2 勇者の男
男が目を覚ますのには数日かかった。
この大地における一日は、頭上をめぐる炎の星がひと巡りすることによって数えられる。月と呼ばれるものはいくつもあるので、ニンゲンたちはこちらを暦の拠りどころにはしないらしい。一年はこの一日が四百といくつかばかり。
円の上に掛けられた大地はくるりくるりと真空の中を回っており、やや傾きがあるためなのか、一年の間には寒暖差がある。ニンゲンたちはそれを春夏秋冬と名付けて暦を作っているようだが、我らにそのようなものは必要ではない。
そもそもが、北の辺境の大地の地下深く、小さき者らの活動を邪魔せぬようにと洞窟に籠って幾星霜だ。
必要なことはすべて大地が知っており、大地がすべてを教えてくれる。
我の《気》で練り上げた寝床の中で、ある日、勇者はぱっと目を開いた。どうやら長いこと悪い夢を見ていたらしい。その間ずっとうなされ続け、いやな汗を全身から噴き出していたからだ。
しばらくぼんやりと周囲を見回していた目が我の上でぴたりと止まった瞬間、男は急いで起き上がった。……いや、起き上がろうとした。
が、それは無駄なことだった。弱りきった体には、ひび割れ、一部溶けおちた勇者の鎧は重すぎたのだ。
「き、……きさ、ま──」
喉をごろごろ言わせながら、男はやっと呻くように声を発した。かすれすぎ、小さすぎるその声は、我がしんと耳をすましていなければ聞き取れないほどのものだった。
「どういう、つもりだ……。何をたくらんで、いる──」
我の耳と精神には、すんなりと男の声が聞こえた。また理解した。だが我がこのまま声を発したところで、彼の耳にも心にも届くはずがないことは自明だった。
それゆえ我は一案をひねり出した。
男が眠っている間に、とある仲介者を頼んであったのだ。
《帝王さま。通訳を始めてもよろしゅうございますか》
ひらひらと我が耳元を飛びまわる者。
全身を若葉色の肌に包み、漆黒の長い髪と真っ赤な瞳をもつその生きものを、彼らは恐らく「ゴブリン」と呼んでいる。この大地から生まれる生きものの源は、みな大地と水と空気に依るため、種類を分けて呼ぶことにさほどの意味があるとは思わぬが、ともかくも彼らはなにかと分類をしたがるわけだ。
ゴブリンは姿をニンゲンのメスの形に似せている。鱗の浮き出た肌と長い尾、そして鋭い爪のついた翼は別だが。
大きさもちょうどニンゲンと同じほどであるため、我が耳と同じほどの大きさだ。
「よろしく頼む」と返事をすると、我はすぐに己が意思を精神波に乗せて勇者に送った。
《目覚められたか。勇者どの》
「なっ……なに?」
勇者は驚いて目を瞠った。
「いまの……まさか、貴様が?」
《それ以外の誰があろうか。ここな者は仲介者である。語っているのは我を措いて他になし。どうやら聞こえているようで何よりである》
「いや……まさか。貴様らにそんな知能があるはずが──」
掠れた声を発しつつ、男は目を何度も瞬かせ、口をぱくぱくさせている。
眠っている間に埃と血糊を落としてやっておいたため、今は男の姿がはっきりと見えた。
頭髪は明るい日中の炎の星の色。瞳はやはり明るい空の色である。鼻筋が通り、まだ弱々しいながら目には力が宿っている。唇は渇いているが、秘めたる意思を示してぎゅっと引き締められている。
彼らの間では、それを「美しい」と評するのかもしれぬ。
しれぬが、我らには意味のないことだ。
ニンゲンたちの美醜の感覚など、我らには詮のなきこと。ましてやそれは、夏が百度も変わりゆくうちにつぎつぎ変貌してゆくような、いともか弱き価値観である。所変わればまた変わるものでもあり、覚えておくことすら煩わしい。
そもそも彼らは、あまりに美醜にこだわりすぎる。
なんとなれば、彼らが我ら大地の民を厭うのは、なにより我らが彼らの目から見た「醜き者」であることが理由だからだ。
大地と空の覇者たる「ドラゴン」と呼ばれる者のことは、ある種畏怖する風潮もあるのだが。
我ら「オーク」だの「オーガ」だの「ゴブリン」だの「トロル」だのと呼称される者たちは、総じて彼らの忌避する存在になり果てている。
《我に知能の在りや無しやが、そこもとにいかほどの係わりがあるのやら。ともあれ、腹が減っていよう。話はそのあとに致さぬか》
すっと目をやると、ゴブリンがすぐに暗闇に飛び去っていき、またすぐに戻ってきた。手にはニンゲンが食せると思しき木の実やら穀物の載った木の大皿と、水の入った壺を持っている。
それらが目の前に置かれると、勇者はカッと目を見開き、ものも言わずに水と食物にむしゃぶりついた。




