(08)朝の勘違い
月曜日の朝。
俺も黒羽もそれぞれの学校があるので、今日は久しぶりに一緒に登校する日である。
朝食を済ませ、今は互いの支度を終える時間。机の上に置いていた昨日のレポートを鞄にしまいながら、俺は一つ、息を整えた。
「兄さん、私は準備できたけど」
(今日もお兄さんと登校できる……♡最近毎日お兄さんと話せて幸せすぎる……今日も朝からかっこよすぎて朝からずっと顔見つめちゃった……♡はやく降りてきてくれないかな……?)
階下から控えめな声が届く。
朝食を作ったあとに弁当まで用意してくれる分、俺よりも朝の支度は大変なはずなのだが……黒羽は相変わらず手際がいい。
「ああ、俺も今降りるよ」
返事をして、俺は鞄を手に取る。
階段を下り、リビングを抜けると、玄関の前で黒羽が既に待っていた。
制服の襟を整えながら、いつものように弁当を差し出してくる。
「ありがとう」
受け取って鞄にしまうと、黒羽は小さく頷いた。
その一連の仕草がやけにぎこちなくも感じたが、それを含めて黒羽は〝いつも通り〟である。
「あとは……そうだ、リビングの電気を消してくる」
「……それじゃ、私は先に外で待ってるから」
(これ以上お兄さんの顔見てたら絶対にやけるの抑えられなくなる……!! 一旦避難して顔と頭冷やさなきゃ……っ! うん、今は冬だしちょうどいいよねっ)
抑揚のない声でそう返し、玄関から出ようとする黒羽を見て――
「黒羽、ちょっと」
あることに気付いた俺は、声を掛けた。その声に、黒羽が小さく足を止める。
立ち止まった黒羽に、俺は〝それ〟をするためにまっすぐ近づいていく。
俺はそのまま数歩近づき、振り返った彼女と視線を合わせた。
「…………雪透さん?」
足を止めたまま、黒羽は首を傾げている。
そのまま目の前に立った俺は、「少し動かないでくれ」と声を掛けながら――
そっと、頭に手を伸ばした。
「……!?」
(ええええええっなに!?!? 近い近い近い近い近い!!! なんで!? どうしていきなりこんなに近づいてきたの!? えっえっえっ、なにされちゃうの!? えっキス!? キスなの!?!? は、初めてなのにこんないきなり……っ!! きゃあああでも嬉しすぎるよぉぉ♡♡ずっと妄想してたことが現実になるなんて……!!♥しかも強引に引き寄せてキスされるとか理想的なシチュエーションすぎる……っ♡♡♡うぅっ、とにかく目つむらなきゃ……ああもう心臓飛びでそう……お願い、優しくして……♡)
…………。
「……よし」
目的を果たした俺は、黒羽から一歩離れた。
「……え?」
(え??)
黒羽はゆっくりと目を開け、きょとんとした顔で俺を見上げる。
「髪に糸くずがついてた。――黒羽の髪は綺麗だから、余計目立つんだよな」
さっき黒羽が玄関に向かったとき、髪に白い糸くずが絡まっているのが見えた。
おそらく、白い服の裾か何かからほつれた糸だろう。
「……、……あ、りがと……」
(ああああああっ糸くずを取ってくれただけだった!!! 私なにキスだと思って目つむっちゃってるの!? 恥ずかしすぎるんだけど!! あっでもまた髪の毛触られちゃった♡♡もうだめ、最近供給過多すぎてこのままじゃ私の心が持たないよ……っ! ていうかこんなに頭と髪触られたら撫でられたくなっちゃうよぉお兄さんのばか……♡またお兄さんの枕に頭すりすりしなきゃ……っ)
黒羽が小さな礼と共に顔を逸らしたのを見て、俺は指で持っている糸くずに視線を落とす。
(そういえばこの糸、黒羽が着ている制服の白シャツとは若干素材が違うような……)
……まあいいか、大したことじゃないし。
「それじゃ、行こうか」
「……はい」
それにしても、黒羽はなんで目を瞑ったんだろう。
……ああ、いきなり近づいたから驚いたのか。
(黒羽はいつも距離感が遠いしな。そうなるのも無理ないか)
最近は黒羽といる時間が増えたおかげか、黒羽のことを前よりも知れているような気がして嬉しい。
音に敏感なところとか、意外と臆病なところとか。
だから、顔が少し赤かったのも――きっと気温のせいだろう。
(♡♥)
――夜、黒羽の部屋。
帰宅して夕飯と風呂を済ませた黒羽は――今日もベッドで暴れまわっていた。
(ああああっ今日の朝の勘違いが恥ずかしすぎて頭から離れないよおお!! キスされちゃうかもってなに!!?? 紳士のお兄さんがいきなりそんなことするわけないでしょ!! ……いやされたかったんだけどね!! ……~~~っ!! そういえばまた頭触られちゃったんだった……♡♡昨日は優しくぽんってされて、今日は髪を梳くみたいに優しく……ああぅうぅ、お兄さんの優しい手つきが忘れられない……♡♡)
(はああっそれに相変わらず送り迎えしてくれて優しかったなお兄さん……♡でもごめんなさいお兄さん、朝のインパクトが強すぎてそのあとから今までの記憶がないの……!! なんとか返事は返してたとは思うけど、お兄さんといるときはずっと頭の中ピンクだったし……学校着いてからはぼーっとしちゃって授業入ってこなかった……♡うぅ、お兄さんに真面目な子だと思われたいのに……♡)
(――あと私の髪についてた糸くずって絶対お兄さんのニットからだよね……!? 昨日の夜もすりすりしたあと抱いて寝たし……! 起きて髪巻くときに取れると思って油断してたあああでもバレなくてよかった!! これほつれやすいけど、もこもこで匂いもまだ残ってるから返したくないんだよね……それにもう少し私の匂いつけてからさりげなく戻したいし……あぁお兄さんが私の匂い付きのニット着るって想像するだけで興奮する……♥うん、冬のうちにお兄さんの部屋に戻しておかなきゃ……! あとは明日から髪につかないように気を付ければ大丈夫だよね♡……あっでも髪についてたらまた取ってくれるのかな!? でもあれ心臓に悪すぎるよぉ……♥)
枕に顔を押しつけたまま、黒羽は足先で布団をばたつかせる。
(うぅ……明日こそは落ち着いて話すんだから……! ……うん。たぶん……)
布団の端をにぎりしめ、決意だけは立派にしたものの――数秒後の黒羽は、また枕を抱えて転がっていた。




