時間の重さ
時間というものは気付いたらあっという間にすぎるものだ。
高校生の夏休みであれば、なおのこと早い。ついこの間終業式を迎えたというのに、あっという間に一週間以上が経過している。それだというのにあまり思い出に残るようなことはしていないのだから、使っている時間は誰かに盗まれているんじゃないかと錯覚を覚える。
母さんから頼まれたお使いを終えた俺は再び部屋に戻りゲームに没頭していた。
「よっし! ないすぅ! あそこから勝つとか神すぎるだろ」
コンビニで買ったポテチとエナドリは既に腹の中。時間は18:00を少し過ぎたところ。
我が家は19:00頃にいつも晩御飯を食べるので1時間ほど時間にゆとりがある。
「ゲームは勝ってキリがいいし、風呂にでも入るか」
ゲーム機の電源を落とし、コントローラーを片付けた俺は箪笥の中から着替えを取って部屋を出る。
一階では母は晩御飯の用意をしているだろう。野菜を切っている音が二階まで届いていた。
階段から下の階を見ると父さんは鉛筆を握りクロスワードパズルを行っている。リビングを見渡しながら階段を降りるが麗亜の姿は見えない。
俺が降りてきたのに気付いた母が包丁を握る手を止めた。
「あら、お風呂? さっき麗亜ちゃんが入ったからリビングで待っててよ。多分もう少しで上がるんじゃないかしら」
「ふーん、分かった」
俺は気にしない素振りでリビングのソファーに座って着替えと一緒に持ってきたスマホを弄る。スマホを弄ってはいるが、頭の中では徐々に麗亜がお風呂に入っていることで占められていた。
アイツのことは好きではないし、なんとも思っていないのは間違いないが、同年代の見てくれだけはいい女子が、自分ちのお風呂に入っているこの状況は……いかんともしがたい。
俺は今から、そんな麗亜が入ったお風呂に入るのだ。
今日一緒に外に出たときの服装も破壊力は高かったが、今はその比ではない。思春期特有の妄想力の強さもあり、脳の中で麗亜のあられもない姿が、浮かび上がりそうになる。
罵倒ばかりしてくる人間に欲情するな。他のことを考えるのだ。そういって頭の中で素数を数え始めた。
しかし、シロクマ効果というやつか。考えないようにしようとするほど麗亜のことで頭はいっぱいになっていた。
部屋を出るまではよかった。ゲームに集中していたから麗亜のことなんか考えなかった。
この状況はあまりよろしくないな。俺はこんな状況から逃れるために部屋に戻ってまたゲームの世界に入ろうかと考え始めていた。
そんな時、洗面所の方からドライヤーの音が聞こえてきた。どうやら麗亜はお風呂から上がったようだ。
「麗亜ちゃん、上がったみたいね。晩御飯、もうすぐできるから。直哉も茶々っとお風呂に入ってきなさい」
「もうできるの?」
「麗亜ちゃんが増えて四人分の食事になるからと思って何時もよりだいぶ早く準備を始めたんだけど、意外とすぐできちゃったの。そういえばお義母さんがいたときも、別に晩御飯を準備する時間を早めたりしていなかったわ」
お気楽に笑う母さんだが、自分としては困ってしまう。晩御飯はもうすぐできるし、麗亜もお風呂からは上がっている。着替えだって脇に抱えている。ここで部屋に帰っては麗亜のことを意識していると吹聴しているようで嫌だった。
洗面所の鍵の開いた音がして、ドアの開く音も続く。
「シャワーありがとうございました」
オレンジのTシャツに白い短パンを履いた麗亜が姿を見せる。色白だった肌は、シャワーで温まったためか、僅かに朱が差していて僅かに湿り気を帯びた髪がなまめかしい。
何かいけないものを見てしまった気分だ。
俺がリビングにいるのに気付き怪訝な表情を見せた麗亜だったが、俺が着替えを持ってソファーに座っているのを見てすぐさま申し訳なさそうな顔になった。
「あれ、もしかして待ってた?」
こいつは、俺のことを睨んだり悪態をついたりする癖に、自分が悪いと思ったり、感謝を伝えるときは例え、その相手が俺であっても感謝をしたり気遣う様子を見せる。
「いや別にさっき降りてきたから待ってない」
