scene 11-1
片付けたはずの写真が散らばっていた。
テーブルの上だけでなく、リビング全体に。
慧は写真を手に取った。
それはマウロが撮った、ポラロイドカメラのフィルムではなかった。
「――慧」
うんと低い声に呼ばれて振り向けば、そこには同い年ぐらいの黒髪の青年が立っていた。
知らない人だった。
「だれ?」
「冗談はやめてくれ」
本当に知らない、と首を振る。
「そんなわけないだろ。俺たちは――」
悲しそうな薄ら笑いを浮かべて、青年は距離を詰めてきた。
一歩。
慧は、半歩――しか下がれなかったのは、その足下にあの美人さんがいたからだ。
「にゃーんっ」
周囲は白くない。
「ほら、カアナも心配してる」
――カアナ?
足下にいる彼女ばかり気にする慧の頬に触れて、青年は自分に視線を向けさせた。
それは、いつかの彼女と同じ所作。
でもそこに安堵感はなかった。指先から伝わってくる、どろっとしたなにかに、慧の体は動かなくなる。
「猫が飼えるところなら、一緒に住むって」
あたりに散らばる写真は、全て慧だった。
「今さら受け入れられないなんて――」
近づいてくる知らない同居人の顔を、見知った革手が鷲掴んだ。
「――お呼びでないの」
慧の後ろから、慧を包み込むように抱き締めたARは、知らない同居人を白砂にした。
それが、なにを意味するのか。
まだ日も昇らぬ早朝に、慧は目を覚ました。
“記憶が戻った”という感覚はなかった。
ただ、いつもの白い世界ではない夢を、失った一部だと肯定している自分もいた。
微睡みの中、ゆっくり体を起こすと、隣にいるはずのカアナがいないことに、慧は気づいた。
昨日も一緒の布団だった。
直接言われたわけではないけど、余計なことを考えないようにと、どこまでも気にかけてくれて。しどろもどろになりながらお礼を言うと、いたるところをすりすりされて、気絶同然の入眠となってしまったのだが……。
そんな彼女がいた場所は、もう冷たくなっていた。
しかし、朝ごはんを準備しているような音は聞こえてこない。
それどこか、いつも開けっぱなしの引き戸が、今日は閉まっている。
朝が億劫な慧のために、先に起きたカアナが開けてくれるカーテンも閉めきられたままだった。
「カア、――ッ!?」
引き戸を開け、慧は絶句する。
“片付けたはずのフィルムが、リビングに散乱していた”のだ。
夢に視た光景が現実に、慧は途端に頭が追いつかなくなる。
既視感?
正夢?
……だとしたら、知らない同居人がやってくる?
そんなわけない。
だって、ここは……。
棚に飾られた写真立てが、カアナとマウロと過ごした日々を物語ってくれる。夢を視ているわけでも、夢の続きでもないのだ。
必死に現実にしがみついていると、がちゃり、と玄関のほうで音がした。
開いて、
閉じて、
鍵を、閉めた。
確実に誰かが入ってきた。
なのに、足音が一切しない。
気配だけがゆっくり、あの同居人が距離を詰めてきたときのように。
静かすぎて息が詰まりそうだった。
「――――あら、起きてたのっ?」
声色と口調で、慧の悪夢は完全に覚めた。
ちょっと髪の乱れた彼女は、ビニール袋をカウンターテーブルに置きながら、「早いのね」なんて眩しい笑顔を向けてくる。
あぁ、カアナだ。
サイズは合ってるのに、カアナが着ると寸足らずで、借り物感のぬぐえない部屋着姿の、いつもの彼女だ。
慧はフィルムを踏まないよう、カアナに駆け寄った。
いろんな感情から解放されたからか、その足どりはふらふらで。
「早起きな上に、情熱的なのね」
カアナの胸に飛び込む形となった慧は、彼女の存在を確かめるかのように抱き締めた。
喜びと困惑が、カアナから伝わる。
なにか言わないと。
気ばっかり焦って、言葉が出てこない。
「コンビニ、行ってたの。ほら、昨日は外食だったし、お弁当で食材使い切っちゃってて」
そんな慧を包み込むように、カアナの手が背中にまわされる。
