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理想の主君とは――役に立たぬ者を見捨てぬ君  作者: 一条信輝


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1話 声の小さな軍略方

人を値踏みするのに、世界はいつも急ぐ。


 役に立つか、立たぬか。使えるか、使えぬか。答えをすぐに出せるか、出せぬか。


 乱世ならなおさらだ。一手の遅れが死を呼び、一人の弱さが家を滅ぼす。だから人は切り捨てることを「やむを得ない」と呼び、見捨てることを「現実」と名づける。


 これは、それに抗った一人の若い領主の話だ。


 剣が得意なわけでもない。策が天才的なわけでもない。ただ、声が小さくても耳を傾け、答えが三日後に来ても待ち、皆が見ようとしないものを、見ぬふりをしなかった男の話だ。


 理想の主君とは何か。


 その答えを、この物語はひとつだけ持っている。

評定の間は、いつも煙草の匂いがした。


 先代の領主がそこで煙草を好んだからだ。もう三年も前に死んだというのに、柱の節目にまでしみついた匂いは抜けない。今の領主アレスには、その匂いがどこか父の気配に似ていて、悪くないと思っていた。


 上座に座るアレスは、二十二になる。


 若い、とよく言われる。本人もそれは認める。だが領主というのは若くても領主であり、家臣たちがどう思おうと、この椅子に座り続けるしかない立場だ。アレスはそのことを、父が死んだ日に決めていた。


 今日の評定は、北の街道についてだった。


 隣国ヴァルノの勢力が南へ膨らみつつある。その余波で商人の足が鈍り、北の街道を通る荷が減った。税収への影響は軽くはない。どう対処するか——それが今日の議題だった。


 家老のガルトが口を開いた。


「街道に関所を設け、通行料を取る。一時的な減収は関所収入で補う。これが最も手堅い手立てかと」


 五十を超えたガルトは、先代から仕える古参だ。白髪まじりの髭を整え、常に背筋を伸ばして座る。その姿勢には、長年この家を支えてきた自負が滲んでいた。発言には重みがある。家臣たちはガルトが口を開くと、まず頷く癖がついていた。


 案の定、左右からすぐに同意の声が上がる。


「関所は良い手かと」


「街道管理にもなります」


「ヴァルノの動きが落ち着くまでの繋ぎとしても悪くない」


 三人が続けて同じ方向を向いた。それで空気が決まる。残りの家臣たちも、黙って頷くか、小さく「御意」と漏らすかのどちらかだった。評定というのは、いつもそういうものだとアレスは思っていた。最初に強い声が出れば、あとはその声に乗る。乗らなかった者だけが、後で「あの時こう思っていた」と言う。


 アレスは頷かなかった。ただ、その場にいる者たちをゆっくりと見渡した。十二人の家臣。それぞれの顔。


 視線が止まったのは、末席の隅だった。


 エルドがいた。


 四十代半ばの男で、軍略方という役職についている。だが今日も、机の端に小さく縮こまるようにして座っていた。視線は手元の紙に落ちている。その紙に何かを書いているのか、ただ見ているだけなのかは、端からでは分からない。評定が始まってからずっとそうだった。誰も彼に話しかけない。彼も誰にも話しかけない。壁の節穴と同じように、そこにあるが、誰も特に気にしていない。


「エルド」


 アレスが名を呼んだ。


 その瞬間、場の空気が微妙に動いた。ガルトが眉をわずかに上げる。他の家臣たちも、ちらりとエルドへ目をやる。その視線に、温かみはなかった。むしろ、またか、という色があった。


 エルドはゆっくりと顔を上げた。


「……は、い」


 声が小さかった。広くもない評定の間で、それでも遠く聞こえるような小ささだった。


「北の街道について、そなたはどう見る」


 沈黙が落ちた。


 エルドは口を開いたが、言葉が出てこなかった。喉が動く。唇がわずかに震える。視線が宙をさまよい、また手元の紙へ落ちる。指先が紙の端を押さえた。何かを言おうとしている。それは分かる。だが言葉が、出口を見つけられないでいた。


 誰かが小さく息をついた。咳払いをした者もいた。


「……そ、の……」


 言葉が途切れた。


 またエルドの口が動く。しかし声にならない。まるで頭の中にあるものが、口という出口を見つけられずにいるようだった。


「関所、は……そ、の……ち、が……」


 そこで止まった。


 左側に座る若い家臣が、口元に手をあてて視線を逸らした。笑いをこらえているのは明らかだった。隣の者が肘で小突く。しかし口元の歪みは消えない。右側では別の家臣が天井を見ていた。早く終わらせろ、という顔だった。ガルトは表情を変えなかったが、静かに目を伏せた。それが、ある種の答えだった。


