プロローグ
「これから毎晩、俺に眠りのキスをして欲しい」
至極真面目な顔で告げられた言葉が意味不明すぎて、連続で瞬きをする。
目の前の広々とした執務机に偉そうに座って私を見上げているのは、この国の魔術師界隈で最も名誉有る役職に就いているはずの天才魔術師様で、本来であれば私のような下っ端騎士が直接言葉を交わせるような相手ではない。……はずなのだが、どうしてか妙な展開に私を巻き込もうとしているようだ。
思わす「寝ぼけていますか?」と突っ込みを入れてしまいたかったが、相手が自分よりも遙かに格上なので、下手なことは言わずに唇を結ぶ。そんな私の様子に、この状況の元凶を作り出した男は、胡散臭すぎるキラキラとした微笑みを私に向ける。
「この場では騎士と魔術師ではなく、昔のようにただの先輩として接して欲しい。その堅苦しい待機の姿勢も解いてくれて構わないし、言葉遣いも崩して大丈夫だ」
「相手に敬意を払うのは騎士の規則です」
「相変わらず真面目だな。変わりないようで何よりだ」
背中側で両腕を組んで胸を張る姿勢は、相手に敵意がないことを示す意味とは別に、こちら側は騎士として対応していますと主張する意味合いがある。つまり、仲良し小好しはしないという遠回しな意思表示だ。現在が公的立場であることを崩さない私に、学生の頃から天才の名を欲しいままにしていたライネイル・コールディンは、意味深に目を細め、唇の笑みを深めたのだった。
「それで、私を呼び出した本来の目的は何でしょう?」
「先も言った通り、ユフィに眠りのキスを頼みたい。かわいらしく言うなら『お休みのキス』だな」
「用事がないようなので、これで失礼させて頂きます」
話は終わったと頭を下げて踵を返そうとするが、呼び止められてしまったので渋々姿勢を戻してふと思った。学生時代と同じ対応が許されるのであるのなら、そのまま足を止めずに帰れば良かったと。もう足を止めてしまった後のため、心の中で盛大なため息を吐いて苛立ちを宥める。
ライネイルは昔から変わらない飄々とした様子で、冷たい視線を向ける私にひょいと肩を竦めて見せた。
「からかうためにこんな茶番な申し出をした訳じゃない。これは大真面目な話だ。大変申し訳ないが、どうか俺を助けてくれ」
大変申し訳ないと言うのであれば、せめて深々と頭を下げるべきだろう。それなのに、目の前の男はどうしてか偉そうに椅子にふんぞり返ったまま言い放った。
あまりにふてぶてしい態度のせいで、お願いをされているというよりも命令をされた気分になる。
無意識な不愉快さに眉間に皺を寄せるが、この男は他人の表情で右往左往するようなタマではないのが残念でならない。
「それは人に頼み事をする態度ではないと思われます」
「本意ではないからな」
「でしたら、他の方にお頼み下さい」
「それが出来たのなら最初からお前を呼び付けたりはしていない」
「茶番でないとしてもお断りです」
きっぱりとはっきりと拒否をする。この男の性格の悪さと腹黒さは折り紙付きのため、曖昧な回答をすると、あれよあれよと付け込まれてライネイルの企み通りに事が運ばれてしまう。だから簡潔に、分かり易く、きっぱりと。この3点を踏まえた返答が必須なのだ。
私にNOを突き付けられたのに、ライネイルは顔色一つ変えない。断ったのだからもう用は終わりだろうと、退出許可を求めるようにライネイルへの視線を強めると、「貴様ぁー!ライネイル様の頼みを断るとはどういうことだ!」と、横側から怒鳴り声が響いてきた。
「ライネイル様から個人的にプライペートなお願いをされるなんて、またとない機会なんだぞ!!例え全財産をつぎ込むような難題だとしても叶えて差し上げるべきだろう!!」
「ロナン落ち着いてください!」
「これが落ち着いていられますかぁーー!!ライネイル様!やはり私が!わたくしがその役目を引き受けます!!こんな無礼なヤツに貴方様が頭を下げる必要などありません!わたくしにどうかご命令を!!」
会話に乱入してきたのは、ライネイルの部下の2人組だった。先ほど紹介をされたので、名前も分かっている。騒いでいるのがロナンレースで、彼を後ろから羽交い締めにして宥めているのがレファリンだ。ロナンレースは最初から私に敵意のある視線を向けていたので、根っからのライネイル信者なのだろう。そういえばこの男は学園でも妙な信者を量産していたのだった。
