50 皇帝の愛妾 ⑥
かなり加筆、編集しております。
「今日もお美しゅうございますわ。マヤ様」
「…そう?ありがとう、リラ」
白い絹のチュニックはドレープがふんだんに寄せられ、鮮やかな朱色のトーガを軽く巻く。
小さな金細工と碧い宝石の付いたイヤリングと指輪のセットを付け、白い象牙の様な髪留めで蜂蜜色の髪を緩く巻き上げた。
「まだお顔の色が優れませんわ…きちんとお休みになられてますか?」
「大丈夫よ、リラ。横にはなっているから」
「そうですか…」
『後ほど陛下がお部屋におこしになるそうです』とリラの言葉に、わたしは『そう、分かったわ』と上の空で答えた。
*****
愛人である立場は、預言者でいた時と違って時間の管理がとても大雑把と云うか、大分一日の流れがルーズになってしまう。
何故か。
殆ど何もする事が無いからだ。
この世界の教養や知識を学ぼうと思えば頼めるだろうが、公に出る皇后陛下や側妃ならともかく、一介の愛人の立場ではあまりいない。
この世界を知らなさすぎるのもあってリラにも『先生をお願いしたい』と云ったら、キョトンとした目で『…性技の師でございますか?』と返されてしまった。
たかが愛人に脳みそは要らないのだろう。
陛下が来る日に備えるべく圧倒的に自分の身体を磨き上げる女性が多いのだ。
(今皇宮内にバアル様がいれば…)
分からない事をもっと心安く教えて貰ったかもしれないのに。
(そう言えば…)
わたしはふと思った。
バアル様から頂いた手紙が何故かいつのまにか消えてしまった事も不思議でならない。
あの後リラを含め部屋を出入りしていた奴隷に尋ねてみたけれど
(知らないと首を振られてしまっただけだったわ)
(何度考えても分からないわ)
わたしはどうしたら良かったのか。
そしてこれからどうしたらいいのか。
ニキアスに嫌われなければ…自分の死から逃げられると思っていた。
(ニキアスに愛されてそれで全て事が上手く行くと思っていた節はあるんだわ)
自分の起こした行動が後からこんな未来にニキアスや自分自身を縛るものだとは考えていなかった。
もう自分の周りの全ては濁流のようにわたし自身もなすがままに飲み込まれ――かつてわたしの知る『亡国の皇子』とはかけ離れた場所まで運ばれていく。
*****
「何をぼーっとしている」
「…あ、陛下」
陛下は光の無い目でわたしを無表情に見下ろすと、模型の近くにあるテーブルの上に帝国の縮図を置いた。
「何回か話しかけたが、無反応だな。お前は目を開けて眠っているのか」
「いえ、いえ…そんな…」
『お越しいただいたのに申し訳ありません』と慌ててわたしは口ごもって答えた。
陛下は小さくため息を吐くと寝椅子の方を指差した。
「…座れ。また顔色が悪い」
「あ…はい。申し訳ありません」
わたしはぼーっとしたまま大人しく指示に従って寝椅子に近づいた。
そして陛下が作ったと言われる椅子の優美な背もたれをそっと撫でながら、無意識のうちに言った。
「このカウチは…陛下が昔から取り掛かって作り上げたとお聞きしましたわ。
この世界ではまだ見ないとても変わったデザインでございますわね」
「…それはどういう意味か?」
何時の間にか側に立っていた陛下の真っ黒い瞳に射すくめられて、わたしは唇が凍ってしまったかの様に次の言葉が出せなかった。
「いえ、あ…あの、あの…」
(余計な事を云ってしまったかもしれない)
いつもならあの光の無い瞳に見下ろされると、言葉に詰まって話も出来なくなるけれど――今回は何故か違った。
何故かここでいきなり水音が聞こえたのだ。
パチャリと。
その音を聞いた瞬間、魔法が解けた様に言葉がわたしの唇からスルスルと出てきたのだ。
「あの…素晴らしい椅子を陛下が手づからお作りになったと聞きましたので。それをわたくしの様な立場の者が頂けたのが有難くて…大変光栄ですわ」
陛下はわたしの言葉に小さく鼻を鳴らすと、断ち切る様に云った。
「あれはお前の為に作っていたものではない。以前から取り掛かっていた幾つかの物が丁度先日仕上がったから持って来させたまで」
と言うと、陛下は精巧で巨大な帝国のミニチュアと目を向けた。
「まあ…そうでしたか」
『あの、でも、ありがとうございました』
とわたしは口の中でモゴモゴしながらカウチへと腰を下ろした。
(やっぱり陛下とは会話にならないわ…)
陛下と話しをする度にいつも陥る軽い虚無感に、余計な事を云わなければ良かったと後悔した瞬間――またどこか遠くで小さく何かが跳ねるような水音がした。
(パチャッ…)
*****
さっきよりもはっきりと聞こえた水音に、わたしは辺りを見渡した。
音を立てるような作業をする奴隷は今この部屋の中には居ない。
というよりも、この部屋に陛下とわたしは二人きりだったのだ。
(一体何処から聞こえたのかしら…?)
