第二十一話 撤退
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そこはもはや「戦場」ですらなくなっていた…
ただ単に底なしの「泥の海」が広がっているだけとなった。
サンフォーレ皇国が誇る重装騎兵たち…
彼らのその誇り高き「鋼鉄の鎧」こそが、今や重い「枷」となり、
彼らを容赦なく、泥の底へと引きずり込んでいく…
沈むことしかできない…
馬も人もただもがき、ゆっくりとだがしかし確実に沈んでいく…
「鎧を脱げ! 鎧を捨てるんだ!」
一部の判断の速い者たち。
彼らは必死に泥の中で、重い鎧を脱ぎ捨て沈むスピードを遅らせることに成功した。彼らの顔に一瞬だけ「生」への希望が浮かんだ。
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「ひっ…! ひいいいいいいい!」
泥の中で兵士が呻く…
それこそが、この泥沼の地獄の入り口だった。
泥の中から必死に這い上がろうと、上げた足には、
びっしりとついているのである…
黒くぬらぬらとした、
指ほどの太さの何かが、
びっしりと吸い付いていた。
ヒルだ。
血を吸収し、膨れ上がった無数の吸血ヒルであった。
「ヒルがいるぞ!!!」
彼の周囲にいたほかの兵士がパニックになり、自分にもついていた吸血ヒルを引き剥がそうとする。
そして彼が気を取られたその瞬間であった。
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ニュルリ。
彼は生ぬるい感触を感じた。
彼が恐る恐る視線を落とすと、そこには円盤状のヤスリのような「歯」がびっしりと並んだおぞましい「口」を持つ、腕ほどの太さの、「モンスター」が、右胸に食らいつくところであった。
ローレンシアヤツメウナギだった。
彼らは無数の刃をもち、吸盤用の口で吸いつくや否や、そのまま肉をむさぼり喰らうのだ。
ゴリゴリゴリゴリ…!
「ギャァァア…」
肉が、えぐられ、
骨が、削られる、
不快な「振動」が体に響き渡る…
もはや状況は吸血ヒルの対処どころではない。
声なき悲鳴を上げながら、その肌深くに食らいついた、その悪魔を引き剥がそうとするが吸盤はびくともしない。
泥の中からは、ウネウネと動く無数のにょろにょろした生き物が、そのおぞましい円盤用の口を向けながら、一斉に泥とヒルに苦しむ兵士たちへと襲いかかった。
泥の海は一瞬で、血と絶望に染め上げられた。
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シュライヒャー将軍は、その阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、鬼の形相で叫んでいた。
「怯むな! 岸へと這い上がれぇぇぇ!!!」
と、シュライヒャー将軍は、はるかかなたにみえる平原の隅を目指して、撤退を開始した。
この泥沼は、単なる泥沼ではない… 吸血ヒルや人食いウナギがいる危険な泥沼と化しており、泥に入ること自体が危険行為であった。
この撤退は困難を極めた…
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シュライヒャー将軍は先ほどのセラフィーナとの戦闘での魔法防御と、泥沼を行軍するためのエアステップで魔力を消耗しきっていた。その為将軍は、周りで泥に足を取られもがいている部下たちの「肩」や「頭」を、躊躇もなく踏みつけ、飛び石を渡るように跳躍しながら撤退していた…
「しょ、将軍!?」
足場にされた兵士が、苦痛の声を上げる。
しかしシュライヒャーは振り返らない。
これは時間と戦う事態…
急がねばならない…
彼の頭の中には、もはや「部下」という概念はない。
彼らはただの「沈みゆく足場」に過ぎない。
将軍は、このまま泥の上を撤退していたが、次の足場である騎馬までは距離があって飛び越えられない…
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「お前が入れ!!」
シュライヒャーは、すぐ後ろについてきていた若い兵を目の前の泥に突っ込ませていた。
「しょ、将軍…!」
「ひっ…! 」
シュライヒャーはその若い兵士の頭を、「足場」として次の足場まで進んだのだった。