「ロナンレース様が役割を引き受けて下さるそうですので、私からも推薦します」
「そうですライネイル様!こんな無礼な脳筋ではなく、貴方の忠実な部下である私をご指名下さい!」
「ロナンレースには申し訳ないが、俺は嫌だ」
「そ、そんなっ!」
「私も嫌です」
「なんだと、この脳筋!三流騎士!お前ごときの意思など関係ない!ライネイル様の頼みを叶えるためにその身を捧げろ!」
「ロナン、お口が過ぎます!申し訳ございませんユフィ様。教育が行き届いておりませんでした」
「放せレフィー!この女はライネイル様を侮辱した!マジで許すまじだ!!」
ロナンレースがバタバタと手足を動かして怒りを露わにしているが、残念ながら小柄な彼は長身のレファリン様に抱え上げられているので、その場から1歩も動けていない。
珍獣の飼育も大変だなという意味を込めてレファリン様を見る。フキー!ムキー!と威嚇してくるロナンレースは、面倒だからとりあえず視界に入れないようにしておこう。
「ロナン、君には説明したはずだ。この役割を全う出来るのは彼女だけだと。それと…」
ライネイルは椅子から立ち上がり、机に両手を付くようにして身を乗り出した。
「彼女は俺の大事な後輩であり、防衛の要である素晴らしい騎士だ。先ほどの君の発言は許容できない」
「も、申し訳ございません」
「謝る相手が間違っている」
ライネイルに厳しい声で諭されて、ビクリと体を震わせたロナンレースは、塩を掛けられた青菜のように大人しくなると、床に降ろされたと同時にガバッと座り込んで土下座をした。
「申し訳ありませんでした!!」
「すまなかったね、ユフィ。ロナンは優秀な部下なのだが、思考が短絡的過ぎるところがある」
「羨ましかったんです!わ、私はまだ、ライネイル様に個人的なお願いをされたことなど1度もないのに、それなのにっ……」
土下座したままワッと泣き出すロナンレースの気持ちがこれっぽっちも分からない。
「私からも謝罪致しますユフィ様。後輩の無礼は私の無礼です」
「いえ……あの、解決した所で帰ってもいいでしょうか?」
「君が俺の頼みを受け入れてくれるのであれば構わない。今夜の就寝は23時頃だ。今日は研究所に寝泊まりする予定だから、そこに来て貰いたい。夕飯を一緒に取ろう。シェフには君の好きな大きめの肉を焼くように指示しておく。レファー」
「畏まりました。伝達はお任せ下さい」
「わ、私が行きたいです!ライネイル様、私に指示を!」
「俺の大切な客人に暴言を吐いた罰だ。ロナンには暫く指示を与えない」
「そ、そんなっ……」
「そうだ。訓練後だから疲れているだろうし、馬車を迎えに行かせよう。演習場の入口で良いだろうか?」
なんだか勝手に私が協力する流れになっている。ロナンレースもレファリン様も当たり前のように話の流れに乗っているが、こちらとしては一度たりとも頼み事を許容したことは無い。
理解ある上司と、改心した部下と、その様子を穏やかに見守っているレファリン様のほのぼのとした空気感を壊すように「行きませんけど」と言う私に、ロナンレースとレファリン様が信じられない言葉を聞いたと言わんばかりに目を見開くが、私は最初から拒否をしているのを聞いているはずだ。
「肉は嫌いか?」
「そうではなくて、意味の分からない頼みを聞く理由はありませんので、私ではない他の方に頼まれて下さい。貴方が声をかければ喜んで名乗りを上げるご令嬢は多いでしょうから」
「その他のご令嬢ではなく、俺は君が良い」
「私は嫌です。そもそも貴方のおふざけに付き合うほど騎士は暇ではありません」
「こちらとしても一切ふざけているつもりはない。先ほども言ったが大真面目な頼み事で、君の肩に私の命が掛かっていると言っても過言ではない」
コツコツと足音を立てて歩いてきたライネイルに応接用の椅子を勧められ、気の乗らないまま腰を降ろす。私としても騎士として、命に危険があると言われたら話を聞かないわけにはいかないのだ。
後ろで「やはり無礼だ!」とか「私がその役目を引き受けますから!」とか騒いでいるが、対応するのは面倒なので、もう耳に入れないことにした。
ライネイルは私の正面の椅子に腰を降ろすと、偉そうに足を組む。憎らしいが、この男は偉そうな態度がよく似合う。もしこの男が王族以外に傅いている姿を見かけたら、私は数日寝込むかもしれない。
