74 神の誤算 ②
お待たせしました。
時系列的に前後の話しは少しズレています。
ユリウスは宿屋の階段をそっと降りて行った。
宿屋のカウンターに主人は立っていたが、ニキアスの姿は既に無い。
ユリウスは下を向いて書き物をしている主人に訊いた。
「あの、ニキアス様は…」
髭面の宿の主人はユリウスの声にパッと顔を上げた。
「ん?ニキアス様?」
(しまった。あまり名前を云わない様にしないと…)
ユリウスは慌てて言い直した。
「いえ…ええと、今ここに来た背の高い男性ですが、どこに行きましたか?」
「ああ、あの超美形の旦那ね。朝食は要らないと言って出掛けちまったよ」
髭面の主人は顎をしゃくる様にして出入り口の扉を指した。
(しまった…)
ユリウスは歯噛みした。
考えていたよりもずっと行動が早い。
ニキアスは朝食も取らずに出発したに違いない。
慌ててユリウスは厩舎の方へと小走りで向かった。
宿屋の隣に併設された厩舎へと向かっている途中、ガタンと厩舎の扉が開く音と馬の鳴き声がした。
ユリウスは反射的にサッと厩舎横の藪に屈んで隠れた。
(ニキアス様だ…!)
砂塵を上げながら走り去る黒い馬とニキアスの後ろ姿を見送りながら、ユリウスも急いで厩舎にいる使用人に自分の乗っていた馬を持って来させるように頼んだ。
(ニキアス様の行き先は分っている…)
昨日訪れた『レダ』神の神殿に向かうつもりなのだ。
ニキアスがこんなに朝から慌てて出かける理由を、ユリウスは知りたかった。
『もう一度ここを訪れなければなるまい』
そう確かに昨日言ったのに、自ら言った事をすっかり忘れている様子なのも気がかりだ。
神殿自体は一日中開かれており誰もが参拝は出来る。
流石に真夜中にやってくる者は少ないが、明け方から一気に参拝客の数は増えるのだ。
ユリウスにとっては珍しく直感的で、計画性の無い行動だったが、彼は参拝客に紛れニキアスを尾行する事に決めた。
参拝用の白いマントを持っていなかったが、途中何処かで手に入れればいい。
ニキアスに見つからなければ、最悪『レダ』の神殿に到着してから社務所などで買うつもりだった。
*****
頭上には雲一つない青空が広がっている。
遥か遠くの空には黒い雲が垂れこめ激しい稲光が走っていたが、この場所に到達するまでに、まだ時間が掛かりそうであった。
その下で大樹――『レダ』の樹は、風も無いのに葉を揺らしていた。
大樹の根元は碧い水を湛えて、鏡の様な湖面が広がっている。
湖面の下は草が時折激しく薙いでいた。
恐ろしい程の静寂の中、時折何かが軋む様な音が小さく聞こえる。
彼女の漕ぐ木のブランコの音と歌声だ。
蜂蜜色の長い髪と白いチュニックドレスを風にそよがせながら、女神『レダ』は少女の様に古いブランコを漕いでいた。
麗しい花の様な唇は、時折小さく何かを口ずさんでいる。
「…何を歌っているのですか?」
「…あら、目が覚めてしまったのね」
ブランコからゆっくりと湖面へと降りた女神は
「…ふふ、古い子守歌よ。貴方がよく眠れる様にと思っていたのだけれど」
と慈愛に満ちた表情で自分の足元を見下ろした。
闇の様に黒い肌をした筋骨逞しい男が、レダの前で前かがみのまま跪いている。
闘神『ドゥーガ』は女神を見上げ、問いかけた。
「これは…一体どういう事ですか?」
『ドゥーガ』の艶やかな黒い身体には『レダ』の樹――『レダ』の世界の中心とも言える大樹の事だ――の根が幾つも絡まっていた。
「この拘束は…どういうおつもりですか?レダ」
「どういうつもりって?…ふふ、何のこと?」
逞しい上半身と鍛えられた下半身には『レダ』神の樹の細い根が頑丈な縄の様に幾重にも巻き付けられ、『ドゥーガ』の身体の自由を奪っていた。
「これですよ…ほんの僅か私が眠っている間に。戯れのつもりなら…」
女神はにこやかに微笑みながら『ドゥーガ』に答えた。
「まもなくアウロニア帝国、いえザリア大陸の全土で戦さが始まるわ。そうなってしまったら…どう?貴方と『ヴェガ』の力が強まるばかりよ。それを避けたいの」