「でもその前に空気の入れ換えしなくちゃって、窓開けたら、今日風強くてね。アルバムにおさまらなかったやつ、全部吹き飛ばしちゃったのよ。慧が起きたらびっくりしちゃうって閉めてたんだけど、裏目にでちゃったみたい」
寝室のカーテンを開けていないのも、今日は大学もお休みで早く起こす理由がなかったからだと、『いつも』と違う部分の説明をしてくれて。
『マウロが帰ってきたら、2冊目買いに行きましょ』
昨日、そんな会話をしながら棚に置いていたことを思い出し、慧はようやく落ち着きを取り戻した。
「ご、ごめん……もう、だいじょぶ」
「起きて部屋がめちゃくちゃだったら、アタシだってびっくりするもの」
ただ、1つだけ。
どうしても、夢と重ねてしまう部分があった。
「……ねぇ、カアナ」
「なぁに?」
「カアナはどうして、“カアナ”なの?」
「えっ?」
「……夢を、視たんだ。こんな風な部屋で、知らない人が詰め寄ってきて。いつも夢に出てくる子が足下にいて、カアナって、呼んでて」
そのいつもは『いつも』違いだ。
慧しか知らない、夢の中の美人さんをカアナに聞くこと自体が間違っている。
けれど、彼女は答えてくれた。
「――その子は、こんな模様してた?」
慧から離れたカアナは、ロンググローブを外して、限界まで袖をまくって見せた。
茶色ベースの黒と白の体毛に覆われた腕を――――あの子と同じ毛並みをした右腕を。
あの腕を見つめたまま、しばらく沈黙が流れた。
「……」
「……」
「……」
「……がっかり、した?」
先に耐えられなくなったのは、カアナだった。
漠然とした慧の質問を、彼女は“記憶を取り戻した”と思い込んでしまったのだ。
それならばヒトとARの中間のような容姿をさらし、拒絶されて当たり前な状況を作ってしまおう、とヒトならざる手で自身のTシャツを引きちぎった。
猫だったという名残にしては物々しい、軽くなぞっただけでも切れかねない鋭利な爪が光る。
立派な胸板を見入る慧に、カアナは出生を語った。
「アタシね、オスメスないの。ヒトの形に成れただけで大成功だったときの初期型のARでね」
胸もなければ、ナニもない。
頭上にある耳はヒトと同じ位置にあり、左耳は少し尖ってるだけで人間に近かった。
アシンメトリーの髪型やロンググローブは、それらを隠すための処世術なのだ。
なにもかも中途半端なARを、気味悪がる人間のほうが多かった。
そんな環境下に一時期置かれていたカアナに、ありのままで愛される自信なんてなかった。
拒絶してくれと言わんばかりの微笑みを、慧に向けた。
「……慧が愛したのは夢の子であって、アタシじゃないのよね」
カアナの口振りに、あの夢が記憶であることが、慧の中で確信に変わった。しかし、依然として思い出したという感覚はなかった。
けれど、カアナと夢の子が一致して、いっそう彼女に対する想いが強くなったことは確かだ。
慧は、カアナの両手をぎゅっと握った。
「離して、慧っ。手が、切れちゃうっ」
“目覚めたら、最期。もう逢えない気がした”
全く違う状況なのに、かつて視た夢が慧の脳裏に浮かぶ。
「――……なくてっ」
「慧っ。お願いだから、手をっ」
「記憶っ、戻ってなくてっ!!」
肉が切れる感触がする。
それでも、慧は離すわけにはいかなかった。
「あの子がっ……カアナだったらいいなって、それだけだったんだっ!!」
カアナが離れていく、いなくなっていくことが、怖い、と感じた。
カアナと一緒にいたい。
もっとカアナと、いろんなことをしてみたい。
――どんなカアナでも、カアナはカアナだよ。
頭の片隅で疼く台詞を、いつか自然に言える日が来るまで。
「……もうっ」
慧の手を振りはらうことくらい造作もないのに、カアナはそれをしなかった。
「昔の自分にヤキモチ焼いちゃったじゃない」
普段そういった熱を感じない、慧からのアプローチに胸が痛くなる。
でもそれは、甘美なもの。
締め付けられようが、突き刺さろうが、ココロは零れることなく、満たされていく。
「――大好きよ、慧」
そう耳元で呟くカアナを慧が抱き締めた――――――その時だった。
空気を読んでいたかのように、着信音が鳴る。