俺は着替えを持ったまま立ち上がると麗亜の隣を通って洗面所に向かう。
そしてドアを開け中に入ると、甘い匂いが立ち込めていた。甘い匂いといっても不快になる重い甘さではない。どこか心地よく眠気を誘われるそんな安心できる甘さだ。
俺は思い切り自分の頭を叩いた。
「いや、俺は何を考えているんだ!」
麗亜を変に意識しすぎている。
このままじゃいけないと思った俺は、素早く素っ裸になると風呂場の窓を開け空気の入れ替えを行い、シャワーの温度を0℃に変えて、極めつけには有難い僧侶の読経を動画サイトから持ってきてお風呂場の中で流しだした。
「うおぉーー!! 心頭滅却すれば、火もまた涼し。心頭滅却すれば、火もまた涼し」
俺は冷水で髪を洗い、体を洗い五分ほどでお風呂場から外に出た。
ドライヤーで乾かすことでさえ、何故かためらわれたので、ハンドタオルを1枚棚から取ってリビングに向かった。
カラスの行水とも言える速さでお風呂を上がったため、母さんは驚いた表情を見せていた。
「随分早かったわね」
「自分との戦いに勝てたから早く上がれた」
「何それ?」
「なんでもない、忘れてくれ」
俺の返事を聞いていた麗亜も不思議そうな顔をしていた。原因はお前だ、と言いたいが芯まで冷えた体に絶対零度の眼差しは受けたくないので、俺が麗亜が入ったお風呂を意識していたなんてことは間違っても口にはしない。
麗亜の次に入るお風呂は、精神衛生上よろしくないため、俺は明日から麗亜よりも先にお風呂に入ることを静かに決めた。
「最後の言葉は”多情多感”か」
父さんはクロスワードパズルを全部埋められたようで満足げな表情を浮かべていた。
何故このタイミングで最後のワードがそんな言葉なんだ。
俺はなんとなく嫌な気持ちだった。
◆ ◆ ◆
晩御飯を食べた俺は、部屋に戻りゲームをすることに決めた。
今日は非常に気疲れしている。お風呂もあんな調子だったし、上手くリフレッシュできなかった。べつに俺は無感情な人間というわけではないが、あまり使わない感情が刺激されているというか、変に気持ちが落ち着かない。
「ゲームをすればもとに戻るよな」
いつも通りゲーム機の電源を入れ、コントローラーとヘッドセットを手にしたところで部屋の扉がノックされた。
コンコン
ノックは2回、母さんのノックじゃない。自然と父さんと麗亜に限られるわけだが、父さんはもっと力強くノックする。
「何?」
「お願いしたいことがあるんだけど」
麗亜の声が扉越しに届く。
扉を開くと、当たり前だが、そこには麗亜がいた。
ここ最近で環境に変化があったとすれば、目の前にいる人間が現れたことだけなので、へんな病気でもなければ、こいつが俺の気疲れの原因だろう。いまも変に意識してしまっているし、心臓の音をやけに耳が拾う。
「お願いって何?」
お願いしにきた立場のはずなのに、こいつの様子は腕を組んでジト目をしていて、若干高圧的にすら見えた。
「高校の数学の教科書貸して」
「何で、勉強でもするの?」
「それ以外に使い道があるの?」
随分と嫌味な言い方だ。断ってもいいが別に俺は勉強する気はないのでやぶさかではない。
それに断った場合、こいつと俺は言い合いをすることになるだろう。100%間違いない。今の俺としては僅かな言い合いもしたくなかった。
「ちょっと待ってろ」
机の上の教科書立てから数Ⅰ、数ⅠA、数Ⅱ、数ⅡBの4冊を取るとそれを麗亜に渡す。
「4冊あんだけど、とりあえず全部渡すわ。俺、今からゲームするから。もし使い終わったら俺の部屋の前にでも置いておいて」
「あ、うん。分かった」
俺が何も言い返さずに呆気なく対応した姿に拍子抜けしたらしい。たった二日一緒にいただけなのに、こいつの行動一つ一つに一喜一憂して俺のペースはめちゃくちゃになっていた。今はとりあえずこいつのことを考えたくない。
「それじゃあ、多分今日はもう会わないだろうしおやすみ」
「うん、おやすみ」
そして俺は自分の部屋の扉を閉めた。
ゲームの結果は散々だった。
ーーー
ーー
ー
