冷血伯爵様へ嫁入りさせられたので、今日も私は夫を無理矢理寝かしつけます。
「エレノア。貴方にはスピネル伯爵家へ嫁いでもらうわ」
「待ってください奥様! 約束が違います!」
命じられた掃除を済ませた後に継母であり、ネフライト男爵家の現当主代理である奥様に呼び出された。
また雑用を押し付けられる覚悟をして顔を合わせたら他所の家に嫁げですって?
「私が結婚したら家督を譲るという約束でしたよね?」
ネフライト男爵家は先代である父の死後、血の繋がった一人娘の私に家督が譲られるはずだった。
ただし、父が死んだ時に私がまだ幼かったので後見人として継母が当主代理の地位を手にして一時的に領地の経営をすることになった。
期間は私が成人して父が決めていた婚約者と結婚するまで。
その後は私達夫婦に男爵家当主の座が回ってくる約束をしていたはずだったのに……。
「あら、お姉様。お母様に逆らうおつもりなの?」
話を盗み聞きしていたのだろう、部屋の扉が開いて義妹のリーシャが入ってきた。
父譲りの茶髪な私と違う継母によく似た金髪はこれでもかと巻いてあり、派手なドレスに装飾品を沢山つけて今日もショーケースの展示品のような過剰な装いだ。
私の方はつぎはぎだらけの使用人服だというのに。
「リーシャの言う通りよ。この年まで育ててあげた恩を忘れるなんて恥を知りなさい」
「くっ……」
爪が食い込むほど強く拳を握りしめて咄嗟に出そうになった文句を呑み込む。
育ててあげたなんてどの口が言うのだろうか。
母が死んで気を落としていた父を騙すようにつけ込み、言葉巧みに我が家に潜り込んだ女狐が継母だ。
父が亡くなって実権を私から奪ってからは連れ子のリーシャと好き勝手にして贅沢な暮らしを送っている。
私は物置小屋に追いやられて使用人と同じかそれ以外の扱いで冷遇されてきた。
恨みこそあれど恩なんて感じたこともないが、力のない今の私がそれを口にしても当たりがキツくなるだけ。
無力な自分が悔しい。
「そうそう。貴方の婚約者だけど、代わりにリーシャと婚約してもらうわ。こんなに卑しくて見窄らしい娘よりリーシャの方があちらも喜んでくださるわ」
「前からいい人だって思ってたのよね。お姉様には勿体無いのよ」
リーシャが私の婚約者のことを目にかけていたのは知っていた。
侯爵家の四男で馬鹿で頼りないところはあれど顔立ちは整った青年だったからだ。
面食いな彼女が気に入りそうな相手である。
「話は以上よ。わかったらさっさと荷物をまとめて嫁入りの準備をしなさい。わたくしは支度金が早く欲しいの」
「バイバイお姉様。きゃははは」
急な嫁入りだとは思っていたが、目的は金だったわけだ。
目障りな娘が消えて金が入るとなれば継母が飛びつくのも納得できる。
こうして私は実の両親から貰えたものを全て奪われて実家を追い出される形になった。
♦︎
嫁入り先のスピネル伯爵家についてはいくつかの噂話を聞いていた。
なんでも数年前に事故で当主が亡くなり、一人息子が年若いまま新しい当主になった。
元々傾きかけていた領地経営は新当主になってからは徐々に回復し、今後の活躍が注目されている。
一方で伯爵は領主としては有能だが敵対者には一切の容赦無く親戚だろうと厳しく罰し、何人もの妻を泣かせて離縁してきた。
人間味のない、まるで血の通っていないような冷徹さを持つことから【冷血伯爵】と呼ばれているという。
「奥様。着きましたよ」
御者に声をかけられて私は馬車から降りる。
移動に何日もかかったせいですっかり固くなった体を伸ばしながら辺りを見回すと、冷血伯爵の屋敷は庭が広く、うちの実家より領地が広いだけのことはあるなと思った。
リーシャの方がこっちに嫁入りすればよかったのにと考えたが、あの我儘な性格だと自分の立場が下になって命令されるのは耐えられないんでしょうね。
「お荷物は部屋に運んでおきます。旦那様が執務室でお待ちなので先にご挨拶をなさってください」
新しい妻がやって来たというのに旦那のお出迎えは無しだが、私も大袈裟な歓迎をされるのは好きではない。
私にとっては初めての嫁入りで少し期待していた部分もあるが、相手からすれば何度目かの結婚なのですっかり慣れてしまったのだろうと納得して屋敷の中に入る。
屋敷内は綺麗に手入れされているのが確認できたが、逆に綺麗過ぎて生活感があまりないように思えた。