 アレスはエルドから目を離さなかった。


「……か、ん、じょ……は……」


「エルド」


 アレスが静かに遮った。


 責めるような声ではない。急かすわけでもない。ただ、呼んだ。


「今日は答えられなくてよい」


 場が静まった。ガルトがアレスを見る。


「後で持ってこい。今夜でも、三日後でも構わぬ。そなたが納得できたときに、私のところへ来い」


 エルドが目を上げた。その目に何が宿っていたか、遠くからでは分からない。ただ、口元がかすかに動いた。声にはならなかった。


 アレスは視線を戻した。


「ガルトの案を基本線にする。ただし関所の位置は急がずに決めよ。場所を誤れば商人が別の道を選ぶ。地形を見てから判断する」


「御意」


 評定はそのまま続いた。エルドは再び視線を手元に落とし、また小さくなった。誰も彼を見なかった。



 夕刻、アレスは一人で領内を歩いていた。


 護衛を一人だけ連れ、城下の外れまで足を延ばす。これはアレスが月に二度ほどやることで、家臣たちには「見回り」と説明していたが、実際には単なる散歩に近かった。ただ歩いて、目に入るものを見る。それだけのことが、机の上では分からない何かを教えてくれることがある。


 麦畑の端で、年老いた農夫が腰を伸ばしていた。


「おい、そこの」


 アレスが声をかけると、農夫は振り返り、領主だと気づいて慌てて頭を下げようとした。


「いい。そのままで」


 アレスは農夫の隣に立った。畑を眺める。麦の穂がまだ細い。今年は出足が遅かった。


「調子はどうだ」


「は……まあ、なんとか、でございます」


「腰が痛いか」


 農夫は少し驚いた顔をした。


「……わかりますか」


「立ち方を見れば分かる。先月も同じ場所にいた。無理をするな」


 農夫はしばらく黙ってから、小さく笑った。皺の深い笑い方だった。


「若様は、よく見ておられる」


「見るのが仕事だ」


 そう言ってアレスは歩き出した。農夫が後ろで頭を下げている気配がした。


 少し行くと、城下の井戸のそばで子どもが三人、水汲みをしている女の周りをうろついていた。女は桶を持ち上げようとして、足元が滑り、中身を半分こぼした。子どもの一人が笑い、女が疲れた顔で苦笑いした。


 アレスは護衛より先に桶を拾い、井戸まで戻って水を汲んだ。


 女は最初、領主が自分で桶を持っていることに気づかず、気づいた瞬間に真っ青になった。


「よい。急ぎの用があったのだろう」


「……は、あの、申し訳ございません」


「転んでいないか」


「はい、おかげさまで」


「子どもたちは元気そうだ」


「は、はい……おかげさまで、皆、丈夫で」


「それは何よりだ」


 それだけ言って、アレスは歩いた。子どもの一人が珍しそうにアレスの背中を見ていた。


 護衛の男——タムという名の三十前の兵だ——が小声で言った。


「また家臣どもに知れたら、何を言われるかわかりませんよ」


「何を言われる」


「領主が自分で水汲みをするのかと」


「する」


「……は」


「見ているだけでは見えぬものがある」アレスは前を向いたまま言った。「触れなければ分からぬこともある」


「……それは、分かりますが」


「分かるなら問題ない」


 タムはそれ以上何も言わなかった。ただ口を閉じて、アレスの半歩後ろをついてきた。



 城へ戻ると、廊下の角でエルドと鉢合わせた。


 エルドは壁際に立って、丸めた紙を両手で持っていた。何かを書いたらしく、墨が指先まで滲んでいる。アレスに気づくと、深く頭を下げた。


「……あ、の」


「何だ」


「……ほ、ほん、日の……み、ちの……こと、を……」


 途切れ途切れに言葉が出てくる。アレスはその場に止まった。急かさない。ただ、立って、聞いた。


「……かん、じょ、は……に、しの……ふ、たつめ、の……」


 エルドの声が途切れた。また喉が詰まったようだった。視線が床に落ちる。指が紙をきつく握る。


「……す、みませ、ん……ま、た……」


「謝るな」


 アレスは短く言った。


「今日持ってこなくていいと言った。まだ三日ある」


「……で、も」


「エルド」


 アレスは真っ直ぐにエルドを見た。


「そなたが今考えていることは、その紙に書いてあるか」


 エルドは少し間を置いてから、小さく頷いた。


「ならば渡せ」


 エルドはためらった後、丸めた紙を差し出した。アレスはそれを受け取り、広げた。


 細かい字で、街道の地形が描かれていた。関所の候補地が三箇所、それぞれに理由が書き添えてある。字は丁寧だった。内容は、ガルトの案よりも具体的で、二段階先まで読んでいた。どの位置に関所を置けば商人がどう動くか、その動きが半年後の税収にどう影響するか。数字まで出ていた。


