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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百本多々良

作者: 犬塚てとら

ご近所トラブルというのは、いつの時代も往々にして悩みのタネである。

トモコも、そんなよくあるトラブルに巻き込まれていた。

私の住んでいるマンションの上の階に親子連れが引っ越してきたのだ。

このマンションは子供連れには少し狭く、例えば初めは二人で住んでいて、後に子供ができてそのまま暮らしている場合などを除いて親子連れで暮らしている世帯は珍しかった。

一度引っ越しの際に挨拶に来た時に会ったが、親は父親も母親もどこにでもいるようなタイプ。

よく言えば、温和そうな父親に、優しそうな母親だった。

そしてそんな平凡な親から生まれた子供は、やっぱり平凡な4〜5才くらいの男の子だった。

そのくらいの子供が他人に気を使って静かに暮らすのは無理だと思ったし、少し諦めたような考えでその親子の挨拶を聞いていた。

案の定、少しうるさくなるかもしれないのでご迷惑をおかけしますとかなんとかそんなような事を言っていた気がする。

最初はお互い遠慮していたこともあり、特に大きな音もしなかったし、私も時たまするくらいの音にいちいち目くじらをたてるような事はなかったのだが、半年もすると、上の階から結構な音が聞こえるようになってきた。

仕事が終わってヘトヘトになって帰ってきて、身の回りのことをして、やっと一息つけるという時にそれをやられるものだから参ってしまった。

ドタドタ、バタバタ走り回る音、その後に母親の怒鳴る声、子供の泣き喚く声、癇癪を起こし更に走り回る音。これが基本の1セットだ。ひどい時は二回来る事もある。

現代日本社会の隣人に対する無関心さは、私も如何なものかと思うところはあるが、干渉しすぎるのもまた問題だ。

私は、次騒いだら文句を言ってやろうと思っていたのだが、いざうるさくなっても、いちいち文句を言うほどではないか? とか、実は超問題家庭で一度関わったら最後、けちょんけちょんになるまでこっちがやられて出て行かなくてはならないような状況になりはしないかといらぬ心配までしてしまって、結局言い出せずにズルズルと日にちだけが経ってしまった。

そんな鬱々とした日々が続いていたのだが、ここ1週間は上からのドタバタもなく平穏な生活を送れていた。その日の夕方、今日は金曜日だし、たまには早く帰って家で映画でも見ながら缶ビールでも開けるかという気にもなる。

普段は酒など飲まないし、飲めても一杯二杯の下戸だというのに、人間という生き物は不思議なものだなぁと思いながら、名作映画を流しながらビールを呷る。こういう人目を気にしない贅沢ができるのも一人暮らしの特権だ。私は上機嫌になり、珍しく3本目の缶へと手を伸ばした。まさにその時であった。上の階から、


ドン


ドンドン


という地鳴りのような騒音が鳴ったのだ。

酒の勢いもあり、いよいよ堪忍袋の緒が切れた私は、1人の楽しい時間を邪魔された怒りと酔いで顔を真っ赤にしながら上の階の玄関の前に立っていた。

お返しだと言わんばかりに、無作法にガンガンとノックをする。しかし、一向に出てくる気配が無い。もう一度ノックをする。前回よりも荒っぽくだ。イライラしている。

それでも、ドアが開くことは無かった。私の怒りが最高潮に達し、3回目のノックの為に拳が振りかぶられたのだが、その拳がドアを叩くことはなかった。

何事かと様子を見に、隣のドアが、ガチャっと開いたのだ。

中年の女性がこちらを訝しげに睨みつけている。こちらも振り上げた手をどうして良いかわからず、ゆっくりと下ろした。

まずい、これじゃこっちがクレーマーだ。そう思った私は、一旦頭を冷やしこれまでの経緯を話した。しかし中年の女性は怪訝な表情を崩さない。中年女性によると、隣の家は1週間前に旦那と奥さんが大喧嘩して、奥さんは子供を連れて実家に帰ってしまったらしい。

旦那も、バツが悪いのかマンションには帰ってこなかったり、たまに帰るとしても終電間際だそうだ。そんなわけでこの部屋には今誰もいないとということだ。そんなはずはない、現に、さっきこの部屋から騒音がしたからここに来たのだと説明しても、中年女性はそんな音はしていない、あなたが酔っ払っているので何かと聞き間違えたのではないかと言われてしまう始末であった。

私は行き場の無くなったモヤモヤを抱えながら、自分の部屋へと戻った。

流しっぱなしだった映画は、すでにエンドロールも終わりテレビは真っ暗、プルタブだけ開けて手をつけていないビールはもう気が抜けてぬるくなっていた。もうそんな気分でなくなっていた私は、おざなりに片付けをした後で早々とベットに入って寝てしまった。


ドンドンドンドンドンドンドン

ドンドンドンドン


土曜日の早朝、私はまたあの忌々しい音に幸せな休日の午前中を邪魔され起きる事になる。

アルコール分解能力に欠けるせいで少し飲んだだけで二日酔いになる頭が、振動の度に大きな痛みを伴い悲鳴を上げる。これは異常だ。しかもなんだか音が近い。まるでドアの外で走り回っているかのように聞こえる。普段なら低血圧で起きるのに15分以上かかるくせに、この時ばかりは飛び起きて玄関へと向かった。上の階の連中はグルだ。もう構うものか。そっちがそういうことなら、こっちたってとことんやってやろう。と、息巻いて玄関のドアに手をかけ、思い切りドアを開ける。そのまま怒鳴りつけてやる、と私は考えていた。しかし、廊下には誰も、いなかった。このマンションは横に長く、階段は両端にあるので、真ん中あたりの私の部屋からどんなに全速力で走っても見えなくなるなんて事は、今そこで音がしていたのだからありえない。夢でも見たのか?と不思議に思って、ドアを閉めようとした時、ふと下を向いた私の目に入ってきたのは