どんな家であれ主人の趣味や好みに合わせて物が置かれて個性になるが、そういったものは感じられず、徹底して無駄を排除したような無機質さが浮き上がっている。
「失礼しますわ」
教えられた部屋の扉をノックすると勝手に内側から開いた。
ドアノブを握った白髪の執事服を着た老人が会釈していて、この人が御者から聞かされていた使用人のまとめ役兼スピネル伯爵の秘書だと察した。
「初めまして。ネフライト男爵家から来ましたエレノアと申します。この度は婚姻を結んでいただき感謝申し上げますわ」
最初は挨拶が肝心と思い、練習してきた精一杯の愛想笑いと久しぶりの貴族令嬢らしい振る舞いをする。
人は第一印象で好感度が大きく変わるというし、なるべく好印象を持たれなくてはならない。
「そうか。下がっていいぞ」
「はい。……はい?」
よく聞こえなかったというより、何か聞き間違いをしてしまったのではないかと自分の耳を疑う。
「坊ちゃま。いくらなんでも失礼過ぎますぞ!」
「爺や。坊ちゃま呼びはやめろと言っただろう」
どうやら聞き間違えでは無かったようだ。
私が唖然としていると執事が伯爵に詰め寄る。
世話係に叱られて機嫌が悪くなったのか、伯爵は絹のような銀髪をわしゃわしゃと掻いて心底面倒だという顔で私を見た。
「俺はヴィクター・スピネルだ。正直、お前に期待はしていないし、愛だのなんだのを求めるつもりはないし俺の仕事の邪魔だけはするな。以上だ」
濃い赤の瞳を細めて吐き捨てるように宣言し、夫のヴィクターは何事も無かったかのように椅子に座って執務を再開した。
頭が真っ白になった私は困り顔の爺やに連れられて部屋を後にした。
「なんなんですかあの人!」
与えられた自室に案内された私は荷物の入ったトランクを蹴り飛ばした。思っていたより痛い。
僅かな私物の荷解きよりも、今優先されるのはあのふざけた態度の旦那への不満だ。
「そりゃあ、あまり期待してませんでしたよ。だけどいくらなんでもおかしいでしょ!?」
「本当に申し訳ございませんエレノア様」
爺やが壊れた玩具のように頭を必死に下げるが、私の怒りはあの男へ向けられたままだ。
「坊ちゃまは度重なる結婚と離婚で心身共に疲れていらっしゃるのです。若くして当主になった責任と他の貴族に侮られないように気を張り続けた結果、あのようになられてしまいました。爺やの方からもキツく言い聞かせておきますので、何卒ご理解ください」
「でも!」
「この通りです奥様!! 怒りが収まらないならこの爺やをお叱りください!」
人の良さそうな老齢の執事にわんわんと泣きつかれているうちに気の毒さの方が勝ってしまい、私は渋々引き下がることにした。
とりあえず話を聞くと爺やは先代の頃から仕えていてヴィクターは生まれた時から面倒を見ており、孫のような存在だと語ってくれた。
貴族間での評判は一部あまり良くない部分こそあれど、領民達からは自分の暮らしを良くしてくれたと支持されている。
今の悩みは世継ぎがいないことで歴代の妻とは夜の生活がうまくいかず、ヴィクターが全然その気を出さないとか。
でも、いくら民や部下に慕われていてもあの態度はあんまりだと思う。
「このまま大人しく引き下がる……ううん。もう私には帰る家も無いし、このまま黙って置物になるくらいならやってやろうじゃない」
何はともあれまずはヴィクターという男について詳しく知らなくてはならない。
先程の彼の姿を見ていくつか気になることがあったので私は次の日から彼について調べることにした。
「邪魔するなと言ったが?」
「はい。なので今の私は使用人の手伝いとしてこの場にいます。お気になさらずに」
「……ふん」
おろおろと肝を冷やす爺やに無理矢理頼み込んで私は執務室に足を運ぶことを許された。
とはいえ、私には領地経営のことなんてさっぱりなので実家にいた時と同じように使用人紛いのことをするだけだ。
「喉が渇いた。コーヒーを」
「お砂糖はどうなさいますか?」
「いらん」
仕事の集中力を高めるためにコーヒーをよく飲む。
「少し休む。一時間経過したら起こせ」
「かしこまりました」
朝早くから夜遅くまで仕事が忙しく机に齧り付き、移動時間と僅かな合間の仮眠で休んでいる。
「今日も夜会に行ってくる。食事は勝手に済ませておけ」
「では、そのように料理長に伝えておきます」