音の出どころを捜して顔を上げたわたしは、ふと隣に立つ陛下の顔を見てハッと息を呑んだ。
(お…怒ってる?)
陛下は壁の一点をじいっと見つめていた。
表情こそ殆ど変わらなかったけれど、周りを切り裂く様に薄っすらとした殺気のようなオーラが立ち上がっている。
(怖い…)
殆ど虚無とも言える陛下の感情の変化は珍しいものではあったけれど、それよりも恐ろしさが勝つ。
(何を見つめているのかしら?)
わたしは陛下の視線の先を追った――それは壁に掲げられていた、あの存在感のあるアウロニア帝国のレリーフだ。
(あら…?目の錯覚かしら)
一瞬見間違いかとも思ったが、やはりそうだった。
ウロボロスの様な巨大な蛇の中央に埋め込まれている赤い石が何故かチカチカと激しく瞬いているのを――陛下が睨む様に見上げていたのだ。
(赤い石が光っているわ…)
あの石が光るのをわたしは以前にも何回か見た事がある。
あれは陛下の応接室や書斎にもあったあの卵型の不思議な赤い石だ。
そしてなぜか今。
気付けば呼応するように陛下の耳に埋め込まれている赤い石も何故か呼応するようにチカチカと小さく瞬いている。
思わずわたしは陛下を見上げて呟いていた。
「陛下お耳の石が…」
わたしの声を聞いた陛下はレリーフを見上げるのを止めこっちを見て、今日何回目かのため息を小さく吐いた。
「…興がそがれた」
陛下はソファにどっかりと腰を下ろしわたしの横で長い足を組んだ。
その表情は明らかに不機嫌そうだった。
*****
「陛下…あのレリーフの石は…」
わたしの問いと共に陛下はひび割れた低い声で話し始めた。
「…この椅子は…」
「え?椅子でございますか?」
陛下の様子は明らかに光る赤い石から話題を変えようしていた。
「…これは元々庭に寝転がるのが好きだった母の為に作っていた」
「まあ…お母様想いでいらっしゃったのですね」
「普通の椅子だとくつろげない、寝椅子だと見栄えが悪いと言う我儘な女だった」
一度わたしが見た白昼夢では、枯れ木が付くのも構わず庭で夫人はゴロンゴロンと寝転んでいた。
その記憶が正しければ、陛下の母上は大分変わり者だったと予想は出来る。
「何度注意した事か、雪の中でも薄着で庭に寝転がっては風邪を引いていた。
直ぐ屋敷を抜け出してフラフラと庭や森へと彷徨っていた。レダの声を聴くと言ってな。酒に溺れ、口の回らない父ですら母を狂人だとして扱っていた」
「それは…」
何か返したくともなんとも返しようが無かった。
実際わたしがそれ以上に知っている事は少ない。
エレクトラ様は小説『亡国の皇子』の中で登場する人物では無かった。
わたしは陛下のお母様が元レダ神の預言者だったとこの世界に来て初めて聞いたから。
けれど最後の白昼夢で見た――湖に沈んでしまった不幸の記憶。
一瞬だけど、わたしはエレクトラ様の壮絶な最後の記憶を体感した。
そしてその彼女に寄り添う少年の陛下の姿も確かに見た。
恐らく淡々とした陛下の言葉からは伺い知れない大変な少年時代を、
(陛下も…また、過ごしてきたには違いないんだわ)
そう思った時には、わたしからぽつりと言葉が転がり落ちていた。
「陛下はお母様を心から大切に…とても愛していらっしゃったのですね」
*****
そう言って直ぐにわたしはその言葉を後悔した。
わたしの目を陛下の鋭い真っ黒い瞳が見返したからだ。
「…!」
恐怖でわたしの身体が固まった。
自分の顔からさあっと血の気が引いていくのが分かる。
(またよけいな事を言ってしまったかも…)
何か陛下の気に障る事を言ってしまったかもしれない。
「余計な事を…申し訳ありません」
恐ろしさの余りわたしが下を向いた瞬間、陛下の長い指がわたしの腕をグイっと引っ張った。
「…あ…」
グイと力強く腕を引かれ、わたしの身体は次の瞬間陛下の固い胸に抱き締められていた。
「陛下…?」
「もう同じ過ちは侵さない」
陛下のひび割れた低い声が耳元で聞こえた。
「…レダの思うがままにはさせん」
お待たせしました。m(__)m
読んでいただきありがとうございます。
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