76 神の庭 ③
お茶を飲み終わってから十分位たっただろうか、セレネと呼ばれた銀髪の女性は『そろそろです』とお爺さんに声をかけた。
「おお、そうじゃな。帰る支度がととのいましたぞ。急いで現世に戻るがよろしい」
「あの…帰る支度?」
「セレネが途中まで道案内してくれる。さあさあ…」
いきなり慌ただしくわたし達はここを立去る事になった。
「茶の効果は半刻ばかり…早く現世に戻らんと、完全に魂が身体から離れてしまいますぞ」
そうすると完全に死んでしまいますからな、とお爺さんはまたふぉっふぉっと笑いながら言った。
「え…ええ!?急がないと…」
わたし達はバタバタと椅子から立ち上って、すぐに帰る支度を始めた。
ニキアスはさっと膝を付き、ヴェガ神にへ一礼をして、部屋の外に出る扉の方向へ向かった。
わたしも彼を追いかけようとしたが、去り際に
「あの…ヴェガ神様…」
恐る恐る声を掛けてみた。
「はて?」
何ですかな?と、お爺さんは真っ白い眉毛の間からわたしを見上げた。
「あの…ありがとうございました」
ヴェガ神は
「いいや…お会いできて良かったですよ…マヤ王女。あなたは節目となる鍵のひとりですから。わたしの妻にどうぞよろしく言っておいてくだされ」
(節目の鍵?…わたしの妻?)
その意味が分からず質問しようとすると、セレネに促されたニキアスが
「マヤ…出発しよう」
と声を掛けてきた。
その質問をする間も無く、わたしを見つめるヴェガ神にもう一度軽く頭を下げると、この部屋と神殿を出ることになった。
あの長い廊下を通り神殿の外へと出ると、またもいきなり真っ白い靄に巻かれて前が全然見えない。
その時わたしの手をぎゅっとニキアスの大きな手が握ってくれた。
「マヤ…こっちだ」
ニキアスの温かい手が迎えてくれてわたしは安心する事が出来た。
「ニキアス様…ありがとうございます。待っていてくれたのね」
「…当り前だろう」
ニキアスの手に更に少し力が入るのを感じた。
白い霧が少し晴れて視界が開けてくると、銀髪がサラリと揺れるセレネが黒毛の馬を連れて立っていた。
わたしはニキアスに馬の背に乗せて貰うのを手伝ってもらい、ニキアスはわたしの後ろにひらりと飛び乗った。
その時セレネが少し面白そうに質問した内容に、わたしは驚いてしまった。
「マヤ王女はピュロスと呼ばれているのか?」
その瞬間、後ろに座るニキアスの身体が強ばった。
「えっと…誰がですか?」
「後ろの男が何故かマヤ王女をそう呼んでいる」
「…え?」
(あの時の偽装夫婦のくだりの事かしら?)
「違う。今だ――彼が貴女を今そう呼んだ」
「今…?」
セレネの言葉にわたしがニキアスを見上げようとすると、
「駄目だ。マヤ…今は後ろを見るな」
『前だけ向いていろ』
と振り向くのを禁じられてしまった。
「馬は帰り道を分かっている。真っ直ぐ馬の行く方向に逆らわず進め。
声が聞こえると思うが馬を降りたり、立ち止まってはいけない」
「分かりました」
「…承知した」
「――では気を付けて」
セレネはそう言って馬のお尻を軽く叩くと、その動作に心得た様に馬は歩き始めた。
途中ーー白い霧の中で、聞いた事の無い動物の声や人間かどうかも分から無い笑い声、叫び声が聞こえて怖かったが、背中のニキアスの体温を感じると湧き上がる不安は落ち着いた。
馬の歩みは白い霧の中で止まる事は無かった。
そして、始まりと同様に終わりは前触れも無く訪れた。
霧がいきなり晴れたと思うと、わたしとニキアスは元の森の中に戻っていたのだった。
******
普通の森に戻ると、ニキアスはドゥーガ神の加護を使ってどっちにアウロニア軍の夜営地があるのか分かるらしく、馬の手綱を巧に操って淀みなく目的地へと進んでいった。
道中どうしても気になって、わたしはニキアスへ尋ねた。
セレネの言っていた『ピュロス』についてだ。
(思い違いだったらかなり恥ずかしいのだけど)
わたしをどういう気持ちで呼んだのかをやっぱりどうしても聞いてみたかった。
「あの…ニキアス様、わたくしのことどうしてピュロスって呼んだのですか?」
ニキアスはわたしの質問に答えなかった。
(あら?もしかして…聞こえなかったのかしら)
わたしはもう一度同じ質問をするのも恥ずかしかったので、ニキアスからの反応を待った。
ニキアスからの肯定も否定も無く沈黙が段々と重苦しくなってきた頃。
「――マヤが好きだ」
ニキアスがちいさくぽつりと言った。
お待たせしました。
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