「まずは、この事は他言無用だと知っておいてくれ。他所に漏れたら厳罰が課せられるだろう」
「私は騎士です。守秘義務は理解しています」
「では聞いてくれ。俺は黒魔術で呪われている」
「……貴方がですか?にわかには信じられませんが……」
「俺も同じ気持ちだ。この国で最も優秀で、もっとも才のあるこの俺が、黒魔術の呪いにかかったんだ」
それは確かにどこにも漏らしてはならない話だった。自画自賛が酷いが、事実ライネイルの優秀さは周囲より抜きんでていて、積み上げ続けられている実績は、他の追随を許さない。確か魔物除けの結界もライネイルの研究で改善されたはずだ。魔物による死者数が大きく減り、魔術師嫌いの騎士団でも、彼の評価は高い。
そんな国防にも国益にも重要な人物が呪われているなど、どこかに漏れようものなら大きな混乱を起こしかねない。
ヒュッと心臓が縮こまるのを感じた。不測の事態に焦らないように、意図的に深い呼吸をして心音を整える。
ライネイルはそんな事態に陥っているなど微塵にも思わせない態度で、レファリン様が淹れてくれた紅茶を優雅な仕草で飲んでいた。
「解呪は出来ないのですか?犯人の手掛かりは?暗殺者が送り込まれる危険があるのですから、勿論護衛はさせて頂きます」
「犯人は確保済みだ。暗殺の心配も無い」
「では、私を呼んだ理由は……拷問でしょうか?」
「君が5歳のかわいい女児を拷問する趣味があるとは思わなかった。君の頼みとあれば協力は惜しまないが、新しい情報が得られることは無いだろう」
「……どういう事でしょう?」
「恋のおまじないをしたんだそうだ。それがどうしてか呪いになった。本人は自分が魔法を使った自覚すら無いから、解呪の方法すらも分からない」
ライネイルが呆れたような顔でカップを机に置いた。
経緯を簡単にまとめると、とある貴族の5歳のご令嬢がライネイルに恋をして、両想いのおまじないをかけたのだそうだ。布に簡単な魔方陣を描くという両想いのおまじないは、貴族だけでなく平民にも広く知れ渡っているもので、実際に魔法が発動することのない、いわゆる願掛けのようなものだ。
それがどういう訳か魔法が発動してしまった。しかも、強力故に難しいとされている黒魔法となり、対象であったライネイルに呪いとなって降りかかった。
呪いの過程が分からない解呪は厄介だ。今はライネイルの魔力で抑え込んでいるが、魔力も体力も無限では無い。何かしらの手を討たなければ呪いに体を蝕まれてしまうと本に書いてあったはずだ。
「このまま呪いが解けなければどうなるか……被害予想は広範囲すぎて難しい」
「それに関しましては、ライネイル様に完全同意致します。あの、そのご令嬢は…?」
「さすがに無罪放免というわけにはいかない。悪意は無いとは言え、この俺を呪ったんだ。一族もろとも爵位を返還という話も出たが、それだと内外に事件が漏れる可能性がある。だからご令嬢のみ魔塔に在籍させることにした。親元を離れる。それが彼女の罰だ」
5歳で親元を離れる……可哀想に思うが、国の重要人物を呪った経緯を踏まえると、檄甘な対処だ。魔塔は魔力を持つ者が集められる施設のことで、数少ない魔力持ちを大切に育て管理するという役割を持っている。貴族令嬢のままの優雅な生活は送れないだろうが、衣食住は保証されているし、なんなら3時におやつも出る。色んな理由で親元から離れた子供達も保護されているので、それほど孤独を感じずに済むはずだ。
犯人は確保され、動機も判明した。身に差し迫った危険がないのであれば、「眠りのキスをしに来て欲しい」などと、遠回しに寝ずの警護を頼む必要も無いはずだ。
ではどうして私は呼ばれたのだ?疑問が顔に出ていたのか、ライネイルは「そこで話は最初に戻る」と続けた。
「ユフィは『トトロポロッポと眠りの妖精』という童話を知っているだろうか?」
「有名な子供の寝かしつけ用の話なので知ってます」
「夜が怖いトトロポロッポの前に眠りの妖精が現れて、怖くないようにキスをする。実にかわいらしい物語だ。私におまじないをかけたご令嬢もその話が大好きでね、魔方陣に願掛けをしたそうだ。『私も王子様の眠りの妖精になりたい』と」
「……つまり?」
「妖精が現れないと王子様は眠りにつけない。私にかかっている呪いは、妖精のキスが無ければ眠る事が出来ないというものだ」