他の貴族との交友関係を気にしているようで頻繁に社交界に顔を出しては経験ある当主達にアドバイスや最近の情勢について聞き回っている。
年の近い貴族からは嫉妬されているが、離れた年寄り連中からは見どころがあると気に入られているのだとか。
「ふむふむ。なるほどね……」
夫婦とは名前だけの関係ですっかり使用人として馴染んだ私はこれまで観察して集めたり、周囲への聞き込みで手に入れた情報や意見を紙にまとめて整理する。
「やっぱり嫁になったからには家のために貢献するのも立派な役目よね」
ちょっとだけ思うところがあって、私はあの冷血伯爵に対してとある作戦を実行することにした。
そのための協力を得る関係はすでに使用人達と構築済みで、一番の難敵も説得済みである。
♦︎
「ヴィクター様。そろそろ休まれてはいかがでしょうか?」
「その必要はない。まだ片付ける書類が残っているのだ。集中したいからコーヒーを持って来い」
「申し訳ございませんがコーヒー豆を切らしておりまして出来ません」
「何だと?」
手にしていたペンを一度置き、ヴィクターが私を睨む。
使用人達から教わった最初のルールは旦那様の好物を切らしてはいけない。特にコーヒーだけは予備も補充しておけというものだ。
「ちっ。いったい何をしているのだ」
「コーヒーくらいでイライラしないでください」
「主人の好物を出せないのは職務怠慢だろう」
「だって、一日中コーヒーばっかり飲んでたら豆の在庫なんてすぐ無くなりますよ」
まず一つ目の作戦は脱コーヒー依存だ。
子供の頃は苦いものが嫌いなヴィクターだったが当主になってからは集中力を高めるようにコーヒーを好んで飲むようになったそう。
問題があるとしたらその摂取量だ。
何事にも適量というものがあり、過剰な摂取は体に悪影響がある。
「代わりにいい香りのハーブティーをご用意したので我慢してください」
「……ふん」
コーヒーの眠くなりにくい成分の入っていない飲み物を用意して渡すとヴィクターは不満そうな顔でハーブティーを飲み干した。
しばらくは何かと理由をつけてコーヒーを絶たせるつもりで、禁断症状が出たら手間はかかるがタンポポから作られるコーヒー擬きを飲ませて我慢させよう。
「それと、ずっと椅子にお座りでは肩もこるでしょうからマッサージさせていただけませんか?」
「……なんのつもりだ?」
「失礼ですわね。ヴィクター様を癒して差し上げようとしていますのに」
私は聖母のような微笑みで彼の背後に回る。
勿論それをヴィクターが警戒しないはずはないが飲ませたハーブティーの効果で体がリラックスモードになり、隙が生まれているので遅い!
「お覚悟を。秘伝のツボ押し!!」
「うっ……」
素早く距離を詰めた私は彼の後頭部と首の間辺りを絶妙な力加減でプッシュして意識を奪った。
呻き声が一瞬だけ漏れたが安心して欲しい。
「坊ちゃまは……」
「ご覧の通りぐっすり眠っています。今のうちにベッドまで運ぶので手伝ってくださいね」
気絶するように眠るヴィクターを見ながら私は自分の指を揉みほぐす。
なんとか眠らせることが出来たけど予想よりも凝りが酷くて突き指するかと思った。
ヴィクターが抱えている問題は中々に難しそうね。
二人がかりで彼をベッドに放り込んだら次はアロマを焚く。
庭先で確保したラベンダーを材料に使用したのは幼い彼がよく父親と庭でお昼寝をしていたと爺やさんから話を聞いたからだ。
「父さん……」
「寝ている時は子供みたいな顔ね」
乱れた髪が寝癖にならないように整えたら昼間にお日様をたっぷり浴びた布団をかけておく。
「おやすみなさい旦那様」
♦︎
「ヴィクター様おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「最悪だ」
強制寝かしつけをした次の朝。
私がいつも通り使用人服に着替えて寝ているヴィクターを起こすと今まで見たことないような鬼の形相をしていた。
ぐっすり眠れたのだからもっとスッキリした顔で感謝して欲しかったのに。
「俺としたことが油断して仕事を投げだすとは」
「そちらについてはご心配無用です。緊急や締切が近い書類以外は全部後回しにしたので」
「何を勝手に……」
「爺やさんから聞きました。ヴィクター様は確かに仕事が早いですけど、それを理由にどんどん前倒しをしようと考えた人達が仕事を増やすんですってね。仕事出来ますアピールも勿論大事ですけど、体を壊したら元も子もありませんよ」
