66 女神のククロセアトロ ④
お待たせしました。
*『ククロセアトロ』とはギリシャ語で人形劇という意味です。
ここは首都のはずれの街道沿いの宿屋だった。
皇帝がいる皇城と皇宮まではまだ半日ほどの距離がある。
アウロニア帝国内で最も最大のレダ神の神殿は、広大な首都の敷地のはずれにある。
ニキアスとユリウスはレダの神殿を訪れた後、夜も更けるのでこの辺りでの宿泊を決めた。
この街道沿いには小さな街や村が纏まって点在しており、軍隊の駐屯地として大々的に野営できる場所が限られてしまっている。
しかし反対に宿泊できる宿屋が多く点在しているので有名だった。
この街道を通って城下町へと向かう商人の隊や多くの旅人が利用する場所である。
自分達の身分を明かすと大騒ぎになり、宿を探すのにかえって手間になる可能性があったので、敢えてそれを名乗らず普通の宿に泊まる事にしたのだ。
「いやあ…大変お綺麗な方でしたね、クラウディア様。まさに美の化身、レダ神そのものって感じでした…」
ニキアスと共に訪れたユリウスは、昼間対応してくれたクラウディア=パレルモ神官を思い出し、うっとりとして言った。
ニキアスと副官ユリウスは、宿屋に併設された居酒屋兼食事処で夕食を採ることにした。
見るからに口の中が渇きそうにパサついたパンの塊と、反対に脂身の多い豚肉を豆や香草と共に煮たであろうどろっとしたスープの器、ヤギのチーズと鶏の足を炭火で焼いた物が無造作に大皿に積み上げられ、小さな木のテーブル上に所狭しと並んでいる。
ニキアスとユリウスは並んで乾燥したクルミ入りのパンを葡萄酒とチーズで流し込んでいた。
ユリウスはタンブラーを傾けながらしみじみといた口調で言った。
「しかも背もとても高くいらして。長身のニキアス様と並んでも見劣りしないスタイルの女性はそうそういらっしゃるものではありませんから」
「そうか?……いや、まあ…そうか、そうだな」
単にクラウディア=パレルモ神官の美しさと背の高さを褒めるユリウスの言葉に、何処かニキアスは不機嫌そうな表情をしながら不承不承頷いた。
手に持っていた葡萄酒の入るタンブラーを一気に煽る。
水で薄めた酒だと飲んで直ぐ分かる代物である。
(…あの宿もたしかそうだったな)
ニキアスは、過去に何度も似たような宿に泊まり葡萄酒を呑んでいる。
しかし何故かその場面――ハルケ山の視察へとマヤと共に向かった時の事を思い出した。
色々な思惑があったが、ここと似たような安宿にマヤと泊まったのだ。
あの時――マヤに潤む海の様に碧い瞳で見つめられ『ピュロス』と言われた時、何故かどうしようもなくイライラとしてしまったニキアスだったが、今考えれば
(記憶の底に沈めようとした苦い初恋の記憶を、掘り起こされてしまったからだ)
と分かる。
物思いに沈んだニキアスを見てユリウスが心配する様に言った。
「…この遠征続きで流石のニキアス様もお疲れなのでしょうね」
「いや、身体は何ともない…ここ最近少々夢見が悪くてあまり寝付けていないだけだ」
ニキアスは小さくため息を吐いた。
最近床に就くと幼い頃の忘れたい、忘れようとしていた記憶を夢に見るのだ。
何も知らなかった自分が、義兄上に玩具の様に愛される夢。
義兄の元から逃げ出した先の神殿で、夜中に肥えた神官長が自分に襲い掛かる夢。
ひっそりと憧れていた『神』の声を聞く高貴な存在の娘に『汚らわしい』と罵られる夢。
そして何故か最近は――自分の記憶に無い夢を見る様になっていた。
それはマヤ王女がガウディ陛下の『愛人』になったという噂を聞いてから見る夢だ。
それが妙に生々しく、現実身を帯びていて、ニキアスが夜中に飛び起きる事もしばしばあったのである。
*****
マヤに会いたい。
彼女から真実の言葉を聞きたい。
(しかし)
噂では彼女は今、恐るべき自分の義兄ガウディ=レオスの愛人になっていると言われている。
そう発表されたのは間違いがない。
何故そんな事になってしまったのか。
ニキアスはアウロニアへと戻る道中で何度も考えた。
(もしや――マヤ自身の意思だろうか?)
