scene 9-2
日が暮れ、マウロは義行と禁止区域へ出発した。
「行っちゃったわね」
「……うん」
ムードメーカーがいなくなった家は静かだ。
マウロがいるからカアナもワーキャー言うだけで、元来騒がしいほうではない。
「本でも読もうかと思ったけど、こっちが先ね」
リビングに戻ると撮りためた写真がテーブルを散らかしていた。
慧とカアナが出発の準備を始めて、1人やることのないマウロは、写真にタイトルをつけていたようだ。ちゃんとポラロイドカメラが置いてある。
「いろんなもの撮ってるね」
「どれどれ」と、カアナが1枚手に取る。
“いじわるなやつ”
「影津先生だね」
「……字にトゲがあるわね」
「根に、持ってるのかな」
「おそらくね」
「こっちは――小さくてにがいのだ、の人……って、お客さんまで撮ってるじゃない」
「紀子さんもいる」
「博士も。義行さんの寝顔まであるわ」
カメラの性能がいいのか、マウロの腕なのか。
なかなか上手く撮れているものばかりだ。
周囲がぼやけ、被写体をしっかりとらえている。
中には浮き上がってくる前に触ってしまって、茶色い跡がついてしまっているものもあるけれど。指紋でベタベタなのがもったいない。
「慧、明日の予定は?」
「1限目だけだよ」
「博士は?」
「卯月くん、その授業とってないんだ」
「じゃあ、そのあとデートして。アタシと」
「 そして、気まずそうに目をそらした。
「自分のこと考えると、よく分からなくなって……なにも手につかなくなって……。でも、それじゃ……だめだと思って……休学してた分、単位……とろうって」
“自分と向き合えば合うほど、空っぽであることを思い知らされる”
そのドツボにハマらないようにした結果が、きっとこの部屋なのだろう。
「――そうやって追いつめちゃったから、ごはん食べられなくなったんでしょ」
ひとりでいれば、なおさらだ。
でも、もうひとりではないのだ。
サンドイッチが好きだと言ったあの時のような顔が見たくて、カアナは慧の両頬を包んで、むぎゅっと正面を向かせた。
「ごはん、は……ちょっと違くて」
視線を合わせたり、合わせなかったり。
ぱちくりする慧は複雑そうだった。
「違うの?」
「味、しなくて。ひとりだと。ゴム食べてるみたいで。だから義行さん、ごはん食べにおいでって……」
けれど暗い話には変わりない、とまた影が差し始める。
「ごめん……こんな話ばっかりで……」
「そんなことない」
いつもなら茹であがってる慧はまだ冷たい。
「慧のこと、慧の言葉で知れて嬉しい」
体温ごと、それが上辺でないことが伝われば、とおでこをこつんと重ねる。
それでもうろたえない慧に、ちょっとだけ距離が縮まった気がして、カアナはゆっくりとおでこを離した。
首の角度を変え、慧の頬から後頭部へ手を滑らせて。
顔を近づけ、もう1度。
「おあおっ!?」
「いけると思ったんだけどなぁ」
今度はおでこじゃないところを重ねようとしたが、さすがの慧もそこまでは雰囲気に呑まれていなかった。
すっかり冷えてしまった慧を、カアナは半ば強引に自身の布団に引きずり込んだ。
寝るにはまだ早いが、アルバムがないことには片付かないし、ごはんもお風呂も済んでいて、なにより密着していれば慧がよけいなことを考えなくてよかった。
後ろからすっぽりと抱きしめると、暗がりでも分かるくらい、慧は真っ赤になる。
「一緒に寝てるのは大きな猫。そう思って?」
普段よりも広い面積で慧を感じる。
首筋に顔をうずめて、イイ匂いを堪能する。
ずっと嗅いでいたい。
触れていたい。
マウロが隣を譲らなかった理由が、分からなくもなかった。
「慧って、冷たくて気持ちいい」
「カ、カアナはっ……あったかいっ……」
「……猫、だったから」
乳離れできない仔猫のような。
危なっかしい我が子に寄り添う母猫のような。
懐かしさと母性が混じり合って、カアナを満たしていった。
*
彼女の寝息が首筋にあたるたび、慧は1人でドキドキしていた。
かれこれ、30分。
いや、もしかしたらもっと経っているかもしれない。
ただただ心臓が辛かった。
意識するなと言うほうが無理な話。
せっかく眠ったカアナには悪いが、起こしてしまう覚悟で、未だ回されている腕を掴んだ。
寝るときも外さない革のロンググローブは、窮屈ではないのだろうか。
2、3度、掴んでは離す、を繰り返していると、ふわふわの毛に触れた。
まさに動物の、猫に触れているような。
ほの暗い中で目をこらすが、毛の部分なんてなかった。
腰に回された腕を小脇に抱えるようにして、目の前に持ってくる。
ドキドキよりも探究心が、彼女のロンググローブを両手で触る、掴む、揉む。
自分の手がおかしいのかと、頬にあてても、革のなめらかさはなかった。
大きな猫に、身を委ねている。
睡魔も相まって、夢見心地。
カアナと密着していることが気にならないぐらいの心地よさに、慧も眠りに堕ちていった。




