17 ハルケ山へ ②
慣れない場所の為か緊張のせいかわたしは夜半過ぎまでなかなか眠りにつく事が出来なかった。
ウトウトしては何度も目が覚めた。
その間冷汗をかきながら何度も悪夢を見た。
それは小説『亡国の皇子』の中での一場面だ。
多分火炙りにされる時なのだろう、皆に罵倒され兵に引き摺られる夢だった。
どの場面にもニキアスは必ず登場したけれど、わたしへの憎しみを口々に叫ぶ人々の中で彼はいつもわたしをじっと見つめるだけだ。
(どうして…いつもそんな哀し気な表情をするの?)
わたしはモノクロの叫ぶ人々の合間から見えるニキアスへ向かって叫んだ。
『お願いニキアス。わたしを殺さないで』
ニキアスは顔を歪めると、わたしに背を向け群衆の中にその姿を消した。
『ごめんなさいニキアス。貴方をいつも傷つけてばかりいて』
わたしは夢中で、彼の姿が消えた方向へ手を伸ばした。
『置いて行かないで。愚かだったわたしをどうか許して…』
すると暫くして爽やかな薄荷の香りがする冷たい布が額に当てられた。
その香りを深く吸うとわたしにもやっと深い眠りが訪れた。
そのあと悪夢はもうやって来なかった。
**********
――隣で眠るマヤ王女が…ひどくうなされている。
ニキアスは眠れなかった。
昨夜の跪いて自分の手を取ったマヤ王女の行動を思い出していたのだ。
「ニキアス様…あの、わたくし決して嫌ではありませんでした」
マヤはそのままニキアスの片手を持ち上げると驚く事に自分の頬へと導いた。
柔らかい頬の感触がする。
そして彼女は碧い海の様な瞳を揺らして少し呆然とするニキアスの顔を見上げた。
「…色々と気を遣って頂いてわたくし感謝しています、ニキアス様」
(…本当に一体何を考えているのか…)
油断させようとしているのか、誑かそうとしているのか、はたまたもうどうにでもなれと自暴自棄になっているのか。
何度目かの寝返りでニキアスはマヤが何かを言っているのに気づき、起き上がってマヤの方を見た。
マヤは冷や汗をかきながら繰り返していた。
「お願い…殺さないで。ごめんなさい…」
(…夢か)
ニキアスはため息をつき背を向けてまた横になると、今度はマヤが自分の名を呼んだ気がした。
「…キアス..........い…」
ニキアスは自分が横になっていた寝台より立ち上がった。
「…ニキアス…許して…そんな風に見ないで…ごめんなさい…」
マヤを覗き込むと汗をかいた彼女は、時折首を横に振っては小さく呟くのを繰り返していた。
ニキアスは水を汲み、たらいに移した冷たい水にほんの少し薄荷油を垂らした。
静かに濡らした手拭いをそっとマヤの額にのせた。
その時マヤの目尻から涙が落ちるのをニキアスは見た。
「......ま…お願い。わたしを見捨てないで…」
*********
(一晩中、自分が火炙りになる時の夢ばかりを見ていた気がするわ…)
わたしはため息をついて起き上がった。
すると額から小さな手拭いが落ちた。
(何、これ?誰が…)
立ち上がると、テーブルの上に薄荷水の入ったたらいと手ぬぐいがテーブルの上に置いてあった。
(…ニキアスだわ)
あの額への布は、彼がうなされているわたしの為にしてくれたに違いない。
「…あの、ありがとう。ニキアス」
すでに支度を終えたのか部屋の出口で出発の準備をしているニキアスに向かって言うと、彼は肩を軽くすくめただけだった。
わたしも準備を手早く終えてニキアスと共に階段を下りて行く。
すると先に降りたニキアスが階下に姿を現すと同時に「きゃあ」という歓声が上がった。
何故か一階の女性客のほとんどが、ニキアスに注目しているのだ。
(......え?何かしら)
女性の歓声と視線を無視したニキアスが、宿の主人と地図を見ながら旅の行程を確認しているのだが、少し遠巻きにいる女性達がニキアスの横顔を顔を赤らめて見つめているのだった。
(何かあったの...?)
「おはようございます。奥様良く眠れましたか?」
昨日藁を運んでくれた下働きのおばさんがやって来てわたしに気さくに声を掛けてきてくれた。
「おはようございます。ニキ…いえ、夫が何かしたのかしら?ここの女性たちが、やたら彼を気にしているみたいなんだけれど」
おばさんはため息をついて悩まし気に言った。
「そりゃあんなにいい男ですからねぇ。
しかも昨日厩舎の前で上半身裸で桶の水を被って水浴びをしたらしいですよ。それを宿の女性客らが窓から覗いて、逞しい美青年が水浴びをしていると大騒ぎになったようでさ」
おばさんはちらっとニキアスを見ると声を潜めて教えてくれた。
「...実際何処の部屋に泊まっているのか知りたがる女性が多かったらしいですから」
それを聞いてわたしは口をあんぐりと開けた。
「えーと…一応彼が(嘘だけど)既婚者だって知っているのよね…」
「奥様…女達はいつでも逞しく美しい青年に心惹かれるもんですよ」
おばさんはこれが真理だと言わんばかりに断言した。
それから少し冗談のような口調で意味深に笑って言った。
「お気をつけくださいよ。奥様はとても幸運な女性ですが、獲物を狙う立場になるのは常に男であるとは限りませんからね」
***************
厩舎にいくまでの間わたしは女性客の灼け付くような羨望の視線にさらされなければならなかった。
(これはこれで…辛いわ)
ニキアスは既に馴れているのか、女性陣(数人男性もいた)の視線や黄色い声をものともにせず、どんどん先へと歩いて行く。厩舎に向かってわたしが下を向いたまま付いて行くとニキアスが尋ねてきた。
「また馬に乗るのは辛いだろうがもう半日程で着くらしい。ただハルケ山のふもとには宿が無い。下手をすれば野宿になるがいいか?」
「…大丈夫です」
わたしは少し上の空で答えた。
するとニキアスはわたしの顎を指で上に向かせた。
「…昨日あまり眠れていないだろう。長時間馬に乗るのは大丈夫なのか?」
わたしが眠れていないからと額に布を載せてくれたニキアスもあまり眠れていないだろうと思う。
ニキアスは優しい。
(...マヤ王女は何故彼にあんなに冷たい態度をとったんだろう?)
わたしは安心させる様に少し笑ってニキアスへと言った。
「…本当に大丈夫です。早く出発しましょう。ニキアス将軍に証明しないとハルケ山の行軍を止められなくなりますから」
ニキアスはわたしの顔をじっと見下ろしていた。
左目は面布で覆われているから、右側だけ見える濃いグレーの瞳に浮かんでいる感情が何なのかわたしに分からなかい。
けれどどんなに分かりにくい態度でも、彼がさりげなくわたしを気遣ってくれる事はシンプルに嬉しい。
(ニキアスを…がっがりさせたくないわ)
不思議なことだけれどいつの間にかそう思うようになっていた。
お待たせしました。
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