霊のいないアパート・3
「あの子はもう十六になった。 里親のことをもう一度、考えるように言ってもらえないだろうか」
十歳の出会いから六年。
少年が十二歳の頃から、不動産屋のおやじは実質的には里親のような間柄になっている。
泊まりに来たり、一緒に食事をしたり、たまに施設や行政からの連絡係もしていた。
不動産屋のおやじは連れ合いを早くに失くしているため、再婚でもしない限り養子をもらうことは出来ない。
相手が二十歳以上にならないと普通の養子縁組も出来ないのである。
里親ならばと施設で話し合いをしたが、どうしても本人が嫌がるので法的な手続きはされていなかった。
少年が言うには、親になると必ず義務が生じるから、だそうだ。
保護者としての責任、学校への対応。
それを少年は頑なに拒否した。
「俺は自分が何者か分からない」
いつ、どこで、どんな身内が出てくるか分からないのだ。
「どうせロクな親じゃないさ」
目立つ容姿をしているがゆえに特定されやすいのではないかと心配になる。
人違いだと否定しにくい。
「誰にも迷惑掛けたくない」が少年の口癖だった。
世話になっている不動産屋のおやじなら尚更である。
しかし十六歳になると義務教育という呪縛はなくなり、正社員として雇用契約した。
今なら話を聞いてくれるのではないかと、不動産屋は思っている。
「私もいつまでも若くはありませんし」
先のことを考えてのことである。
「それをいうならワシのほうが早いわ」
老人が茶化すように返す。
「そうですな」
あはは、と笑いながら、二人とも少年の将来を心配しているのは同じだった。
古寺に戻ると化け猫の少女が一人で留守番をしている。
「おにいちゃんは戻っておらんのか?」
老人が訊ねると少女は首を横に振る。
「いない」
少女は手の中の白い球をみていた。
「あのね、なんか、どきどきするの」
「そういえば、あいつ、あのアパートの件は嫌な予感がすると言っておったな」
あの男女の件だけではなかったのかも知れない。
「チビさんや、その球を貸してくれんか」
「うん」
少女が手を伸ばして老人に白い球を渡した。
それをじっと見る。
「こりゃあ……」
今までは少年の懐の中にあり、あまりじっくりと見ることはなかった。
「本当にきれいなもんじゃな」
「うんっ」
少女も嬉しそうに頷いた。
最後に少年と別れたのは例のアパートの前だった。
「行ってみるかの」
「いく」
老人が出掛けようとすると、珍しく化け猫の少女もついて来ると言う。
「構わんが、ちと遠いぞ」
あまり外に出たことがない子猫の霊である。
「ワシにしっかり憑いておれよ」
頷くとチリンと小さな鈴が鳴る。
電車に乗ると見えない尻尾がゆらゆら揺れた。
「暑いのぉ、まだ夏は始まったばかりなんじゃが」
老人は見た目よりもしっかりとした足腰でドアの前に立っている。
席を譲ろうとする若者を嘲笑うように。
駅前の商店街を抜けた住宅地。
「ふむ。 あいつの言う通り、ここには何もおらんな」
霊は見えないが気配ぐらいは分かる。
そして、老人はそのアパートの周辺を見回す。
似たような小さなアパートが駐車場を挟んで、いくつか並んでいた。
この辺りは駐車場の利用料だけでも高く、下手すると安いアパートの家賃より高い場合がある。
そのため、空き地はほぼアスファルトの駐車場だ。
「あまり地脈的には良くないがの」
土が見えず、緑がない。
風も建物で歪められ、水は地下に流れていても感じることは出来ない。
「おじいちゃん」
化け猫の少女が老人の服を引っ張る。
「どうした?」
駐車場の中に車に轢かれた猫の死体があった。
「おお、かわいそうにな」
まだそんなに時間は経っていない。
老人はゴミ置き場から新聞紙を一枚引っ張り出し、それに猫を乗せると駐車場の隅で読経を始める。
「どうするの?」
埋めようにも土は無い。
「大丈夫じゃ、こんな時は行政が何とかしてくれる」
連絡すると引き取りに来てくれるそうだ。
その後はどうなるのかは老人にも分からないが、自分が出来るのはそこまでである。
丁寧に包んでやり、これ以上車に轢かれないよう道の脇に置く。
「おにいちゃんを探さないとな」
役所に連絡しようにも老人は携帯電話を持たない。
仕事用の連絡は全て少年が行っていた。
老人がアパートの前で座り込んでいると、アパートから住人らしい女性が出て来た。
「お爺さん、どうしたの?」
今時珍しい優しいお嬢さんのようだ。
お人好しとも言うが。
「あー、すまんなあ、ここで孫と待ち合わせしておるんじゃが」
「あら?、それってもしかしたら」
女性は一時間ほど前、ここで人が争う声を聞いたそうだ。
「怖くて窓を少ししか開けられなくて。
でも若い子が一人いたわ、まるで芸能人かモデルみたいな」
間違いないと老人は思った。
「どっちに行きましたかな」
女性は首を横に振る。
「分からないわ。 すぐ後に車の発進する音がしたから車かも知れないわね」
「そうかい、ありがとう」
老人は曲がった腰をさらに低くして礼を言う。
車で連れ去られたとなると急がねばならない。
「おにいちゃん、だいじょーぶ?」
「分からん」
どこに行ったか、さっぱりである。
「せめて目撃者でもおれば」
その時、道路の端に置いた猫の死体が目に入った。
「お前が見ていたかも知れんな」
野良猫は敏捷な生き物で、普通は車ぐらいなら避ける。
避けられないくらい急発進した車にぶつかってしまったのだろう。
老人は化け猫の少女に少し離れるように言う。
懐から『時計』を取り出した。
手のひらに乗る大きさ、黄金に光る四角形の箱型の時計を猫の死体を包んだ新聞紙の前に置く。
時計の針は現在の時刻を指しているが、老人はそれをほんの少しだけ戻す。
カチリ。
いつもなら少年がはっきりと光景を見て伝えてくれるが、今はただ気配を追えればいい。
理不尽に殺された猫の恨みが残っているうちに。
「ニャーン」
化け猫の少女が反応した。
「見えたのか?」
少女は苦しそうな顔をしながら頷いた。
「あのお、お爺さん、何をしてるの?」
先ほどの女性が、まだそこに居た。
びっくりしたが、見られたとしても霊感の無い人には何も分からないだろう。
「お嬢さん、すまんが頼みがある」
老人は考えた末、さっきまでいた警察署への電話を頼んだ。
刑事課の、あの若い刑事を呼び出す。
「アンタが知りたがっていた少年が、事件に巻き込まれたかも知れん」
すぐに来ると言って電話が切れた。
「あ、えっと、私もいてもいいですか?」
女性は好奇心旺盛なようで、興奮した顔で老人を見ている。
「そうじゃな。 一応、お嬢さんは目撃者だしの」
老人は少年を助け出すことを優先し、後のことは考えないことにした。
間もなく、若い刑事の車が到着する。
どれだけ急いで来たのやら。
「それで?、例の美少年はどこだ、じいさん」
それを聞いた女性がびっくりしている。
「あ、いえ、これは捜査の一環でして」
「あら、そうでしたの?。 私には刑事さんがまるで美少年というものに異常に反応したように聞こえたものですから」
女性が悪気なくニコリと笑う。
男にしか興味がない男性と受け取られたらしい。
「そ、そんなことは」
焦る刑事に老人が冷静に声を掛ける。
「すまんが、それは後にしてもらいたい」
化け猫の少女が死んだ猫の霊と同化して、車の行き先を指差していた。