はじまり
―― 2年前 ――
真夏に降る雪は冷たくない。
暑さを和らげてくれるものでも、相殺されるわけでもなく、ただちらほらと降るだけ。
Yシャツにデニムでも平気だった。
腕まくりで露出した肌に、それが触れる。溶けることなく重力に身を委ねて、足跡がうっすら残る道路に――――堕ちた。
『おいでませ、 』
地名が塗りつぶされた、年季の入った看板の前に篠岡義行は立っていた。「……いらっしゃいました、が」なんてぼやくが、結局のところ知りたいのは『おいでませ』ではなく、その後に続くであろう、地名。
この先が目的の場所なのか。
無駄に歩きたくなかった。
水流を感じさせない穏やかな川と、ほんのり雪化粧した橋が見えてくる。
おそらく、これが鯖川。
遊泳禁止らしい。
歩いては地図を広げ、歩いては現在位置を確認と、その繰り返しも終わりそうだ。
――ケータイ?
雪の影響で使えない。
不思議なことに、これ以上積もらなければ、溶けもしない。足を取られる心配はないが、車はそうもいかなかったようだ。至る所で玉突き事故が起き、行く手を阻んでいる。
季節はずれどころか、何物にも交わらず、己を保ち続ける“雪”――――それが観測されはのは、これが最初ではなかった。
***
連絡を受けたのは、3時間前。
大至急来いと呼び出され、本社へ行ってみれば、ロビーは人でごった返しているは、召集かけた本人は気難しい顔してひっきりなしに鳴る電話の相手をしているなど、なにかあったことは一目瞭然だった。
「あぁ、分かった。では、こちらの――」
ノックなしで入ってきたのが義行だと分かると、眉間のしわが一層深くなる。
「篠岡さん、こちらに」
秘書に促され、応接用の革張りのソファーに腰を下ろした。
目の前のローテーブルに積まれた書類の山が嫌でも目に入る。
「要約していますので、今しばらくお待ちください。それまでこちらを」
そう言われ、渡されたのはポップなキャラクターが表紙の観光パンフレットだった。
なぜ、と口に出す前に、書類の山を崩し始めたので、聞くに聞けない。大人しく待っているしかないようだ。
『おいでませ、周防へ』
聞き慣れない地名の横に括弧書きで旧称が添えてある。が、括弧書きはそれ以上教えてくれず、紹介している“国衙地区”がどこなのかさっぱり分からない。
学問の神様に、武家の邸宅――――堅いデートスポットばかりだ。
各所のアクセスを見ると、一番近くて駅から徒歩20分。あとは全て車の表記になっている。
視察にでも行くのか。
はたまた、代理旅行でもさせられるのだろうか。
まさか、プライベート?
「義行」
不意に名前を呼ばれる。電話を終えた上司がソファーをはさんで真後ろにいた。
今から旅行に行く人の顔ではなかった。
――中立都市周防の国衙地区に“雪”が観測された――
ごっついヘリに乗り込み、本州の最西端へ向かう。
宇宙服を着た操縦士が、義行の軽装になにか言いたそうだった。が、そういう目で見られるのに慣れているせいか、とくに気にもすることなく、後部座席で資料に目を通す。
上司の身内が国衙地区にいるらしく、最優先で安否確認をしてほしいとのこと。その過程で、先方に協力するように、と。
生存者の有無、被害の規模、捜索部隊の捜索……等々、お手上げ状態らしい。
早々に入国の許可を出すと、数回のメディカルチェックと入国審査がパスできていた。
――入国、なんて世知辛い世の中になった。
これでもまだ中立都市は寛大な方で、“雪”の知識を持つ本州に協力を要請してくるあたり、まだ可愛げがある。
問題は四国と九州だ。
“雪”の影響を受けたくないと、本州とを繋ぐ橋を壊して断絶、独立したのは今から数十年前の話。“雪”に関することは共有したいがため、本州の最西端を中立都市に仕立て上げ、パイプ役にしたのも、この2ヶ国。
本州の人間はすっかりバイ菌扱いである。
始まりは首都だった。
周囲の都市を巻き込んで、壊滅していった。
東から押し寄せる“雪”を物理的に遮断するため、大きな壁ができたのも、もう昔の話。
どの都市も、二の舞になりたくないだけ。
季節はずれの“雪”に覆われたくないだけ。
そう、
誰もが“雪”となる地で、
誰もが“雪”になりたくないだけの話。
***
果敢にも、この状況を伝えるべく立ち入った中継のヘリコプターは雑居ビルに突き刺さっていた。行き場を無くした車も、電柱や建物に。
ガラス片が散らばる。
火の手は、ない。
歩道に置き去りにされた自転車からは哀愁が漂っていた。
静けさと被害の大きさのアンバランスさに、非現実感が増していく。
人のいない街は、無常にも綺麗だ。
しんしんと降る“雪”を見つめては歩く。
空を見上げて、また歩く。
被害状況を目に焼き付けながら進んでいると、駅が見えてくる。と同時に、義行は駆け出した。
