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第10話:谷 の心臓 ── 秘密基地の【セットアップ完了】

 岩壁の裂け目を抜けた瞬間、空気が変わった。

 外の森にまとわりついていた重苦しい湿気が、

 まるで見えない膜を越えたようにふっと消えた。


 ひんやりと澄んだ静寂が谷全体を満たしていた。

 風が切り立った壁に当たって柔らかく砕け、

 湧水の細い流れが、この場所の“心臓の鼓動”のように

 一定のリズムを刻む。


「……ここ、ほんとに静かやね」


 美園が、長時間の探索で重くなった

 バックパックを下ろし、

 肩の力を抜くように息を吐いた。


 しのんは僕の手をぎゅっと握ったまま、

 谷の奥をじっと見つめている。

「おにーちゃん……ここ、こわくない……?」


「うん。むしろここは、森で一番安全な“秘密基地”になるよ」

 その言葉に、しのんの瞳がぱっと輝いた。


 ◇◇◇


 谷の入口は、人間が横向きになって

 ようやく通れるほどの狭さだ。

 大型の魔物は物理的に侵入できない。


 ただ──きらりはその巨体ではどうしても通れなかった。


「コォ……」

 入口の外で寂しそうに蔦を揺らすきらりを見て、

 僕は地面の地質を指先で確かめた。


「大丈夫だよ、きらり。外から回り込める

“地中ルート”があるはずだ」


 僕の予測通り、きらりは外側の柔らかい地層を選んで潜った。

 そして、谷の中央──黒い岩壁から最も離れた場所の

 土を盛り上げて顔を出した。


「わぁ、きらり、こっちからこれたのね!」

 しのんが駆け寄ると、きらりは安心したように蔦を揺らし、

 谷の真ん中に“巣”を作り始めた。


 ◇◇◇


 僕は谷の中央に立ち、ふと上を見上げた。

 空は細い線のようにしか見えない。


 けれど──暗くはなかった。

 谷を覆う黒い岩壁は、上部に行くほど“黒石”の比率が高くなる。


 しかしその黒石は、密度が薄い部分が“半透明”になっていて、

 外の光を柔らかく通していた。


「……春斗さん、ここ、思ったより明るかねぇ」

 美園が不思議そうに見上げる。


「はい。黒石は魔物が嫌う成分を含んでいますが……

 同時に“光を通す性質”もあるみたいです」


「上部は黒石の割合が高い分、逆に透明度も上がっているんです」

 岩壁の隙間から差し込む光は、まるで薄い雲越しの

 太陽のように柔らかく、谷全体を淡く照らしていた。


「……なんか、洞窟の中やに、外みたいな明るさやね」


「そうですね。光量は十分ありますし、

 昼間は焚き火すら必要ありません」


 しのんが光の筋を追いかけながら笑った。

「ここ、きれい……!」


 ◇◇◇


 僕は谷の奥へ歩きながら、地面の広がりを確認した。


「……広い。奥行きは一キロ以上ありますね。

 幅も数百メートルはある。

 全体で見れば……“街ひとつ分”くらいの広さです」


 美園が驚いたように息を呑む。

「街……? こんな森の奥に……?」


「はい。人が増えても……まだまだ余裕があります」


 美園が少し表情を曇らせた。

「……でもね、春斗さん。

 人が増えるのは、ちょっと怖くもあるとよ」


「怖い……?」


 美園はしのんの肩を抱き寄せた。

「うちは……春斗さんと出会う前、他の転移者と

 関わるのが怖くて……避けとったんよ。

 危なそうな人もおったし……相性が悪い人と

 一緒におったら、命取りになるけん」


 しのんも小さく頷く。

「こわいひと……いた……しのん、にげた……」


 僕は二人の前にしゃがみ、はっきりと言った。

「……安心してください。

 僕は“誰でも無条件で受け入れる”