黒い無数の足跡だった。


いろんな大きさの足跡だ。男、女、子供、革靴、スニーカー、ハイヒール、裸足…大量の足跡が、私の部屋のドアの前に広がっている。

私はそれを見た瞬間、背筋に氷を撫で付けられたかのような感覚を覚えた。悪戯にしても悪趣味すぎる。叫び声も忘れ、すぐにドアを閉めた。酔い覚ましには強すぎる、意味不明な嫌がらせに顔面蒼白になった私は、すぐさま管理会社に連絡を入れて清掃と騒音問題を訴えた。余程切羽詰まった声だったのか、私の訴えを聞いた管理会社は、すぐにスタッフを派遣してくれるらしい。少しばかり落ち着きを取り戻した私は、しかし襲いくる不気味さにやられ、布団を被り、人が来るまで布団の中で縮こまっていた。

少ししてから、部屋のチャイムがピンポンと鳴った。

ベッドから転げ落ちるほど驚いた私は、恐る恐るモニターを覗き込む。

そこにいたのは、紛れもなく、作業着を着た管理会社の人間であった。

私はひどく安堵し、ドアを開けて作業員と対峙した。

チラリと床を見ると、足跡はキレイに無くなっており、私はその対応の早さに驚いた。早すぎるとも思ったが、余りにひどい状況だったので、先に掃除してくれたのだろう。

ありがとうございます、と私が礼を言うと、作業員は、困ったような顔をして、ご連絡をいただいたのはこちらでよろしかったでしょうか?と不思議そうに尋ねてくる。はい、そうですと私が言うと、作業員は今ここに到着したばかりらしいが、どこにも足跡の汚れなどない為部屋まで来たらしい。そんな馬鹿な、と私は思った。頭がまた真っ白になり、なにも考えられずそのまま固まってしまっていた。ピピピ、と作業員の携帯電話が鳴る。5分くらい、話していただろうか。もっと長かったかもしれない。しかし私は、もはや訳が分からなくなって、電話が終わるまで呆然と立ち尽くしていた。

電話を切ると、作業員がバツの悪そうな、なんとも言えない表情で話し始めた。なんでも、上の部屋の住人に連絡をしたが、昨晩からは帰っていないので心当たりはない、ということ、また、昨晩と今朝を含め、他の住人からは一件も騒音のクレームは入っていないそうだ。足跡の汚れという最大の証拠も消えるように無くなってしまった。よくよく見てみると、廊下は一昨日降った雨でぬかるんだ泥の汚れが多少残っていて、本当に掃除もしていない様に見えた。

失礼しますと、言葉では丁寧だが、可哀想なものを見る目付きで作業員は一礼して去っていった。私はそんな態度に怒る感情も湧かず、血の気が引いたまま玄関に座り込んでしまった。あれは夢じゃない。酔っ払いの妄言でもない。

じゃあなんだ。わからない。わからないが、私を虚言癖のある困った住人にさせるための罠なのだ。周りはみなグルで、私が疎ましくなったのでこんなことをするのだ。という結論に至った。

もうこんなところには住んでいられない。私はその日のうちに、引っ越しを決意し、不動産屋を回った。

こういうのは逃げたもの勝ちだ。どんな方法を使ったかはわからないが、嫌がらせもあそこまでやられるとあっぱれだ。だがそれに延々と付き合って精神を病んでしまっては馬鹿らしい。物件の目処も立ち、これからの予定も組んだ。

1週間。1週間我慢すれば、あのマンションとはおさらばだ。さもすれば、我慢する必要すら無い。私が迷惑な住人になったっていい。騒ぐだけ騒いで出ていってやる。私はいままでの鬱憤を晴らすかの様に無遠慮な振る舞いをし、大音量でテレビを見ながら大笑いして、気分良くその日は眠りに落ちた。


一人で部屋にいるときに、たまに誰かに見られている様な感覚になることがある。今日はそんな夢を見た。しかも大勢からの目線を感じる。私の部屋の中に、大勢の人がいる、気持ちの悪い夢だった。悪夢にうなされ目を覚ます。外はまだ暗い。時計を見ると3時を過ぎて半になるあたり。水を飲もうと明かりをつける。その時であった。


ドン


と足音。そして、カーペットについた、1つの 足跡


ドン


と足音。そして、カーペットについた、2つ目の 足跡


ドンドンドンドン


3つ、4つ、5つ、足跡、こっちに、いろんな、足跡が、迫ってくる。


声が出ない。


ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン


もはや数などわからない、無数の足跡。カーペット、壁、天井、私のベッド以外の部屋の至る所に、足跡、足跡、足跡。


「た、助けて…」

私は小さな声で、絞る様に言葉を吐き出した。


『 ウゥウウゥ ウル ルルルルサイイイィ 』


ドン

最初にベッドの上についた足跡


ドン

ぐしゃり、と音がした。手が、踏み潰された。

ドン ぐしゃり

ドン ぐしゃり

腹が、顔が、踏み潰された。その後も、ドンとなる度、ぐしゃり と何かが潰れた。

足だけ残して、もはや、元の形は分からなくなっていた。


足跡の集団に、1つ、裸足の女の足跡が増えた。

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