3 許嫁は挙動不審 ①
ニキアスは塔の薄暗い螺旋上の石階段を、マヤ王女の手を引きながら降りてきた。
仮面なので表に表情がでなかったが、もしもそれをマヤ王女が見えていたなら、思い切り苦虫を噛み潰した表情のニキアスを見たに違いなかった。
******
なぜそのような事になったのか、それは少し前に遡る。
マヤ王女は刃物の類も持ち合わせておらず、体格的にもはっきりと劣った小柄な女性だった。
(攻撃されてもたかがしれている)
と侮り彼女を背後にしてニキアスが階段を降り始めた時、王女がいきなり金切り声をあげたのだ。
「きゃあああああああああああ!」
いきなり悲鳴を上げた彼女は、階段を半ば落ちる様に駆け下りて来て、そのままニキアスに思いきりぶつかった。
「む、虫…ゲジゲジ!大きなゲジゲジがあそこにいます!!」
すわマヤの逆襲が始まったかとニキアスは一瞬身構えたが、彼女は階段の一画を指さし、薄暗い光の中でも分かるほど青ざめて涙ぐんでいた。
「気持ち悪い。あんな大きなゲジゲジ見た事ない…」
彼女が気持ち悪いと言った虫は、暗がりの洞窟であればどこにでもいる類のもので、別段気持ち悪いとパニックになるほどのものではない。
ニキアスにすればどこにでもいて、そう――幼いころマヤと共に一時的に滞在したレダの神殿にも普通に生息した虫である。
(こんなにパニックになる程嫌っていただろうか)
一瞬ニキアスの頭に疑問が過ったが、記憶の中にも覚えが無かった。
けれど問題はそれではない。
軽いパニック状態が続いているのか、マヤはニキアスの鎧の身体にびっちり張り付いて離れなかった。
頭頂部しか見えなくなったマヤはぴったりと身体を密着させてきて、ニキアスは軽くため息をついた。
それを聞いたのだろう、彼女は顔を挙げた。
(どうせまたヒステリックに怒るに違いない)
ニキアスはその怒鳴り声を予測したが、何時まで経ってもその声は聞こえなかった。
そればかりか、彼女は
「ご…ごめんなさい。ゴキブリとかが苦手で怖いんです…」
震えるかぼそい声で謝ってきたのだった。
それを聞いて、ニキアスは今日何度目かのため息をついた。
「マヤ王女…身体を離してくれ。陥落した国とは言え王族の…しかも未婚の娘が鎧越しでも知らない男に抱きつくのははしたない事だろう。姫君の矜持はどうしたんだ」
その時王女は何故と言わんばかりに目を見開いてニキアスに質問した。
「知らないって、でも…貴方はわたしの許嫁の男性の筈ではありませんか?」
この何も考えていない様な、心底不思議そうな王女の言葉が、瞬間的にニキアスに怒りの火をつけた。
(この女は…敗けた国の人間が、一体何を能天気な事を言ってるのか)
許婚の取り決めなど、お互い戦争になった時点で反古になっているに決まってるではないか。
そもそも両国の婚姻の取決めをした時、眦をあげ拒絶していたのはそちらなのになんて言い草だ。
(…いっそ今ここで、死んだ方がよかったと思わせてやろうか。純潔を奪い自害か、皆の前での処刑かを選ばせてやるのだ)
そう考えたニキアスはひとり昏い喜びに浸った。
*****
マヤ王女であるわたしは戸惑っていた。
許嫁と言うのだから、少しは打ち解けた関係なのかと勝手に思っていたけれど、仮面越しのニキアスからでもはっきりと分かる程、会話や態度の端々がギスギスして気まずい。
(これは…余計な事を言わない方が良いかもしれない)
と思った途端、階段の暗がりに大きなゲジゲジもどきが出現し、恐怖の余り思わずニキアスに抱きついてしまった。
その時の彼の反応があまりにも『切って捨てる』的なに殺気立っていたので、思わず手を離しそうになったのだが。
今本当に恐ろしいのは、目の前の巨大ゲジゲジである。
「ええと…すみません。ごめんなさい」
わたしが謝ると彼はため息をついた。
(なんだか何度もため息をついているのを見ている)
が、取り敢えず無理にわたしの手は振りほどこうとはしなかった。
しかしそのあとしっかり『知らない男に抱き着くのははしたない事だ』とたしなめられてしまった。
(許嫁の男性に助けを求めるのは駄目だったのかしら?それとも注意されたのは抱きついた事?)
不思議に思ったのでニキアスにその意味で質問したが、その質問内容がまたもNGだったらしい。
ニキアスは怒りのオーラを纏ったまま、無言でどんどん薄暗い階段を下に下って行ってしまう。
(こんな所でゲジゲジと置き去りなんて耐えられない…!)
「あ、待って、ごめんなさい。あ、あら?何でしたっけ?」
どうもわたしもド忘れしてニキアスの苗字にあたる名前が今思い出せない。
(仕方がないわ)
わたしは怒られるのを覚悟で
「ニキアス…!待って。お願い…!」
(お願いだからあんな大きいゲジゲジのいる空間に置いて行かないで!)
心中叫びながら階段を下りてニキアスを追いかけた。
******
ニキアスにとって、久しぶりに湧いた怒りとイラつきの為ついマヤを置いてきてしまったが、
「ニキアス!…ニキアス様待って!…お願い」
マヤ王女が、軽やかに階段を駆け下りて来る音が聞こえた。
その時ニキアスは塔の窓から入る逆光の光を浴びながら、蜂蜜色の髪をなびかせて階段を降りてくるマヤの姿を見た。
(くそ…)
忌々しいが彼女はやはりまだ『レダ神の娘』なのだ。
華奢な姿の中に『神託』を受けるに相応しい神々しさが備わっているのを感じた。
それは昔神殿で何度か自分が目を奪われたありし日の懐かしい彼女の姿だった。
お待たせしました。
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