いや。それは…きっと違う。
そんな事をマヤが望む訳が無い。
(…あの義兄上の事だ。強要されてしまえば、あの皇宮でたった一人のか弱い彼女には断る術も無い)
ニキアスは遠征に出る前の、最後ガウディの部屋の浴室でも出来事を思い出していた。
『一つ目は余のものを咥え舌を使い、喉奥を締めて…』
『二つ目は今この場でそのトーガを脱ぎ、美しい裸体を…』
『三つ目は…以前の様に全てを捨て、ここから出て行く事だ』
蝶の様にひらひらと動いていた義兄上の指は、まるでどの選択肢を選んでも『捕らえられ喰われる未来が待ち受けている』のを示唆するかの様だった。
(マヤ…)
ニキアスはぎゅっと目を閉じた。
一歩間違えれば帝国を根幹から揺るがす出来事になり得た『皆既日食』を第三委員会と共に解決し、やっと『預言者』として認められ、これから更に華々しい活躍を見せるかもしれなかった神聖な『レダ神の預言者』を。
(愚かなことに…預言者を義兄上は私物化し、彼女をただの愛人と言う立場に堕としてしまった)
多分そう言う事なのだ。
(だとしたら許せない)
大公の嫡男という持って生まれた境遇も、何かを為し得る才能も、揺ぎ無い立場も――アウロニア帝国皇帝ガウディ=レオスと言う男は、十分過ぎる程全て持っているというのに。
(自分のささやかな望みであるマヤをも奪ったとしたら)
許せない――許せる訳が無い。
(マヤは…俺のものだ。陛下に…義兄上に…)
ニキアスは虚空を睨みつけながら小声で呟いた。
「渡すものか…絶対に」
再び自分の中で、熾火の様に嫉妬心に似た黒い炎が燃え始めるのを感じた。
その炎が少しずつ勢いを強め一気に燃え上がろうとした瞬間、ニキアスの耳にユリウスの眠そうな声が響いた。
「…ニキアス様、僕先に休みますね」
*****
ハッと気が付くと、ニキアスはいつの間にか宿屋の寝台の上に座っていた。
先程と明らかに周りの景色が違う。
(確か食堂に居たはずだが…)
ニキアスはいつの間にか、寝台が二つ並んだだけの簡素な部屋に移動していた。
薄く開いた窓からは未だ酒や食事で盛り上げっている客や、道路で歌う大道芸人の声が流れ込んで来る。
真向いの寝台には、淡い金髪だけ出してシーツに包まり瞼の落ちそうなユリウスが、ころりと横になっていた。
(…いつの間に俺は食事を済ませてここに来た…?)
物思いに耽っている内に食事を済ませ、宿屋の部屋に移動していたらしいのだが。
(何故ここに戻って来た記憶が無いんだ…?)
自分の行動の記憶がすっかり抜け落ちている。
(そんな…馬鹿な)
(何故だ?)
この事態に呆然としたニキウスは眠りに落ちそうな青年副官にまともに返事が返せなかった。
「あ、そうそう、ニキアス様…さっき仰られていましたが…」
眠りに落ちる直前のユリウスは更に驚く事を言った。
「明日また『レダ』神の神殿に伺って、夜はご友人にお会いするそうですが――僕が同行しなくて良いとのお話だったので…僕、一応父の所でお待ちしていますね…おやすみなさい」
お待たせしました。m(__)m
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