この世にこれ以上のアホな呪いがあるのだろうか。いや、ない。呪いというものは恐ろしいもので、憎しみや恨みが作り上げる、世にもおどろおどろしいもののはずなのだ。
少しでも気を抜いたら不敬に当たる言葉が口から溢れてしまいそうで、眉間に皺を寄せて口の筋力に力を込める。これで話が最初に戻るのであれば、眠りの妖精役に私が指名されたという事だろう。
姿勢を正して深々と頭を下げる。
「お断り致します」
「やはりそうなるか」
「何故だ!!ライネイル様直々のご指名なんだぞ!!本来であればライネイル様に相応しい爵位を持った傾国の美女が相応しい名誉ある役目なんだぞ!お前がやらないなら私が!私が立候補するのにぃーーーー!!」
「ロナンレース様がそう仰ってるので、是非彼に」
「ライネイル様っ!!」
「いや、俺にもタイプがある。お前は嫌だ」
「そんなっ!!」
「私も嫌なんですけど」
「俺とお前の仲じゃないか、ユフィ。困ったときはお互い様だろ?」
無駄にキラキラした笑顔で私の辞退希望を却下したライネイルは、フーッと息を吐くと、組んだ足の膝に両手を重ねて置いた。
「呪いにかかって今日で4日目だ。寝ないで済むのは仕事が捗って利便が良いと思ったが、流石に連日続くと精神に支障が出る。眠くて眠くて仕方がないのに寝れないのは、中々辛い。拷問方法になるのも頷ける」
ライネイルの長い睫毛が伏せられる。憂いを含むその表情に、ライネイル信者のロナンレースは「ライネイル様っ……」と泣きそうな顔をして、レファリン様に慰められている。
「心中はお察ししますが、私との交渉に時間を割くのでは無く、別の方に打診された方が早いのでは?」
「お前は俺が潔癖気味であることを知っているだろう?」
「まぁ、そうですね」
「他人が触れた物にさえ嫌悪感を感じる俺にとって、例え本物の妖精であってもキスをされるなど不愉快でしか無い。故に、『誰とキスをしたいか』ではなく、『誰なら許容できるか』と考えたところ、お前の顔が浮かんだ」
「非常に迷惑です」
「そう言うな。俺としても死活問題なんだ」
僅かにライネイルが申し訳なさそうな雰囲気を滲ませた。彼にとっても本意では無いのだろう。そういえば、学園時代に独身主義者だという噂もあったことを思い出していると、私の座る椅子の裏にレファリン様がスススと寄ってきた。
「ユフィ様には大変申し訳ございませんが、国防のためにもどうぞご協力をお願い致します」
「そう言われましても……」
「もしこの場の話し合いが決裂致しましても、ユフィ様の指名は解けません。そうなりますと、こちらとしても命令という形で騎士団に国王からの書状を持って伺わなければなりません」
非常に言い辛そうにレファリン様が言う。今の時点であれば秘密裏にやり取りが出来るが、断れば騎士団の上層部に書状が行く。つまり、ある程度の状況説明がされるという訳に繋がり、私がライネイルにお休みのキスをしに行くという任務を上司から命令される事になる。それは控えめに言って最低最悪の事態だ。
思わず額に手を当てて項垂れる。こんな話を命令されるのはご免である。
「……次の候補者は居ないんですか?」
「居ないからこうして丁寧にお前にお願いをしている」
「やっぱり納得いきませんライネイル様!今からでも遅くありません!立場に相応しいご令嬢を!それか、ライネイル様に並んでも引けを取らない美人を探しましょう!!」
耐えきらなかったという雰囲気でロナンレースが声を上げる。そろそろいい加減コイツを殴っても許されるんじゃ無いかと思うくらいにヘイトが貯まってきたが、タダでさえ仲が悪い騎士と魔術師の間にこれ以上の亀裂を入れたくはない。不快だという意味を込めてロランレースを睨むと、隣に立つレファリン様がペコペコと頭を下げたのだった。
ライネイルは片手を上げてロナンレースの懇願を止めると、慈愛に満ちた瞳を細める。
「変わりなど居ない。ユフィの顔を見て改めて思った。俺が選ぶのはユフィだけだ」
嬉しくも無い宣言を無表情で聞き流していると、ロナンレースとレファリン様が涙目で「格好良いですライネイル様!」「ステキですよ!」「男前過ぎますぅ!!」と感極まったように騒いでいたので、せっかくの我慢を取り払って、やはり殴ってしまおうかと考えてしまった。