表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
76/82

第75話:女王の帰還 ── 【母性OS:マターナル・インスティンクト】

──翠視点──


 吹雪が止んだ後の森は、死を孕んだ白濁に沈んでいた。


 その静寂を踏み荒らすのは、軍靴の音ではない。

 意志を剥奪された『人畜』たちが、

 翠の最適化された歩法(プロトコル)に従い、

 雪を均一なリズムで踏みしめる、無機質な摩擦音だった。


「32番、……歩幅が乱れていますよ」


 翠は最後尾から淡々と告げた。

 もはや仲間の安否の気遣いは全くない。

 あるのは、損耗率を計算する冷徹な視線だけ。


「……翠さん……。あそこ……」


 巨大な倒木の影──

 周囲の魔素が、不自然に“湿った脈動”を

 放って歪んでいた。


 破壊でも、捕食でもない。

 もっと粘り強く、もっと切実で、

 “何かを守ろうとする波形”。


 翠は一歩踏み出し、魔素の揺らぎを読み取った。


(……この波形……

 “母性OS”特有の自己犠牲ログ……

 しかも、極限状態……)


「……ほぅ。これはこれは……

 素晴らしい素材だ」


 翠の口角がわずかに吊り上がる。


 倒木の陰にいたのは、

 かつて春斗が死力を尽くして

 退けた存在──女王アリ。


 だが、その姿は以前とは違っていた。


 甲殻は剥がれ落ち、触角は欠損し、

 青白い体液が雪に滲んでいる。

 そして異様に膨れ上がった腹部。


 翠は周囲の魔素痕跡を指先でなぞり、

 そこに残る“異常な削れ方”に気づいた。


(……“冬のデリート・プロセス”の痕跡……

 反転素に汚染された魔獣──

 『ノイズ・クローラー』との連戦……

 4度……いや5度か……)


 春斗たちが襲われたのと同じ現象は、

 女王アリにも容赦なく襲いかかっていた。


 それでも逃げなかった理由は──

 翠の視線が、倒木の奥へと滑る。


 そこには、泥と枯れ草で固められた

 “揺りかご”があった。


 女王アリは翠たちの接近に気づくと、

 ボロボロの脚で雪を掻き寄せ、

 必死にそれを隠そうとする。


 威嚇ではない。

 逃走でもない。

 ただ、卵を守るためだけの動作。


 翠の虹彩が淡く光る。


(……逃走OSを切り、

 母性OSを最優先プロセスに昇格……

 自己保存より、次世代の保護を優先……

 “原初OS”の極致……)


 翠は静かに笑った。


「素晴らしい……。

 あなたは、ここまで削られても……

 まだ“母親”を続けているんですね」


 女王アリは、かすれた声で鳴いた。


「ギ……ギギ……ッ……」


 その複眼には、捕食者の傲慢さは微塵もない。

 あるのは、次世代を守り抜こうとする、

 狂おしいまでの母性OSの波形。


 心桜が、胸の前で手を握りしめた。


「……翠さん……

 あれ……すごく……あったかい……

 でも……苦しそう……」


 心桜の誤愛OSが、

 “守る対象”への揺らぎに微かに共鳴していた。


 翠は、彼女の頬に触れながら微笑む。


「心桜さん。

 あなたの感じ方は、正しいですよ。

 でもね──“苦しみ”は、進化の前段階なんです」


 その瞬間、

 女王アリが翠の手に向かって、

 最後の力を振り絞って噛みつこうとした。


 だが、その動きは遅すぎた。


 翠は、まるで子どもの手を受け止めるように、

 軽くその顎を押し返した。


 そのとき、翠の視界に入ったのは──

 かつて春斗たちを絶望させた“女王の牙”。


 今は、ボロボロに欠け、砕け、

 血と体液で濡れていた。


(……春斗くんたちを追い詰めた“威厳”の

 象徴と聞いていたが……、今は……こんなにも……)


 翠は、ほんの一瞬だけ“美しさ”を感じた。


「……抵抗ですか。素晴らしい。

 その“母性OS”のログ……

 すべて解析してあげます」


 翠は、反転素の結晶を女王アリの甲殻に押し当てた。

 黒い霧が、女王アリの魔素神経へと侵入していく。


「……守らなきゃ……この子たちを……」


 その思念ログが、翠のOSに“データ”として流れ込む。


 翠は、静かに笑った。

「ええ。あなたの“母性”という名のバグ……

 僕の文明の動力源として、有効活用してあげますよ」


 女王アリの身体が震え、

 反転素の濁りがその内部へと染み込んでいく。


 心桜は、震える声で呟いた。

「翠さん……

 これ……壊れちゃう……?」


 翠は優しく答えた。

「壊れるのではありません。

 “最適化”されるんです」


 黒い霧が、女王アリの周囲に渦を巻いた。


 反転素と母性OSが衝突し、

 森の深層に、異様な“因果の悲鳴”が響き渡った。

【OS雑学:人は“母性”という名の原初設計図に逆らえない】


 ・生物のOSには、自己の生存よりも

  『次世代の継承』を最優先する

  保護プロトコルが深く刻まれている。

  心理学では『親性本能』、OS理論では

  “管理者権限の自動発動”と呼ばれる。


 ・この状態は、前頭前皮質の判断OSが

  サスペンドされ、扁桃体と島皮質が

  優先処理を行うため、恐怖や痛みの

  デバフを無視して行動する。


 ・“弱っている母親”の波形は、他者の脳に

  情動伝染を引き起こし、守るべき

  対象として誤認させる。


 ──あなたのOSは、

   ボロボロの母親の悲鳴を

   『救うべき声』と聞く?

   それとも『利用すべきログ』と見る?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