私が鍋をガンガン叩いて音を鳴らすまで何をやっても起きなかったのがこの人の異常な疲れ具合を表している。
気を張り詰めすぎて体の危険信号に気づかないレベルまで頑張って働いていたのだ。
「くそっ。さっさと昨日の遅れを取り戻さなければならない。俺がやらねば誰がやると思っているんだ!」
「お言葉ですが、ヴィクター様が過労死したら誰が当主の仕事をやるんですか? 引き継ぎもなしに山のような書類を残されて誰が責任を取るって言うんですかね?」
「貴様に何がわかる!!」
投げやりに言い放った私の言葉に激昂したヴィクターに無理矢理押し倒される。
後ろがふかふかな布団なので痛くはないが、突然の乱暴な行動にびっくりしてしまった。
「わかりませんよ。私は引き継げなかった人間ですから」
それでも私は目を逸らさずに真っ直ぐ彼の顔を見る。
私の場合、父の死後にネフライト男爵家の実権を握ったのは継母で、幼くして当主になってしまった彼とは違う。
「ですが、親が早くに死んだ経験はあります。今のアナタと同じように仕事を抱え込んで過労死したのがうちの父です」
「それは……」
妻に興味が無かったのだから実家についても詳しくは知らなかったのだろう。
私を押し倒していた腕の力が緩んだのがわかった。
「望んでいない結婚ですし、愛して欲しいなんてお願いもしません。ただ、無理して自分を追い込んでまで働かないでください。誰かを置いて先に逝こうとしないでください。残された者の気持ちは誰よりもアナタがよく理解しているはずでしょう」
「………………」
何も言わずにヴィクターは私から離れ、ヨロヨロと椅子に座り込んだ。
寝相が悪かったのか髪はボサボサになっているし、目元には酷いくまがある。
視線だけで人を怖がらせるような冷血伯爵の面影なんてないボロボロな青年がそこにはいた。
「なんだ、その……ハーブティーとか眠りのツボとか色々と詳しいんだな」
ポツリと先に口を開いたのはヴィクターだった。
「調べ出したのは父が死ぬ間際でしたけどね。あとはなんとなく惰性と、嫌がらせしてくる家族を働きぶりで見返してやろうとして」
「……その言い方だと苦労したんだな」
チラリとこちらを見る目は気まずそうだったので私はここぞとばかりにとびきり悪そうな顔で答える。
「聞きたいならたっぷりお話ししましょうか。何年分もありますよ」
「そんなにか? 時間はまぁ……今日なら聞いてやるぞ」
「じゃあ、朝食を食べながらにしましょうか。料理長には昨晩仕込みをするように頼んでいたんですよ」
「朝食か。久しぶりに食べるな」
ヴィクターは朝食は抜いて、昼は簡単なもので済ませ、夜は他家の夜会で出された酒とつまみを食べるばかりの生活をしていた。
これじゃあ腕が鈍っちまうと文句を言っていた料理長なので、きっと張り切って作ってくれていると思う。
「食後は庭を軽く散歩しましょう。庭師が執務室からでも季節を感じられるように花を植え替えてましたけど、どうせ気づいてないのでしょ?」
「そうだったのか。知らなかったな」
執務室から唯一庭が見える窓は開いており、鳥の囀りと春の匂いを風が運んでくる。
「……じゃあ、食堂に行きましょうか」
「エ、エレノアは先に行っててくれ。俺は顔を洗って着替えてから行くよ」
「かしこまりました。ヴィクター様」
慣れない名前を呼んで噛んでしまった彼をくすっと笑って私は寝室から先に出た。
なんだ、案外素直なところもある旦那様じゃありませんか。
♦︎
彼が私を名前で呼ぶようになってからあっという間に一年が経つ。
私主導のヴィクター・スピネル生活改善運動はみるみるうちに成果を発揮した。
まず、美白を通り越して青白かった肌の血色が良くなり目の下のくまが消えた。
次に年寄りと女のペアで簡単に運べた長身のわりに軽かった体がずっしりと重たくなった。
勿論、ただ太っただけではなくジョギングやハイキングもしつつ健康的に増量したのだ。
コーヒー依存の他に酒への依存も若干あったのでそちらも制限をして徐々に慣らしていくと日中のイライラが治った。
酷い時は手の震えや眩暈が出たと後から聞いた時は医者を呼びつけて診察してもらった。
「医者は苦手だ」
「どうしてなんですか?」
「……薬が苦い」
「子供ですか!!」