『ドゥーガ』は、自らの身体を覆うほど巻き付く樹の根を力技で外そうとしたが、流石の軍神でもそれを直ぐに振りほどくのは困難だった。
その様子を女神『レダ』は海の様に碧い瞳で見つめながら、優しく言った。
「無駄よ…力だけでは外れない。でも安心なさい。あの卑しく下劣な『コダ』の様に殺したりはしない。戦いが終われば…直ぐに解放してあげる」
『ドゥーガ』は小さくため息を吐くと、自分が今最も崇めている存在を見上げた。
「レダ...何故こんな事を?」
「いつ貴方が敵方に与してしまわないか…私はそちらの方が心配なのよ。可哀想だけれど、ごめんなさいね」
「レダ、最初から私は貴女の味方ですよ」
「あら、まあ!…そうだったかしらね」
「なんと…私を信じていないのですか?」
「――私は誰の事も信じていないわドゥーガ。それに貴方、私の敵の…コダ神と通じたんじゃなくて?」
女神がそう言うと、『ドゥーガ』は一瞬気まずそうな表情を浮かべた。
「…ほんの戯れではありませんか。本気ではありませんよ」
その言葉に『レダ』は少女の様にコロコロと笑った。
「ふふ…戯れ、ね...いいわ。貴方がそういう衝動に我慢が効かないのは知っているから」
ひとしきり笑い終えると、女神はその美貌にふっと淡い笑みを浮かべた。
許されたと胸を撫で下ろした『ドゥーガ』の表情は、次の『レダ』から出た言葉で凍った。
「…でもね、ドゥーガ。貴方、元は『ヴェガ』神と共に生まれてしまったでしょう?」
「……」
困った様に愛らしく小首を傾げる『レダ』を『ドゥーガ』は無言でじっと見つめた。
『――ひとつの星は大小二つに割れた。
大きな欠片は地上の割れ目の奥深くに燃えながら落ち、闇と厄災の死の神『ヴェガ』と成った。
そして小さな欠片は地上へと落ちて戦と争いの神『ドゥーガ』と成った――』
女神はそのまま『ドゥーガ』に近づいて、内緒話をする様に闘神の耳元でそっと囁いた。
「…貴方とヴェガは元は一つの星。私は貴方の真の姿を知っている」
大きくつり上がった『ドゥーガ』金色の瞳が僅かに細められ、剣呑な光を帯びた。
「…ほう、私の真の姿とは興味ぶかいですな。遥か昔の事で私自身も忘れてしまいましたが」
「そう?…では私が思い出させてあげましょう」
花が咲く様に艶やかに微笑むと、『レダ』はおもむろに話し始めた。
「戦神『ドゥーガ』…貴方は地上に真っ黒に燃える醜い獣の姿で生まれ落ちた」
「……」
「真に獣の姿よ。闇の神『ヴェガ』から全ての欲を盗った姿…その衝動のまま行動し、本能のままに性欲を満たし、己の欲を満たすためだけに永遠の時を闘う…欲望の塊の黒い獣」
「…成程。次第に思い出してきましたが、随分な言われようですね」
「見たのよ…遥か昔、黒い巨大な竜巻の様な風の中で殺戮を繰り返す貴方を。大地が次々と山の様な生き物の死体で覆われ、夥しい量の血が河の様に流れていったわ」
過去の自分の姿を暴露された『ドゥーガ』は、女神『レダ』を無表情のままじっと見つめた。
遥か昔に別たれた星の――別人とは言え、その姿はかつて彼女が夢中になった他の誰かを思い出させるものだった。
「...私が居ないで、他の神々を出し抜けるとでも?」
暫くの長い沈黙の後、静かに『ドゥーガ』は聞いた。
女神『レダ』はその言葉に返事をしなかった。
その代わり大樹の根がするりと伸びて、ガッチリと巻き付いた闘神の身体を更に細い根が覆っていった。
「...これでもうヴェガに与する者はいない」
完全に覆われる寸前の『ドゥーガ』の耳は、女神が小さく呟く声を捉えていた。
頭の天辺から足先まですっぽりと根に巻き付けられて巨大な蓑虫の様になった『ドゥーガ』は、『レダ』の樹の根元――鏡の様な水面の下へと静かに引き摺り込まれていった。
『レダ』はその光景を見つめながら微笑んだ。
「...しばらく私の樹と一緒に居て頂戴な。また眠ってしまってもいいのよ?子守唄なら何度でも歌ってあげるわ」
お待たせしました。m(__)m
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