33 ピュロスと呼んで
「…ピュロスと呼んでくれないか」
ニキアスの言葉にわたしは、思わず彼の顔を見つめてしまった。
ニキアスの表情からは、彼が何を考えているのかが分からない。
「...あ、あの…」
心臓が止まりそうな程自分の鼓動が鳴っているのが分かる。
けれど声は出なかった。
少し緊張した表情のニキアスはわたしを見下ろした。そしてふっと口もとを歪めたと思うと、顔を反らして立ち上がった。
「…戯れだ。...忘れろ」
丁度その時、ナラが声を掛けてきた。
「ニキアス様。お風呂の準備ができました」
「分かった。今向かう」
何事も無かったかのように天幕を開けて出て行くニキアスの背中は心なしか少し強ばっているようにも見えた。
********
ニキアスは湯を使って髪と身体の泥を落としてきた後に自分の寝台のあるテントへと戻ってきた。
まだ水滴が滴る髪のまま半裸で、下のみの簡単な寝間着をまとっただけである。
寝台をちらりと覗くと、マヤはまた眠ってしまったらしい。
横になっている彼女を見て、先ほどの自分の愚かしい言動を思い出した。
(...馬鹿な事を口走った)
因りによってこの王女に『ピュロスと呼んでくれ』など願うとは。
(ただ一つ救いは…彼女が馬鹿にした表情では無く困惑した顔であった事か)
燭台にある蝋燭の炎を吹き消して、一度迷ったが左目を覆っていた布を外した。
そのまま寝台の隣り横にある長椅子に横たわろうとしたその時ーー。
「ニキアス様...」
マヤの小さな声が聞こえた。
***********
「ニキアス様…」
わたしは真っ暗なテントの中で、ニキアスの名前を呼んだ。
明かり取りも無いテントの中だから、闇に目が慣れるまで自分の手先すらもはっきり見えなくて心もとない。
「二...ニキアス様…」
もう一度わたしは彼の名前を呼んだ。
するとニキアスの気配が近づいている気がする。
ニキアスは夜目が利くのか真っ暗な闇の中を足音をほとんど立てずにわたしの近くまで歩いてきた。
わたしが手を伸ばすと、その手を乾いた大きな手が迎えてきた。
「どうした?...何かあったか?」
ニキアスの体温と影を自分のほんの直ぐ近くに感じる。
入浴する際に使ったのだろう闇に混じって薄荷の香りも漂っている。
わたしは、自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。
(わたし一体…何をしようとしているんだろう)
自分の行動ながら混乱しているのだ。
(ニキアスにはわたしの姿は見えているのかしら)
わたしの頭を一瞬疑問が過ったが、妙に生々しく漂う緊張感がそんな考えを直ぐにかき消してしまう。
「ニキアス様…あの...」
ニキアスの体温を感じる影に向かって、自分の発した声が震えるのを感じながら小さく息を吐くように言葉を紡いだ。
「…ピュロス…」
*********
暗闇の中、分かるのはわたしの手を握るニキアスの体温だけだ。
今もニキアスの仕草やわたしがやっと発した言葉への反応ははっきり分からなかった。
少しずつ暗闇の部屋に目が慣れ、わたしの直ぐ前にいるニキアスの影に気が付く。
その時にはもう彼はわたしの頬に唇を寄せていた。
ニキアスの熱い吐息が頬にかかった。
「マヤ…」
わたしがびくっとして息を詰めると、ニキアスに少し笑われてしまった。
「...もう一度」
(やだ...恥ずかしすぎる...!)
二度目のニキアスのお願いに思わず『無理です』と泣き言をそうになった時、ニキアスがわたしの手をグイっと引っ張った。
「もう一度呼んでくれ、マヤ...」
今度は耳元でニキアスの低い吐息混じりの声がした。
その感覚に背中にザワザワとした感覚が上ってきるのを感じる。
「ピュ…ピュロ…ス…」
言葉を出した瞬間、ニキアスの逞しい腕に抱きすくめられる。
あっと声を上げる間も無く、唇には温かく柔らかいものが重ねられたのだった。
お待たせしました。
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