69 女神のククロセアトロ ⑥
お待たせしました。
窓から朝の光が差し込み、小鳥の軽やかにさえずる声が聞こえている。
人気のない大通りは昨夜の喧騒は何処絵やらで、すっかりさわやかな朝だった。
ニキアス達は宿屋の二階に宿泊していた。
安宿特有の固く狭い寝台ながらも無事熟睡出来たユリウスは、起き上がって背中と腕をぐっと伸ばした。
「ふああ…よく寝た…っと、ん?あれれ?」
ユリウスは隣を見て驚いた。
上司であるニキアス将軍が既に起きていたのか、隣の寝台に俯いて座っていたからだ。
「お早うございます、ニキアス様」
「…おはよう」
「随分お早いお目覚めですね。僕よりも遅くお休みになられたのではないのですか?」
「どうやら夢見が悪くてな。あまり眠れなかった」
そう言ったニキアスの顔色と表情は冴えなかった。
ユリウスは尋ねた。
「それは…夢で何か心配事が現れている可能性もありますね。どういった夢だったのですか?」
ニキアスは俯いたまま暫く無言で考えていたようだったが、ぽつりと呟いた。
「いや…おかしい。何だったか……起きたばかりの時は覚えていた気がするのだが…」
側で働いて一年以上経つユリウスにとって、珍しい程ニキアスの口調が曖昧で歯切れが悪い。
柔らかな光の中、男性らしいがそれにしても整い過ぎている美貌に、濃い睫毛が影を落としている。
美しいグレーの瞳に憂いのエッセンスが加えられ、気怠そうに俯く姿はどこか現実離れした絵画のような――まるで神々の神話に登場する人物めいて見えた。
毎日接するユリウスですらため息が出る程美しい姿なのだが、自分は副官の立場でもある。
何時までもうっとりと見つめている訳にもいかない。
ユリウスは小さく咳払いをすると、ニキアスへと気分転換の提案をした。
「それは…長く異国の地での仕事で大分お疲れでいらっしゃるのでしょう。朝食を後にして貰う様に伝えておきますから、もう少し部屋でお休みになりますか?…あ、それとも公衆浴場でも行って、マッサージでもして貰いましょうか?大分リラックスできますよ」
ニキアスは首を横に振った。
「いや…平気だ。夢の内容は…よく覚えていないが、眠れない以外に問題は無い。それよりもユリウス、お前に尋ねたい事がある」
ニキアスは顔を上げ、居住まいを直したユリウスを真っ直ぐに見ながら尋ねた。
「何でしょうか」
「昨夜…お前が眠る前に言った、あの…『レダ』神の神殿に再度行って、夜は友人に会う…とやらは、いつ何処で約束をした?」
*****
「あの、ニキアス様…忘れちゃったんですか?」
ぽかんとしてニキアスの顔を見るユリウスの表情は、とても悪ふざけをしている様には見えない。
「ご自分で『レダの神殿にもう一度行く』と仰っていましたよ。覚えていらっしゃらないんですか?」
ユリウスの言葉を聞いて、ニキアスは再び頭を抱えた。
(覚えていない)
(そもそもアルコールとも呼べない代物だったが)、昨夜ニキアスは水で薄めた葡萄酒以外の物を呑んでいない。
それに元々強い度数の酒を煽っても、ニキアスはほとんど酔わない体質だ。
しかし何故自分の記憶がすっぽりと抜けてしまっているのか、訳が分からなかった。
ほんの僅かでも
(何かの聞き間違いの可能性だと思いたかったのだが…)
「他に…『友人』とやらについて…俺は何か言っていたか?」
ユリウスはいつもとは違うニキアスの様子を怪訝そうに見た。
「それについては…僕は分かりません。宿について暫くしてから宿の主人がニキアス様宛の小さく折り畳まれた紙片を持って来て…どうしちゃったんですか、ニキアス様…本当に、あの…大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。それで?」
「それで…ってその――僕はその紙片の内容は見ておりません。ニキアス様がご自分で紙片を広げて読んだ後、直ぐにテーブルの蝋燭で燃やしてしまわれましたから」
ユリウスは肩をすくめながら説明をした。
*****
そう。
ユリウスは驚いたのだ。
昨日用事が済んでレダの神殿を出る直前、ニキアスが何処かぼうっとした表情で
「明日…もう一度ここを訪れなければなるまい」
とユリウスに言った事。
宿屋に入った時も何処か上の空と言った風情で、食事の時もユリウスが一方的に話している様な状態だった。
(激務と長旅で、さぞお疲れなんだろうな)
呑気にそう思っていたユリウスだったが、宿屋の主人が持っていた紙片をユリウスが文面を確認する前に自ら開いて読み、読んだ直後に跡形もなく燃やしてしまったのを見て、さらに驚いた。
行動の内容自体がおかしいのでは無い――が、明らかにいつものニキアスとは異なる行動を取っている。
ユリウスにとって幾つか違和感があったが、一番驚いたのは、ユリウスの帯同を許さなかった事である。
戦時中でも側にいる事を許してくれたニキアスなのに、何故今回だけは駄目なのか。
そして結局その理由をニキアスに聞いても、昨夜は頑として教えてくれなかったのである。
*****
「…分かった」
どこか優れない顔のまま、ニキアスは立ち上がった。
「宿の主人にも一応確認をして…そのまま出てくる。お前は予定通りダナス副将軍の所で待機していていなさい」
「待機も何も…うちの父はどうせ娼館で酔いつぶれてますよ。あ、ニキアス様…ニキアス様?」
ユリウスの声がもう聞こえないかのように返事もせず、そのままふらりと歩いてニキアスは部屋を出ていった。
パタンと静かに扉が閉まる。
「んも―…一体どうしちゃったんだ、ニキアス様は」
寝ぐせの付いた淡い金髪をがりがりと掻きながら、ユリウスは立ち上がった。
どうやら
(いきなり健忘症にでもなってしまったのか?)
と疑ってしまうくらい自分の行動を覚えていない様子なのだ。
「心配だな…大丈夫かな」
そう呟きながら、ユリウスはこの狭い部屋で唯一の窓――ニキアスの寝台の真上を開けた。
窓を開けた瞬間、気持ちの良い朝の風が入ってきた。
それと同時にニキアスの寝跡の付いた寝台から、何か白い羽の様なものがハラリと床に落ちた。
「…?何だ、これは…」
ユリウスは屈んでそれを拾い上げた。
それは一枚の――薄くやわらかな白い花弁だった。
わざわざ嗅がなくても、一枚でありながらとても甘い香りがする。
「これは…」
ユリウスは自分の花の知識と共に、昨日の記憶を思い出した。
「そうだ」
これは確か――ガルデニアの花だ。
(昨日『レダ』神の神殿でも季節外れなのに、至る所で咲き誇っていた)
流石『豊饒の女神』の神殿だと感心したのものだ。
(何故これがニキアス様の寝台で…?)
昨日神殿の何処かで、ニキアス様の身体に付いてしまったものだろうか。
ユリウスは何故か胸騒ぎを覚えた。
暫く考えてから急いで寝間着からチュニックに着替えた。
そして最小限の物だけ持ち、ニキアスの後を付ける為にそっと扉を開けて階段を降りて行った。
お待たせしました。m(__)m
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