52 皇帝陛下への上申 ①
藍色の空には様々な形の小さな月が数個と無数の星が瞬いている。
草原を涼やかな風が吹く中で小さく虫が鳴いていた。
いや――虫の声ではなく、それは小さく囁く様な話し声だった。
「ヴェガさまヴェガさまヴェガさまヴェガさま……」
その中を月に照らされながら、銀色をした毛並みの獣がゆっくりと歩いている。
頸から三日月の形をしたチェーンの首輪をぶら下げている白狼だった。
どこまでも続く草原の中に小さな古代形式の神殿がぽつんと建つ中、風に吹かれた草の音と呼応して微かな声は波の音の様にも聞こえた。
「ヴェガさまヴェガさま…たいへんたいへん…」
「このままじゃこのままじゃつかまっちゃうよ…」
「捕らえられてしまうよ……」
草原の中を歩いていた白銀の狼は、神殿の中へと入っていった。
ヴェガ神の社の中の不思議な光が浮かぶ通路を白狼はゆっくりと歩き、そのままヴェガ神の待つ部屋に入った。
小さなテーブルの前で、頭頂部だけがつるっとした白く長い髪の小さな老人が椅子にちょこんと座っている。
眉毛と髭も白くふさふさで、ローブのような白い服を着ている。
白い髪の老人は木のマグカップを両手で持ち、お茶をずずっと飲みながら狼を待っていた。
白銀の狼は、その場で音も無くオフショルダーのドレスを着た長い銀髪の美女に変わると、老人に向かって一礼をしてから報告をした。
「ヴェガ様。やはり女神に捕まりそうです」
「ほう」
白い眉毛を吊り上げて老人は尋ねた。
「そうかそうか…して、どちらがかな?」
「ニキアスの方です」
「…ニキアスか」
「このままでは愚かな嫉妬に囚われて、レダ様とメサダ様の思う壺に……」
「ほうほう成程。それは致し方がない。報告ご苦労様じゃったな」
「…このままで良いのですか?ヴェガ様」
「良いも悪いも無いのじゃ、セレネ」
ヴェガ神はセレネを穏やかに見つめた。
「我々は傍観者なのじゃよ。
もともとこの『亡国の皇子』には何者も介入してはならなかったのに、その結末に不服のある者が、次々と直接的で無いにしろ手を出し始めているのだ。今回はそれがレダ神だったという事じゃろ」
「それは…故意に彼がマヤ王女を愛する様に仕向けた事もですか。
そしてその愛を操り、嫉妬の炎を煽ってまで…」
「…本当にそこまでレダがやっているのか儂には預かり知らん事なのじゃよ、セレネ。
どうしても気になるならレダ自身に直接訊いてみたらどうじゃ。
古来よりレダは愛と嫉妬を司る神でもあるのじゃから」
セレネはじっとヴェガ神を見つめた。
その視線を感じて顔をあげたヴェガ神はコロコロと笑った。
「ほっほっほっほっ…珍しいなセレネ。
たかが人間の愛憎劇にお主がそこまで肩入れするなど」
「マヤ王女はわたくしの子のオリエンスと旧友ボレアスを助けてくれた人間です。
もし彼女が巻き込まれているだけなのなら…」
セレネは静かな声で言った。
『よっこらしょ』と言ってヴェガ神は椅子から立ち上がった。
「成程そうか。お前の気持ちだけを汲むのなら、王女だけであればまだ助ける術はある。
しかしそれは――彼女にはなかなかに難しい事のようじゃが」
「それは一体……」
「至極簡単な事よ」
セレネの問いにヴェガ神は穏やかに微笑んだ。
「神を捨てれば良いのじゃ」
****************
「お疲れ様です。ニキアス=レオス将軍」
名前を呼ばれ、皇帝ガウディへの上申の為に謁見の間へと続く控室で待っていたニキアスは顔を上げた。
待ち合わせの場所にきたのは天文学者アポロニウスでは無かった。
そこに立っていたのは茶色の髪と日焼けした肌の逞しい――いかにも軍人という風情のヤヌス=クセナキス将軍だった。
後ろに緑色のトーガを纏った青年を連れてきているが、その青年はアポロニウスでは無かった。
「お久ぶりです。ゼピウス国侵攻前の円卓会議の時以来だろうか」
「…そうですね。クセナキス将軍、御無沙汰しております」
確かにゼピウス国攻略の為に全将軍が召集された。
そしてその場でガウディ皇帝自らが、ニキアスが新しい『ティグリス軍』の将軍に就任した事を報告したのだった。
元老院会議をすっ飛ばしての皇帝自らの決定に、残りの三将軍からは驚きの声が聞かれた。
しかし先日の馬車の事故で現ティグリス将軍が亡くなった旨と、直ぐに大軍を指揮出来る者が限られていた為そのままニキアスの将軍就任は決定となったのだ。
「昨日は愚息がレオス将軍に失礼な振る舞いをした様で申し訳ない」
「いや、私の方こそアポロニウス君に…」
ニキアスが言いかけるのを遮る形で、クセナキス将軍は声を張り上げた。
(その癖は息子アポロニウスとそっくりだった)
「いやいや、『たかが天文学者など軟弱な立場の癖に、レオス将軍に難癖付けようなどと立場を弁えろ』とがっつりと叱りつけたのでな」
そして傍らに立つ緑のトーガを纏った青年を見て(言い過ぎたか)といった様に肩をすくめた。
(…この父親のせいで軍人嫌いなのかもしれんな)
ニキアスは昨日のアポロニウスの発言を思い出して、薄っすらと考えたのだった。
「ともかく息子には一か月登庁を禁じたので、仕事はこちらのミケウスに引き継いでもらった。今後は彼でよろしく頼みますぞ」
と言って、クセナキス将軍は隣に資料を持ったまま所在なさそうに立つ青年を、ニキアスへと紹介したのだった。
お待たせしました。m(__)m
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