 アレスは紙から目を上げた。


「なぜ評定でこれを言わなかった」


「……い、えな、かった……の、です」


「口では言えなくても、これは書けた」


「……は、い」


「分かった」アレスは紙を折って懐へしまった。「明日の評定でこれを使う。そなたの名で」


 エルドが顔を上げた。


「……わ、たし、の」


「そなたが考えたものだ。そなたの名で出す」


 長い沈黙があった。廊下の外では、夕風が木の葉を揺らしている。灯りが一つ、遠くで揺れた。


「……あり、がと……ございま、す」


 声はやはり小さかった。だがアレスには、はっきり届いた。



 その夜、ガルトがアレスの部屋を訪ねてきた。


 一人で来た。茶の一杯も持たず、ただ座って、しばらく黙っていた。こういう時のガルトは、何か言いにくいことを言いに来ている。アレスはそれを知っていた。長くこの家にいる人間の、沈黙の種類は大体分かる。


「エルドのことか」


 ガルトは少し目を細めた。


「よく分かりますな」


「そなたが黙っていられる話ではないだろう」


「……左様で」ガルトは膝の上で手を組んだ。「申し上げます。あの者は、家中の士気に障ります」


「続けろ」


「評定のたびに黙り込む。ろくに口も利けない。軍略方という役職でありながら、一度として役に立ったためしがない。若い家臣たちが見ております。あのような者を置いておくことが、どういう意味を持つか」ガルトは声を上げず、しかし明確に言った。「切るべきです。先代から引き継いだ義理はありますが、今は今のことを考えねばなりません」


 アレスはしばらく黙っていた。


 風が窓の外で鳴った。


「ガルト、そなたはエルドが書いたものを見たことがあるか」


「……書いたもの?」


「今日、受け取った」アレスは懐から紙を取り出し、ガルトへ渡した。


 ガルトは読んだ。途中で眉が動いた。最後まで読んで、また最初から読んだ。読み終えても、すぐには口を開かなかった。


「……これを、エルドが」


「そうだ」


「しかし評定では」


「口では言えない。だが考えている」アレスは静かに言った。「考えておらぬ者と、考えているが言えない者は、違う」


 ガルトは返事をしなかった。


「切らぬ」アレスは続けた。「今は答えられなくても、後で持ってくる者を、私は待てる。それだけのことだ」


「……甘い」


「そうかもしれぬ」アレスは認めた。「だがガルト、甘さと見ていないことは別物だ。私はエルドを見ている。そなたが見ていないだけだ」


 ガルトはしばらく黙ったまま、紙をアレスへ返した。何かを言いかけて、やめた。


「……御意」


 それだけ言って、立ち上がった。部屋を出る前に一度振り返ったが、何も言わなかった。


 戸が閉まった後、アレスは紙をもう一度広げた。


 三箇所の候補地。それぞれの理由。ガルトが一瞬眉を動かしたのは、二番目の候補を見た時だった。アレスも同じ場所が気になっていた。街道から少し外れた丘の上。一見すると遠回りに思えるが、南からの荷を持つ商人が好む抜け道と交差する位置にある。そこに関所を置けば、逃げ道がなくなる。


 エルドは、確かにそこにいた。


 いつからそこにいたのかは分からない。ただ、いた。それを見ていなかったのは、周囲の方だった。


 アレスは紙を折り直し、明日の評定の資料の上に置いた。

書き終えて、残るのは勝鬨ではなく、北の廊下の静けさのほうだった。


 エルドというひとりの男を書きながら、ずっと考えていた。答えが遅い人間は、答えを持っていないわけではない。声が小さい人間は、言いたいことがないわけではない。ただ、その形と速度が、世の期待する「普通」とずれているだけだ。


 そのずれを、無価値と断じるのは簡単だ。


 アレスが特別なのは、強さではなく、その「簡単さ」に乗らなかったことだと思う。


 見捨てないだけなら、情の話で済む。だがアレスは「無視しなかった」。それは情より一歩深く、覚悟に近い。


 理想の主君像を書こうとして、気づいたことがある。理想は優しさではなく、「人を人として扱い続ける根気」の話だということだ。


 この話がまだ続くとすれば、アレスはいつか、もっと重い現実にぶつかるだろう。それでもきっと、彼は北の廊下で言った言葉を、撤回しないと思っている。


 読んでくださった方の中に、エルドに重なるものを感じた人がいれば、この話を書いた甲斐があった。

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