あれからゲームでずっと負け続けた俺は、2時間ほどでゲームをやめて、そのあとはずっとベッドの上でショート動画を見ていた。特に何かが観たかったわけではないが、何も考えずにいたかったので、ショート動画を見るくらいが丁度よかった。
それからぼーっとしていた俺は、いつの間にか眠ってしまっていた。
「まぶしい」
消し忘れた部屋の電気の眩しさで目が覚めた。しばらくまどろみに身を任せていたが、頭がさえてきたので上体を起こす。俺は寝起きがいい男なのだ。
ベッドからスマホは落ちていた。ずっと動画を回し続けていたのか、携帯の充電は4%しか無かった。
スマホに充電器を刺し、一あくび。
スマホに表示された時計は朝の6時を示している。
夏休みに入ってこんなに早く起きたのは初めてだった。
喉の渇きを感じたので水を飲もうと部屋の扉を開ける。部屋の外からコーヒーの香りがした。
インスタントではなく、コーヒー豆から抽出された深いコーヒーの香り。
おそらく母さんがおきがけにコーヒーメーカーで煎れたものだろう。
俺は眠気眼をこすりながら階段に向かった。一階を見ると、そこにはコーヒーを飲みながら本を読む麗亜の姿があった。
麗亜は持っていたコーヒーに向けていた視線をこちらに移した。
俺は階段を降りる。
「おはよう、案外早いのね」
「お前は早すぎだろ。てか、母さんは?」
リビングには麗亜しかいなかった。他の部屋からの物音もない。ただ、よく見てみるとキッチンにはコーヒーカップと皿が下げられていた。
「雀さんなら町内会のラジオ体操の係だって言ってさっき出かけたわよ」
「そういえば俺が中学生の時も母さんが当番してたっけ」
コーヒーメーカーを見るとあと数杯分のコーヒーが入っていた。
「これあとでもらっていいのか?」
「お好きどうぞ」
「へいへい」
俺は洗面所に向かい、顔を洗い歯磨きをした。洗面所には麗亜と書かれたシールの貼られたオレンジのコップと歯ブラシが増えている。
うがいをしてリビングに戻ると麗亜はシャーペンを手に取り勉強をしていた。使っているのは昨日渡した数学の2Bの教科書。
こんな朝からよくやるものだ。おれは食器台からマグカップをとりコーヒーマシンに残っていたコーヒーを注ぐ。
少し飲もうと口をカップのふちにつけたが非常に熱かった。
「あっつ、もう少し冷ましてから飲むか」
マグカップを手にソファーへ座る。そしてソファーの近くにあったミニテーブルに手を伸ばしてマグカップを置いた。
麗亜はこちらを一度も観ずにシャーペンを走らせていた。
「起きたばかりなのに勉強して楽しいのか?」
別に他意はない。自分にはできないことなので純粋な興味本位だった。
「楽しいのも勿論あるけど、時間を無駄にしたくないから」
麗亜は口だけ動かし答える。
「お前が本当に願いごとから生まれたっていうなら、生後三日目だろ。もっとゆっくりしないと倒れるぞ」
「そんなの自分の勝手でしょ」
「今は夏休みだぞ。ゆっくりやすんでゆっくり遊んで、そんで夏休みが終わってから勉強すればいい」
「馬鹿の話なんか聞きたくない……」
「はぁ? 俺は善意で言っているだけだろ。そんな言い方ないんじゃないか」
起きたばかりで上手く感情のコントロールができない。黙って勉強していた麗亜にちょっかいをかけたのは俺だ。だが、いくらなんでも馬鹿と返されると苛立ちが募る。
麗亜の手が止まった。
「8,760時間……これが何の数字かあんたには分かる?」
「ん?」
急によくわからないことを言われても困る。俺はこの数字にどんな意味があるのか、分からずにいたので話半分に聞いていた。
「そうだなー。あー、なんか一流になるために必要な時間だっけ」
なんかこれくらいやれば誰でもプロになれる、そんな法則があったはずだ。
それを聞いた麗亜は笑った。
「…ふっ、一流になれる時間ね。確かにそんなものもあったっけ1万時間の法則のことでしょ」
麗亜の言葉を聞いて思い出した。たしかにそんな奴だった。
「あーそれそれ。じゃあ違うのか。で、それって結局なんの時間?」
麗亜は体をこちらに向けて口を開いた。
「私の人生の時間」
1日24時間、それをかけることの365日。
8,760時間。それが麗亜に与えられた時間。