13 偽りのピュロス ②
ニキアスの唇が降って来て何度も重ねられる。
わたしは彼の身体から離れようと掌で押しかけて――止めた。
少しでも妙なそぶりを見せれば、目の前にいてじっとわたし達を観察する男に怪しまれてしまうかもしれない。
(でもどうして――)
わざわざ人前でキス必要があるの?
恥ずかしさのあまりわたしは顔に血がのぼっていくのを感じた。
キスの時間が彼に試されているのかと思うほど長くて、所在無い手をわたしは仕方なくおずおずとニキアスの背中に伸ばした。
その瞬間ニキアスが僅かに身じろぎしたような気がするけれど、更に彼に身体をぴたりと密着させられる。
ニキアスの唇はしばらくしてから降りて来た時と同じように、ゆっくりと離れた。
わたしは恥ずかしくて目を閉じたままだったが、それでも渋々納得したかの様な男の声が聞こえた。
「分かった…分かったよ。そんな熱烈なキスされたら疑う訳にいかないだろ。あんたがその嫁にぞっこんなのも分ったよ」
「…分かって貰えて良かった。大事な俺のピュロスだからな」
それに対してニキアスは乾いた声で返した。
「じゃあな、貴重な情報ありがとよ。すごくいい女だからアウロニア帝国軍の男に気をつけてやれよ」
と男はわたしをもう一度じっと見ると、諦めた様に厩舎の前から去って行った。
男が見えなくなるまでニキアスは無言でその場に立っていたが、男の姿が消えた途端ニキアスは呟いた。
「…残念だが、遅かったな」
気まずい空気は最高潮でわたしはニキアスの顔を見ることができなかった。
「…行こう。宿に泊まる手続きをしなければ」
ニキアスはわたしに声を掛けると、背を向けて歩き出した。
「あ、はい…」
とわたしが慌てて後について歩こうとした途端先を歩くニキアスの脚がピタリと止まった。
そして後ろを振り向かず少しイライラした口調で言った。
「…随分余計な事を言ってくれたな。
お陰で部屋を一部屋しか借りれないかもしれないぞ」
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「ご夫婦なんだろ?じゃあ一部屋でいいな」
先程の厩舎の騒ぎはもう宿へ情報として届いているらしい。
宿泊用の窓口で宿の主人はニキアスに明るく言った。
ニキアスのチッと小さな舌打ちが一瞬聞こえた気がしたけれど
「…分かった。一部屋でいい」
としぶしぶ折れた。
ただ次いで
「宿代は出すから必ず二階の部屋で、寝台は二つ付いている部屋にしてくれ」
と宿の主人に注文を付ける事は忘れなかった。
幸いニキアスの希望通りの部屋が丁度空いていた様だ。
直ぐに通された部屋は、素泊まりにしてはきちんと掃除がされている部屋だった。
ニキアスが事前にわたしに『部屋に文句は言うなよ』と言われていたので、どんな汚い宿かと内心心配していたのだ。
床と寝台は木製で整えられていてきちんと二つ寝台が並んでいた。
寝台というか、シンプルな長椅子にゴザのようなムシロが敷いてあるだけの物ではあったが。
「え?…この上で寝るんですか?」
マットレスもシーツも敷いていない状態の寝台を見て、思わずわたしの口から出てしまった。
わたしの口調にニキアスは
「文句は言うなと言ったはずだ。庶民の宿だぞ。床に直接寝るじゃ無いだけマシだと思え」
そう言って、ムシロを取り上げ、バサバサとはたき始めた。
「良かったな。虫は居ないようだ」
(――虫!?)
あの巨大ゲジゲジを思い出して思わず青ざめるわたしを見て、ニキアスはふんと鼻を鳴らした。
ちょうどそこへ、部屋の扉をノックする音が響いた。
すると、先ほど対応してくれた宿の主人と数人の奴隷がテーブルセットと食事を持って入ってきた。
奴隷が簡易的なテーブルを組み立てると、そこへ平たいパンと油と塩、ワインのような液体の入ったピッチャーと暖かい肉団子と野菜の入ったスープを次々と置いた。
ニキアスは宿の主人に頼んだ。
「食後に湯と温石の準備を頼む」
宿の主人はちらとニキアスを見ると言った。
「そんなのを使わなくとも…旦那だけでも公衆浴場へ行ってきたらどうだい?」
「いや、遠慮する」
ニキアスは即答した。
(公衆浴場って…銭湯の様なものかしら?)
「ねえ、行ってきたらどうかしら」
わたしが提案するとニキアスはジロリとわたしを見た。
「――いや、お前を一人にするわけにはいかない」
(目を離すわけにはいかない)
色々な意味を含んだニキアスの言葉だったろうに、宿の主人はと笑って
「これは…奥様を大事に思っておりますな」
そう言った途端ニキアスに目で『余計な事を言うな』と睨まれて、宿屋の主人は黙ってしまった。
ニキアスはわたしを促してテーブルへ座ると、奴隷が給仕したワインを飲んでから眉をひそめた。
「――これは水で割っているのか?」
と宿の主人に聞いた。
「そりゃここは貴族の宿じゃないんでね。原液のままなんかじゃ出せませんよ」
宿の主人の言葉にニキアスは「まあ、そうだな」と頷いてからまた『文句を言うなよ』の視線をわたしに向け食事を促した。
「おまえも食べなさい」
わたしはニキアスの言葉に頷いてザラリとしたパンを手に取った。
部屋を出る間際に宿の主人がわたしの方をまたチラッとみてから、もう一度ニキアスへとチャレンジする様な言葉をかけた。
「もしマッサージする女が必要だったら…」
「いらんと言ったはずだ」
再びニキアスはにべも無く断ったのだった。
お待たせしました。
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