレスはそれが正しいことを分かっていた。
だが。
「ガルト」
「はい」
「そなたは、声が出なかった場合の話をしている。私は、声が出た場合の話をしている」
「出る保証がありますか」
「ない」
「ないのに——」
「ないから、賭ける」
ガルトの目が見開かれた。
「賭ける」
「そうだ。この戦は、どのみち賭けだ。千八百で四千五百に当たる時点で、まともな勝負ではない。守って凌ぐのも賭け、崩しにいくのも賭け。どちらにしても勝つ保証はない」
アレスは立ち上がった。
「ならば、私は勝てる方に賭ける。エルドの目が開く方に賭ける。それが、この家の主としての私の判断だ」
ガルトは座ったまま、アレスを見上げていた。その目に、怒りはなかった。だが、納得もなかった。
「アレス様、もう少しだけ聞いてください」
「言え」
「私は三十年、戦場を見てきました。先代の下で、五度の合戦に出ました。その中で学んだことが一つあります」
「何だ」
「戦場で一番危ないのは、能力のない者ではありません。能力があるのに、それを出せない者です」
アレスは黙った。
「能力のない者は、最初から期待されない。だから周囲もそのつもりで動く。だが、能力があると思われている者が止まると、周囲が混乱する。あの者が何か言うはずだ、あの者が何か見ているはずだ。そう思って待つ。待っている間に、敵は動く。待っている間に、崩される」
「つまり、エルドを戦場に出すと、周囲が期待する分だけ危険が増す、と」
「はい。紙の上の実績が広まれば、家臣たちはエルドに期待し始めます。期待した者が戦場で黙れば、失望は無関心よりも深い」
アレスは考えた。ガルトの言うことは、また正しかった。いつも正しい。だからこそ、正しさだけでは足りない場面がある。
「ガルト。そなたの言うことは全て正しい。だが、正しいことだけをしていたら、この戦は勝てない」
「正しくないことをして勝てる保証は」
「ない。だが、正しいことをして負ける確率の方が高い。千八百で四千五百に勝つには、相手が読めないことをしなければならない。ヴァルノは正しいことをする敵を想定している。正しくないことをする敵は、想定していないかもしれない」
ガルトは少し黙った。
「……それは、詭弁ではありませんか」
「詭弁かもしれぬ。だが、私の判断だ」
アレスの声が、少し大きくなった。自分でも気づいた。ガルトも気づいたはずだ。
「……アレス様」
「私は先代に三十年仕えました。先代は、賭けをする方ではなかった。堅実に、手堅く、確実な道を選ぶ方でした。それで家を守りました」
「知っている」
「あなたは、先代とは違う」
「違う」
「それが良いことかどうか、私にはまだ分かりません」
アレスはガルトの目を見た。
「分からなくていい。だが、ガルト。私がこの家の主だ。そなたが仕えているのは先代ではなく、私だ」
ガルトの表情が、一瞬だけ動いた。目の奥の何かが揺れたように見えた。だが、すぐに戻った。
「……御意」
声は静かだった。だが、今までの「御意」とは違った。納得ではない。しかし、抵抗でもない。主君の言葉を受け取った、という重さだけが残っていた。
◇
ガルトが出ていった後、アレスはしばらく立ったままでいた。
手が震えていた。
気づいたのは、ガルトがいなくなってからだった。話している間は震えていなかった。声も揺れていなかった。だが今、一人になって、手が震えている。
怖いのだ。
エルドを戦場に出すと言った。声が出る方に賭けると言った。だが、出なかったら。ガルトの言う通り、人が死ぬ。エルドの横にいる兵が死ぬ。その責任は、賭けると言った自分にある。
父なら、こんな賭けはしなかっただろう。ガルトの言う通りだ。先代は堅実だった。堅実に、手堅く、確実な道を選んだ。だが、先代の時代にはヴァルノはいなかった。四千五百の敵と千八百で当たる状況はなかった。
堅実では、足りない。
足りないから、賭ける。賭けるしかないから賭けるのか。それとも、賭けたいから賭けるのか。自分でも分からなかった。
窓の外を見た。中庭の木が、風に揺れている。父が好きだった木だ。父はあの木の下で、何を考えていたのだろう。堅実に、手堅く、確実な道を選んでいた父は、賭けたいと思ったことはなかったのだろうか。
分からない。聞けない。父はもういない。
サルナの声が浮かんだ。「怖がっていたよ。でも、怖がっていることを誰にも見せなかった」。父も怖がっていた。堅実な道を選んでいた父も、その道が正しいかどうか、怖がっていた。
なら、自分も怖がっていい。怖がりながら、賭ける。それが自分の道だ。
ただ、一つだけ分かっていることがある。エルドの目を、後方に置いたまま殺すわけにはいかない。あの男の目が見ているものを、戦場で試さなければ、永遠に分からないままだ。分からないまま終わることが、アレスには一番怖かった。