手動ドアを背もたれにして座り込んでいる青年と、毛玉――こちらに気づいて、背中を丸めて毛を逆立てる猫がいる。
生存者だ。
「大丈夫かっ、しっかりしろ!」
青年がこちらを見る。
上司の身内ではなかったが、この環境下でヒトが生きているのだ。見過ごすことはできない。
憔悴した顔で微笑まれる。
駄目だ、待ってくれ。
青年は力を振り絞って、手を伸ばした――――その瞬間、音もなく散る。
一歩、遅かった。
なんの前触れもなく、唐突に、散って逝く。
掴みそこねた手には、青年が……青年だったものが残っていた。
質量を無視した、雪のように軽い白い砂粒。
ほのかに暖かいそれが、今の今まで生きていたと物語っているようで、急な喪失感が襲う。
これが、季節はずれの“雪”の正体。
国衙地区の人々が皆、“雪のように軽い白い砂粒”となって、消滅していったのだ。
首都崩壊も、これが原因。
なぜかは、分かっていない。
「うにゃ」
腰を下ろす義行の太ももに、青年まみれの猫が前脚を掛けてきた。
水晶玉のような、くりっくりの瞳がなんとも印象的な子は、突然消えた青年を理解できるはずもなく、ぷるぷるっと身体を震わせて彼を振り落とした。
やけに足の短い、ダックスフントみたいなフォルムをしていて、まさに毛玉だ。
「にゃーん」と可愛く鳴くあたり、警戒心むき出しの、最初の面影はない。
動物は“雪”の影響を受けないため保護の対象になっていなかった。
自力でこの街から移動できるだろうが、この子はどうだろう。抱き上げると、足の短さをより感じてしまった。
とにかく、すこぶる、短いのだ。
これでは早く走ったり、高いところに登ったりできないのでは――?
「ニャア!」
義行の余計な心情を察してか、あからさまにイラッとした表情で見つめてきた。
可愛い顔が台無しである。
「悪かったって。心配なんだよ、お前が」
「……にゃふ」
なら許してやる、と義行の腕の中でリラックスし始めた。
人懐っこいのか、疲れているのか。
嫌になったら離れていくだろう。
義行は猫を連れ、青年がもたれ掛かっていたドアとは、別のところから駅構内へ入った。
窓口や改札機、売店や待合所など、ヒトのがいた形跡が。外のように広範囲に積もっているわけではなく、盛り塩のようにこぢんまりと残っていた。
踏まないよう、蹴散らさないよう、向かい側の出入り口へ。
ふと、売店の飲み物が視界に入った。
のどが渇く。
ポケットに手を突っ込むと、硬貨が2枚。それを猫と共にレジカウンターに置き、ケースから500mlの水を取り出した。
店内の片隅にあるお土産用の茶碗を拝借し、水を注ぐ。残った水を飲みながら、大人しく待っている猫の前にその茶碗を置いた。
窓越しにショッピングモールが見える。
地図を広げ、これからのルートを大まかに決めていると、もう満足したのか猫がそわそわし始めた。
「……腹、すかせてんのか」
御名答と言わんばかりの「にゃ!」に、ショッピングモール行きが決定する。
人の気配に反応してくれるこの子を無碍にできないのもあるが、幸いなことに、上司の身内――――大学生の弟がルームシェアをしているというアパートは、その先の住宅エリアにあるようで、南口にどっしりかまえるショッピングモールを突き抜けた方が断然良かった。
「にゃ、にゃっ」
「もう少しの辛抱だ、ダックス」
「……に」
義行は猫に疎かった。『ダックスキャット』なるものだと。
安直な呼び名に、2度目のイラッが。遊歩道の案内板を見つめる義行に、ふさふさの尻尾が強めに当たる。
……早く満たせてやろう。
そうすれば機嫌もよくなってくれるはずだ、たぶん。
遊歩道をまっすぐ、やや左にカーブした先にあるペットショップへ急いだ。
自動ドアは開いていた。人ひとりが通れそうなぐらいに。それが分かったのか、勢いよく腕から飛び出したダックスは、そのまま店内へ行ってしまった。
「まったく……」
後を追うが、猫の餌コーナーにいない。
「うにゃ? にゃーう」
しかし、声は聞こえる。
――もしかしたら。
あの青年の時のように、胸が、全身が脈打つ。
声のする方へ、人の痕跡だと知らず、まき散らした上にできた足跡を追った。
そこには――――
侵蝕されることなく、
ヒトの姿をした、彼がいた。
通路に横たわり、
静かに、
安らかに眠っていた。
まるで“雪が”拒絶しているような空気さえ感じる。
そんな彼の頬に、起きろ起きろと、猫は額をすり寄せていた。
□
『白砂病』
ヒト(当人の衣類を含む)を一瞬、もしくは徐々に白い砂粒状の物質に変化させていく現象のこと。正しくは白砂症候群。
□
人が砂に成る。
人だけが砂に還る。
その意味を知る術はない。
その意図を知る頃には、もういない。
今日もどこかで病院にかつぎ込まれ、『白砂病』だと隔離される。治療法もないまま、骨すら残らない患者は、ただ散るのを待つ。
―― これは白砂病が視せる世界である ――