確かにコーヒーの苦味とはまた別のキツい臭いや味はするが、冷血伯爵の嫌いなものが医者だなんて呆れてしまった。
今回の一連の流れで一番気を病んでしまったのは爺やさんだった。
「坊ちゃまのやりたいことをやらせて全力でそれをサポートするのが一番だと思っておりましたが、全て裏目に出てしまうなんて……。孫の顔をみたいのに不摂生が子を作る気力を奪っていたとは不覚です」
「あまり自分を責めないでくださいね。夜の生活については元から女性に興味がなかったのも理由ですから」
ヴィクターの体調が整ってからの爺やさんは自分が率先して支えるのではなく、自分が隠居しても安心できる後進の育成に力を入れ始めた。
新しい人材が育ちきるまでの手伝いは慣れてしまった私がやるので心配いらない。
「とはいえ、眠たくなるまで膝枕を要求するのは甘え過ぎだと思うのですが」
「俺は仕事を頑張って疲れた。しっかり休まないと明日は仕事できない」
訳の分からないことを人の膝の上で真顔で口走るものだから困った。
「毎日ぐっすり眠ってお昼寝もするのによく言えましたね」
「他所の貴族に正面から嫌味を言われてな。ストレスが溜まっているんだ」
「益々仕事が出来るようになって王太子殿下からも覚えめでたいアナタにそんなこと言うなんてどこの馬鹿ですか」
とんだ命知らずがいたものだ。
生活習慣改善のおかげで人当たりが良くなりより幅広い貴族と親しくなったヴィクター。
陛下が退位されるのがそう遠くなく、今では次世代の派閥争いの中心に近い場所にいるスピネル伯爵の好感度を下げるなんて……。
「ネフライト男爵家の次期当主を名乗る男だったぞ」
「その馬鹿は完全無視で結構です。関わると碌でもないことになりますから」
「そうなのか? 俺としては次の夜会で隣にエレノアを連れて自慢の妻ですと宣言してやってもいいんだが」
それはちょっと魅力的な提案だ。
売り飛ばされた時点で私は実家と縁を切っているし何のやりとりもしていない。
とっくに野垂れ死んでいると思っていた姉が元気に暮らしていると知れば愚妹はさぞ悔しがるだろうから見てみたい気はする。
「どうする?」
「恥ずかしいから嫌です。だってヴィクターってば夜会の時にベタベタ触れてくるじゃありませんか」
「だって俺が離れた隙に他の男に近づいて欲しくない」
ムッとした顔で見上げてくるヴィクター。
やっぱり気を張らなくなってからの彼は精神的に幼くて甘えたがりになった。
いや、元々がこういう性格で環境が彼を許さなかったのだと今なら思える。
「エレノアにはずっと俺の側にいて欲しい。ひとりぼっちになりたくないし、お前を置き去りなんてしたくないから」
「……今のはちょっとズルいですよ」
キラキラと輝く鮮やかな赤い瞳に自然と吸い寄せられて唇を重ねる。
母が死んで、父が死んでからずっとあった心の穴が埋まっていくのを感じた。
「エレノア、愛してる」
「愛なんて求めないって仰ってましたよね?」
「覚えてないな」
「もう……」
都合の良いことを言って微笑んだヴィクターに呆れながら私は愛しいものに触れるように彼の頭を撫でた。
三度目の春が近づいた頃、スピネル伯爵家では盛大な結婚式が遅れて行われた。
参列者の中には王太子夫婦までいて、それはもう大規模なものになってしまった。
領民達は三日三晩騒ぎ続けたし、他の貴族からのお祝いは返礼品を考えるのに苦労する量だ。
一番酷かったのは爺やさんで、泣きすぎて全身がカピカピに干からびそうになっていた。
爺やさんの腕の中には彼の夢が抱かれていて、いつ死んでも構わないと割と本気で言ってたので私達夫婦で注意しておいた。
「ひ孫の顔見るまで長生きしろよ爺や」
「坊ちゃま…………」
「あと、父親になったのだからいい加減坊ちゃま呼びはやめてくれ」
いつもと同じやりとりをする二人に私は思わず笑ってしまった。
それと同時に様々な思いが込み上げて涙が溢れてしまう。
「どうしたエレノア。大丈夫か?」
「はい。ちょっと、幸せだな〜って思っただけですから」
こうして元冷血伯爵と元冷遇令嬢はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
誤字脱字報告をいつでもお待ちしてます。すぐに修正しますので。
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