 なんて絶対にしません」


 美園が驚いたように目を見開く。

「ほんとに……?」


「はい。危険な人間は必ずいます。

 だから、信頼は“行動”で判断します。

 信用の基準はいくつもありますし

 ……僕には、その判断材料があります」


「判断材料……?」


「ええ。転移前にテレビで見た“AI開発者のインタビュー”で、

 “人間には主に3つのOSがある”って話していたんです。

 それが思考OS・本能OS・行動OS。

 それぞれの特徴と、どう見抜くかを説明していました」


 美園が息を呑む。

「……そんな話、テレビでしよったと?」


「はい。質問への反応や、言葉の選び方、

 ちょっとした仕草で“OSの傾向”が分かるって」


 しのんが興味津々で身を乗り出す。

「おにーちゃん、それ……しのんも、みてみたい……!」


「もちろん。思い出せる限り、全部メモに書き出します。

 それを見れば……危険な人かどうか、判断できますから」


 きらりがぽろぽろと晶核片を落とした。


 ◇◇◇


 僕は入口付近の地面を調べた。

 足跡、爪痕、擦れ跡──どれもない。


「……やっぱり。ここには、魔物が一匹も

 入り込んだ形跡がありません」


 岩壁の下に転がっていた黒石を拾い上げる。


「この黒石……壁と同じ成分です。魔物が本能的に

 嫌がる“境界石”みたいなものですね」


 きらりが近づくと、蔦を少し引っ込めた。

「コォ……」


「ほら、きらりも反応してる。この石を並べておけば、

 魔物はここを避けるはずです」


「石ば……並べると?」


「はい。黒粉だと風で飛んでしまうので……

 後で入口付近からこの黒石を“石畳みたいに”並べていきましょう。

 そうすれば、安全地帯を少しずつ広げられます」


 美園は黒石を手に取り、誠実そうに重さを確かめた。

「なるほど……これなら、うちでも手伝えるねぇ」


 ◇◇◇


 生活拠点の設営が本格的に始まった。


 地面からの底冷えを防ぐため、拾い集めた

 丈夫な枝を組み、木箱のような土台を作る。


 その上に、雷角サイの分厚い皮を一枚敷いた。

 防水性と耐久性が高く、湿気を完全に遮断してくれる。


 さらにその上に、以前仕留めた巨鳥の白い羽を、

 大きな一枚羽を重ねるようにふかふかと敷き詰めていく。


「……わぁ……ふわふわ……!」

 しのんが思わず手を沈めるほどの柔らかさだ。


 美園も驚いたように目を丸くする。

「すごい……これなら、

 地面の冷たさも感じんし……羽の肌触りが、

 ほんとに気持ちよかとよ……」


 その傍らには、調理台にぴったりの平らな岩があった。


「美園さん、この岩は台所にしましょう。

 素材を置くのにも便利です」


「これでようやく、まともな食卓が作れそう」


 しのんは羽の上で転がりながら、

「ここ、しのんのおへや!」と嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、きらりが蔦を揺らし、

 ぽろぽろと晶核片を落とした。


 ◇◇◇


 夕暮れ。

 入口に設置した目隠しの幕が、

 焚き火の光を谷の中に閉じ込めていた。


「……春斗さん。

 これで、今日からは安心して眠れるねぇ」


「はい。

 僕たちの新しい生活……最初の秘密基地ですね」


 しのんが僕の膝に頭を乗せ、

 きらりがその足元で蔦を丸めている。


 美園は焚き火の火を見つめながら、

「……こんな日が来るなんてね」と小さく呟いた。


 この閉ざされた谷の中だけは、

 冷酷な世界の理から切り離されたような、

 不思議な温もりに満ちていた。


 ──その静寂を、深層からの胎動が破った。

 森の遥か深部。


 その奥底から響いてくるような、

 重く粘り気のある地鳴り。

「ごぉぉ……ん……ごぉぉ……ん……」


 きらりの振動とは違う。

 もっと巨大で、質量を持った“何か”が、

 地中のどこかで蠢いている。


(……森の“呼吸”が乱れてる……?)


 きらりが全身の外殻を刺々しく震わせ、

 地中の入口を塞ぐように蔦を逆立てした。


「春斗さん……今の音はなんね……?」


「……分からないです。

 でも──森の奥で“何かが動き始めた”のは確かです」


 焚き火の炎が爆ぜ、岩壁に映る僕たちの影が歪に揺れた。

 静かに、しかし確実に。


 森の深層で、何かが目を覚まそうとしていた。

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