07「受付はルールを守って」
「お、時間だな。お疲れ」
ギルドの大時計が定時を示すとアタミは躊躇することなく、真っ先に事務所をあとにした。
別にルールを破っているわけではない。冒険者ギルドの職員たちは無意味な残業をしないことで知られているが、あくまでアタミは新人で研修期間中なのである。
フランセットとアンジェルはそそくさと受付を足早に去るアタミのフットワークのよさをポカンとした表情で見つめていた。
「アイツ、大物かただのアホね。あたしとしては脳みそカラッポの確立うんと高いと思うのだけれど、フランセットはどう思う?」
「あ、あはは」
アンジェルの諦観が滲んだ声にフランセットは愛想笑いをするのが精一杯だった。
(はぁー。なんか一日目なのに、一週間くらい働いた気がする)
体力に自信があったフランセットであるが、アタミの行動にはさすがに気を揉むし精神的に摩耗する。
周りの受付嬢である職員たちの一歩引いた態度も気になる。前日のミーティングでは全員で一致団結して育てようと、受付業務係全体がそれなりに燃え上がっていたのだが、アタミの異常な行動によって、もはや彼を構う者は教育係であるフランセットとアンジェルだけになりつつあった。
「あのバカ引っ張ってきたのはどこのトンマよ。ゴキブリ以下ね、きっと」
「アンジェルさん。さすがにそれはいい過ぎです。本人が聞いたら傷つきます」
「ゴキブリが?」
「もう……」
「けど、ここ入る倍率は相当なものよ。アタミの知能じゃ逆立ちしたって受かるはずない。時期的に募集もかけてないはずだし。フランセット、総務課の工数が増えたって話も聞いてないわよね。なんでかしら」
「あ、けどアンジェルさん。わたしはアタミさんからギルドマスターにヘッドハンティングされたって聞きましたけど」
「あのね。そんな与太信じちゃダメよ。あなたはすぐ男の嘘に騙されるんだから。そのうち、つまらない野郎に引っかかって痛い目見るわよ。けど、アタミなら絶対に安全よね」
「それはいい過ぎですよ」
「じゃ、仮定の話だけどアタミからつき合おうっていわれたらどう答える?」
「……」
「ゴメン、あたしが意地悪過ぎた。ホント謝るわ」
「あ、あのっ。別にわたしはアタミさんがどうこうっていうわけじゃなくてですね」
「いいから……」
「優しい目で見ないでください」
独身者であるアタミはギルドが用意した格安の寮に入ることができた。
基本的にギルドの職員は一般的な世帯所得よりもはるかに高収入である。
ギルドが提携しているストラトポンの借家やアパートを職員は格安で借りれるので寮に住む人間は年々減少していた。
だがアタミは無論勤務地である赤レンガの事務所から近い寮へ嬉々として住み込んでいた。
(清潔な寝具、清潔な建物、清潔な制服。それに完全週休二日という夢のようなライフスタイル。基本、夜勤もないし九時十八時の八時間労働。睡眠もたっぷりとれるしいうことないな)
アタミはだらだらベッドで菓子を食いながら早速市立図書館でレンタルした戯作小説を読み耽っていた。
(メシは昼にあれだけ補給したからあと六十時間は食べなくても大丈夫だ。さあ、たっぷり寝てやるぞ。今までの恨みも込めてな)
長年の戦闘における疲れを癒すためにアタミは泥のようにねこけた。
それは勇者を廃業してアタミがはじめて得られた安息であった。
そして月曜が来る。
「アタミさん、アタミさん? もう朝ですよ。時間ですよ?」
「おいコラ、アタミ! アンタ新入りのくせにいきなり大遅刻とはいい根性してるじゃないのーっ」
アタミが住む寮の部屋をふたりの女性が大きな声でノックしていた。フランセットとアンジェルである。
とろとろと長い眠りに落ちたアタミは死んだようにベッドの上で貴重な二日の休みを浪費したのだった。
がちゃこんっ、と開錠する音が鳴ってギルドが誇る受付嬢たちがアタミの部屋に雪崩れ込む。
「って、制服のまま寝ちゃったんですか?」
「ちょ――アンタ、平気なのっ?」
アタミはベッドでうつ伏せになりながら両手をバンザイする形ですうすうと健やかな寝息を立てていた。妙に安らかな寝顔でフランセットは怒らなければいけない立場であるのにちょっとだけ綻ぶ。対照的にアンジェルは目を吊り上げて般若のような顔をしていた。
「こっちは眠たいのをこらえて鬱陶しい客どもを捌いて合間を縫って様子を見に来たってのにさ」
朝の弱いアンジェルは惰眠を貪るアタミの顔が心底気に入らない様子で顔を真っ赤にしていた。
「起きろ起きろ起きろっ」
「んあっ? もう、朝か」
「朝か、じゃなーいっ。とっとと起きる! 着替える! 三十秒で支度しなさいっ」