父の最後の言葉を聞き逃した時と、同じだ。あの時もっと聞いていれば、と思った。エルドの目を戦場に出さなかったら、同じことを思うだろう。「あの時出していれば」と。
その後悔だけは、したくなかった。
◇
夕刻、エルドの部屋を訪ねた。
今回は障子を叩いた。
「エルド」
「……は、い」
「入るぞ」
障子を開けると、エルドは机に向かっていた。紙が広げてある。あの未完成の地形図の続きだった。北斜面に、新しい線が加わっていた。
「書けたか」
「……す、こし。ま、だ……とちゅう、です」
「見せろ」
紙を受け取った。空白だった北斜面に、等高線が描き足されている。まだ薄い線で、確信がないことが分かる。だが、方向は見えていた。
「合流地点のもう一つは」
「……まだ、です。で、も……ひとつ、おもいだした、こと、が……あります」
「何だ」
「……たに、の……でぐち、の……てまえに……おおきな、いわ、が……あった、と……おもいます。ひと、が……かくれ、られる、くらい、の」
「伏兵を置ける」
「……は、い」
アレスは紙を返した。
「エルド。戦が始まったら、そなたを戦場に出す」
エルドの手が止まった。
「……せ、んじょう……ですか」
「そうだ。後方ではない。前に出る。私の横で、戦場を見てもらう」
長い沈黙があった。エルドの顔が白くなっていた。
「……わた、しは……こえ、が……で、ません」
「知っている」
「……せ、んじょう、で……こえ、が……でなかったら」
「出なかったら、出ないまま見ろ。見たことを紙に書け。書いたものを私に渡せ。それだけでいい」
「……それ、だけ」
「それだけだ。声が出なくても、目がある。そなたの目が戦場にあるだけで、私には見えないものが見える」
エルドは黙っていた。膝の上の手が震えていた。
「怖いか」
「……こ、わい……です」
「何が一番怖い」
エルドは少し考えた。
「……こえ、が……でない、こと……では……ありません」
「では何だ」
「……こえ、が……でない、せいで……だれか、が……しぬ、こと……です」
アレスは黙った。ガルトと同じことを、エルドが言っていた。ガルトは「兵が死ぬ」と言った。エルドは「誰かが死ぬ」と言った。同じことだが、エルドの方が重く聞こえた。自分のせいで人が死ぬことを、エルドは具体的に想像していた。
「エルド。そなたの声が出なくて死ぬ者がいるかもしれない。それは本当だ。だが、そなたの目がなくて死ぬ者は、もっと多い」
「……もっと」
「千八百の兵が、四千五百に当たる。正面からぶつかれば、半分は死ぬ。だが、そなたが谷を見つけたように、敵の動きを先に読めれば、死ぬ者は減る。そなたの声が出ないことで死ぬ者と、そなたの目がないことで死ぬ者と、どちらが多いか。私は後者だと思っている」
エルドは紙の上の薄い線を見ていた。自分が書いた線を。十年前の記憶から掘り出した線を。
「……わた、しの……め、が……そこ、まで……みえる、か……わかり、ません」
「分からない。だから、戦場で確かめる」
「……たしかめて……みえ、なかったら」
「その時は、私が何とかする。そなたは目だけでいい。目が開けば声も出るかもしれない。出なくても構わない。目だけ持ってこい」
長い沈黙があった。灯りが揺れた。エルドの影が壁に伸びて、また縮んだ。
やがて、顔を上げた。
「……わ、かり……ました」
声は小さかった。震えていた。だが、逃げてはいなかった。
アレスは頷いた。
「支度をしておけ。いつ動くか分からん」
部屋を出て、廊下を歩いた。エルドの「わかりました」が、まだ耳に残っていた。
あれは、覚悟ではなかったかもしれない。覚悟の手前の、覚悟を決めようとしている声だった。
それでいい。覚悟は、決まってから出陣するものではない。出陣してから、決まるものだ。
アレスは自分の手を見た。まだ、少し震えていた。
第10話をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第一部(1〜6話)は「アレスがどういう主君か」を見せる話でした。第二部に入ってから、それが試される話に変わっています。
今回、アレスは初めて「賭ける」と言いました。1話からずっと「待つ」「切らぬ」「見ている」と言い続けてきた男が、ここで初めて自分の判断に家の命運を乗せました。書いていて手が震えたのは、アレスだけではなかったかもしれません。
ガルトは正しいことしか言っていません。それでも超えなければならない場面がある。この二人の関係は、最後まで変わらないつもりです。
次回、いよいよ出陣です。




