38 警告 ②
『…ニキアス様、何を恐がっていらっしゃるのですか?』
ニキアスは各々のテントの中を確認しながら歩き回った。
落雷に気が付かず眠っている強者も僅かにいたが、ほとんどの皆は目を覚ましていた。
酔っ払っている者、女と寝台に潜っていた者それぞれだったが、音と振動にビックリして起き上がる際に転倒したという程度で、大きな怪我をした者はほとんど居なそうだった。
途中で同じようにテントを確認していたユリウスと落ち合い、それぞれ被害の状況を確認したが、馬も含め落雷の直接の影響を受けた者はいなかった。
「ではニキアス様は先にテントに戻ってお休みください。マヤ様もお待ちでしょう」
「いや…馬が心配だからな。もうしばらく厩舎にいる事にする」
ユリウスが促すのをニキアスは手で遮った。
ニキアスの言葉に、ユリウスは素っ頓狂な声を上げた。
「はあ?…そんなのは他の兵か奴隷に…」
と言いかけてニキアスの顔を覗き込んだ。
「――あれ?マヤ王女と喧嘩でもしましたか?」
と察した様にニキアスへ訊いた。
「…勘の鋭い子供は幸せになれんぞ」
かつての自分になぞらえてニキアスが笑って言うと
「子供扱いは止めてください。僕は来年成人なんですよ。元老院にも出席できるんです」
ユリウスは怒った様に言ってから笑った。
「――それに敬愛するニキアス様と戦場に来れて幸せですよ」
「分かった。――が来年まではまだ子供だ」
ニキアスもつられて笑い、ひょろりと背の高いユリウスの頭をぽん、と撫でた。
「お前はもう戻れ。ついでにもう一度の父親の様子も確認しておけよ」
「起きてたらどうせカーラといちゃついているに決まってますよ」
ユリウスは鼻を鳴らしてブツブツ言いながら、自分のテントに戻って行った。
ニキアスはその後ろ姿を見て小さく息をついた。
*******
――薄闇の中で触れたマヤの肌は、良い香りがして何処までも甘く柔らかかった。
夜目の利くニキアスにとってマヤの切なげな表情と、痺れる程甘い声の洩れる吐息はすべて煽情的だった。
『ニキアス様、何を恐がっていらっしゃるのですか?』
マヤ王女の声が繰り返し脳裏に甦る。
(何も――何も恐れてなどいない)
俺は闘神『ドゥーガ』の戦士だ。
恐れるものなどない。
ニキアスが信仰する『ドゥーガ』神は常に自分の信じるものの為に正々堂々と戦う事を美徳とする教義だ。
レダの神殿から逃げた後、五年間ニキアスは『ドゥーガ』の神殿に篭ってひたすら神学と武闘に打ち込み、その中で育ってきた自分自身を誇りにしていた。
今もアウロニア帝国の『ドゥーガ』の神殿に熱心に通うニキアスにとっては、闘いは常に神聖であり今までの葛藤も含めた自分自身を証明するものだった。
しかし今何故なのか――あの小さな敗戦国の王女のいるテントに戻るのを避けようとしている自分がいた。
あの女など俺は恐れてはいない。
ニキアスは自分の手の平を指の関節が白くなる程握り締めた。
******
ニキアスはその夜テントに戻って来なかった。
落雷後テントの周りが騒がしくなり兵がいきなり入ってくる可能性もあった為にわたしは急いでニキアスに脱がされた寝間着を身に着けた。
雨の音が強くなったり弱くなるのを聞いているうちに、たったひとりでテントで待っているのが怖くなった。
「ナラ…いますか?」
恐る恐る奴隷の娘ナラの名前を呼んでみたが返答がない。
「マヤ様…!」
暫くしてからびしょぬれのナラがテントに転ぶ様に入ってくるなり床に平服した。
「申し訳ありません!…おひとりにして」
「ナラ…大丈夫だから頭を上げて頂戴。戻って来てくれて良かったわ」
「ありがたいお言葉です、マヤ様…お怒りで無いのですね」
ナラは涙ぐんでいた。
どうやらわたしに逃げたと勘違いされ罰を受けるのを少なからず恐れていたらしい。
「ええと…ニキアス様と仲良くなさっていたのが聞こえ始めたので…」
ナラはちょっと赤くなって言った。
(わたしも相当恥ずかったけれど)
あんな声を暗闇で聞いた少女の立場になったらと思うと、激しく申し訳なくなってしまった。
「ごめんなさい…ナラ。居づらかったでしょうに…」
「そんなこと…!」
奴隷はそこにおいてある物と同じ――家具などと同じである。
感情のある人間とは思われないのがその立場だ。
主人になった者は謝る事はほとんど無い事らしく、ナラは驚いてひたすら恐縮していた。
そして
「マヤ様が噂に聞いていた様な方じゃなく、お優しい方で本当に本当に良かったです」
と彼女はポロリと本音を漏らした。
それを聞いてわたしは曖昧に微笑んだ。
(『噂』に聞いていた様なって…内容は想像がつくわ)
そして陰でそっとため息をついた。
お待たせしました。
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