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(07)氷川雪透という人間

 

 黒羽から上がった、彼女らしからぬ声量の悲鳴に、雪透は思わず足を止めていた。


「わ、悪い……そんなに驚かせたか?」


 黒羽は持ち前の反射神経で跳ねるように立ち上がり、持っていた服を洗濯籠に戻していた。

 ――そう、つまりギリギリのところで雪透に見られるのを回避していた。

 黒羽は急いで息を整えると、


「……うん、大丈夫……あの、今から洗濯物を回そうと思ってただけだから……(ああああああ焦ったああバレるかと思った!!!! え見られてないよね!?!? いや多分ギリギリ間に合ったはず……!! ひいい集中しすぎて全然足音聞こえなかった……っ!! ううもう本気で心臓止まるかと思ったしなんなら一瞬走馬灯も見えかけたよおお……っ)」


 後ろを向いて、カゴの中の衣服を洗濯機に入れ始めた。

 さすがに平静を装いきれず、黒羽は肩で小さく息をしながら必死に動揺を抑えている。


 その時、雪透は――


(そういえばこの前もいきなり声を掛けたら驚いてたし……悪いことしたな)


 どうやら黒羽は音に敏感らしいから今後気を付けよう、くらいにしか考えていなかった。


 ――雪透は物事を、目ではなく思考の奥で捉える人間だった。

 目に映る変化よりも、相手の言葉や、その奥にある意図を先に探してしまう。

 だからこそ、目の前の変化にはひたすら鈍く――それが黒羽とある意味で噛み合い、これまで彼女の気持ちや行動が露見することはなかったのだ。


(あああああああもう!!! お兄さんが発する音に気づけないなんて私のばか!!! だって匂いに集中しすぎて他の五感がどっか行っちゃったんだもん!!

 …………多分いきなり叫んじゃって怪しまれたと思うしこうなったらさすがにしばらくは控えなきゃだよね……? ……うう、私の休日の楽しみがぁ…………でもばれて嫌われるよりはマシだし……うぅけど……雪透さんのお洋服に顔埋めるの最高にやばかった……♡♡ 今度はお兄さんが出かけてるときを狙ってチャレンジしようかな……?♥)


 二人の思考がまたも入れ違う中、休日の洗濯機だけが、すべてを知って静かに回っていた。



(♡♥)



 時刻は昼過ぎ。

 俺はあの後、洗濯を回し終えてふらふらと部屋に戻っていった黒羽を見送って、リビングのソファに座りながら大学のレポートをやっていた。

 レポートとはいっても、今は教授の研究に使う「文学的感情表現の心理的影響に関する研究」をまとめているだけだ。

 特別選抜で今の大学に入ってすぐ、心理言語学研究室の教授に声を掛けられた俺は、研究協力の一環として様々なテーマの考察を提供している。

 一応そこで〝研究協力費〟という名目で報酬も出るのだが、感覚としては半分趣味みたいなものだ。

 俺は――人間の言葉には必ず、言葉の真偽に寄らない何かの意味や、それに伴う『真実の感情』があると考えている。

 人間の言葉は、表に出ない『真意』やその『美しさ』こそが重要である――そう考える俺にとって、心理学や感情表現の研究は実に興味深いものなのだ。


 そしてそれらは、俺が書いている小説にも色濃く反映されている。

 舞台やテーマは作品ごとに変わっても、『登場人物の心情の深さや言葉の意味、美しさを描く』という点だけは一貫している。

 思考を巡らせながら、今回の考察をまとめ終えた俺は、静かに筆を置いた。

 普段はPCで執筆している分、たまにはこうして筆を執るのが、ある意味で〝筆休め〟になる。


「ふぅ……」


 ――それにしても、さっきのは意外だった。

 普段無口で冷静な義妹が、あんな驚き方をするとは思っていなかったからだ。


(いや、狭くて静かな空間で家事に集中していたところに、いきなり背後から物音がしたら……黒羽も女の子だし、驚くのも無理はないか)


 そういえば――黒羽とは一緒にテレビを観たこともないし、もちろんテーマパークなどに行ったこともなかった。

 そんな経験でもあれば、黒羽が音に弱いことくらい、きっとすぐに気づけただろう。

 幼い頃からずっと一緒にいて、ずっと見てきたはずなのに……俺は、黒羽のことを思った以上に知らないのかもしれない。

 黒羽が内向的(?)な性格だからというのもあるが……ここ数年は、黒羽を養うのに必死で仕事のことばかり考えていたのが大きい。

 ……今でこそ安定して十分な暮らしができているが、学生のうちから親がいなくなるというのはそれなりに大変なことだ。

 収入や支出の問題だけではなく、家のことや公的な手続きなど、子供が二人で生きていくには様々な問題がある。

 ようやくそれらが整い普通の暮らしができている今、黒羽には幸せになってほしい。

 黒羽が自分から行動を起こすタイプではない以上、彼女のことを知るにはこちらから仕掛けるしかない。

 「友達がどう」とか「趣味を見つけるべき」だとか――黒羽の意思にそぐわないお節介を焼くつもりはもうない。

 人間関係を聞いた俺に対して、黒羽は「今のままがいい」と言い切った。

 

(――なら、答えは一つしかないよな)


 黒羽が、俺と過ごす日々をそこまで大切に思ってくれているというのなら――俺は、俺ができる全てで、彼女が望むものを与えてやりたい。

 ――そしてそのためには、黒羽をもっと知る必要がある。


(……とりあえず、今度映画か遊園地にでも誘ってみるか)


 この数日間で黒羽を観察してみたが、まだ具体的に何かを知れたというわけではない。

 しかし、一緒に登校するようになったあの日から、ほんの少しだけ――何かが変わった気がする。

 それは黒羽や俺の中で何かが変わったと言うよりも、彼女と過ごす時間を増やしたことによって、見える景色が少し変わったと言うだけのことなのだろう。

 

 結局のところ、いつの時代も人間の感情というものは計り知れず、理屈や定義を超えている。

 けれど俺は、そこにある絶対的で唯一無二の『()()』を知ることができれば、きっと、それを言葉で追えると信じている。

 それが何なのかも、言葉にする方法も――俺はまだ掴めていない。

 けれど、それがどこかにあることだけは――不思議と、確信している。


 ――。


 家の奥で、柔らかな水音だけが静かに響いている。

 静かな家に、いつもの音だけが戻った。















































 ――その頃黒羽は、自室のベッドで兄のシャツを胸に抱きしめていた。

 誰にも見られない場所で、静かに息を整えながら――今は、匂いなど嗅いでいない。


「お兄ちゃん、()()()()よ……」


 声に出した瞬間、熱が頬を伝う。

 泣くつもりなんてなくても、それは静かに落ちていく。


 この想いは、言葉にしたら壊れてしまいそうで。

 だから彼女は、誰もいない部屋の中でただ、それを抱きしめていた。


 布越しに感じる温もりは、記憶の中の優しさと同じ温度をしていた。

 ほんの少しでも近づきたくて――けれど、届かない。

 感情(なみだ)は収まる方法を知らず、嗚咽(ことば)にもならない息が漏れる。


(もしほんとの私を知られたら――嫌われちゃう、のかな)


 ――胸の奥のどこかで、この気持ちには名前をつけてはいけないような気がしていた。


(……それでも、だいすきなの)


 ――たとえ叶わないとしても。

 その想いが、絶対に消えない、唯一のものだと知っている。


 心の声は夜の静けさに溶けていき、やがて、穏やかな寝息へと変わっていった。

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