「ふあっ。わかったよアイ――じゃなかった、アンジェル」
アタミはバッとベッドから飛び降りるとそのままよたよたした動きでトイレに向かう。
フランセットは一瞬だけ首を捻ってアタミのいいかけた人名に思いを馳せたが、それを打ち消すように聞こえて来た排尿の音で頬を赤らめた。
「ば、ばかっ。こっちは乙女がふたりもいるってのに」
二日も貯めたアタミの膀胱は小便ではち切れそうなくらいにパンパンだった。ダムが決壊するかのように一気に放出された。便器を叩く凶暴な音は長く長く、それこそ馬の小便よりも冗長にいつ果てることなく響いた。アンジェルとフランセットはなにもいうことができず真っ赤な顔で下を向いていた。
「――で、この伝票は三枚綴りなので、A票は受付の控えでBとCは二階に常駐する総務課の職制さんにサインを必ず貰うことになっているのです」
「オーケーオーケー。もう、バッチリ」
「ホントかなぁ」
フランセットは空き時間にアタミへと受付業務のいろはを叩き込みながら、少し驚いていた。
――アタミは案外と物覚えは悪くない。
メモなどはやはり一切取らないが口頭で教えたことは一度で完全に記憶している。それどころか、ひとつの型を教えるとそれから類推してほとんどの手法を覚えてしまう。
フランセットは自分がギルドに入社したときのことを思い出し舌を巻いていた。
口の悪いアンジェルなどはアタミがギルドに就職したことを「なにかの間違い」と断言して憚らなかったが、こと事務処理に関してはフランセットからして有能に思えた。
――こうなったらわたしがアタミさんに受付業務をみっちり仕込んでしっかり一人前にしてあげなければいけませんね。
フランセットは市の上級学校を卒業しており、叩き上げの職員が多いギルドでは数少ないインテリである。そして会話をしていてわかったことだが、アタミは一見だらだらしている街のゴロツキ風ではあったが、言葉の端々に学問によって刷り込まれた独特の知性が垣間見られた。
「ふんふんふ~ん」
アタミが報告のために席を外している間、フランセットは今教えている仕事の要領をわかりやすく伝えられるちょっとしたメモ書きを作成していた。とこどころにはフランセットの描いた動物のイラストが入っている。彼女はメモ書きを作成しながら、学生時代に友だちと試験勉強のために独自のノートを作っていたことを思い出していた。
「やけに楽しそうじゃない」
隣で帳簿を整理していたアンジェルがジト目で訊ねてきた。
「え、えっと、別にそんなことはありませんよ」
「なに作ってるの? え? アタミ用の業務教材? そんなものいちいち作らなくても要領書があるでしょ。それ見せとけばいいのに」
「まあ、いいじゃないですか。それにわたしとしてもアタミさんに早くお仕事を覚えていただければ助かりますから」
そんな世間話に興じているとギルドの空気がサッと変わった。今月に入ってからは難易度の高い依頼がなく従って高ランクの冒険者たちは顔を見せていない。フランセットたちが相手にしていた客のほとんどはCやDからなる低ランクの冒険者たちがほとんどだった。五人の男たちが入り口に立っていた。
「ち、シケた場所だぜ」
「まあ、そういうな。こんなちっぽけな島じゃ仕方ない」
「かといって仕事がなきゃ干上がっちまう」
「田舎のニンゲンを絞ってもたかが知れているからな」
いずれも見上げるような巨躯の亜人だった。
豚の頭部に反り返った鋭い牙は唾液でぬらぬらと濡れて光っていた。
分厚い肉の詰まった腹に、人間とは比べ物にならないほど太い腕。
オークである。
豚を祖とする亜人だ。彼らはざわつく冒険者たちをひと睨みすると、受付にいるフランセットたちを見つけてひゅぅと口笛を吹いた。
「なんてこった。こりゃ掃き溜めに鶴だぜ」
「誰だ、こんな田舎にゃロクな女がいないなんていったやつはよ」
「へへへ、お誂え向きに暇そうにしてるじゃねぇか」
フランセットは一瞬だけ身体を固くしたが、すぐさま我を取り戻して笑顔を作った。
それを好意的に捉えたのだろうか、オークたちは列に並ぶ冒険者たちを突き飛ばすと受付まで一直線に向かっていった。
「すみません、お客さま。みなさま並んでいるので横入りはご遠慮いただいております。列に並んでいただけませんか?」
「ああっ? 列だぁ? そうかそうか、横入りは迷惑か。なあ、兄ちゃん。おれたちは遠くから来て疲れてるんだ。特別に先を譲ってもらっても問題ねぇよな?」
「は、はひ。ぼくはじぇんじぇん問題ありましぇん……」
極悪な顔をしたオークに睨まれると、ひ弱そうな魔術師は風を食らってそそくさと退散した。