48「最強無敵の事務職員」
閲兵を終えた真魔王は自軍の威容に満足しながら地底魔王サザンフランネルの合図を今か今かと待ち望んでいた。
「いよいよか」
さすがの真魔王も興奮を隠せない。竜に引かせた特注の巨大な車両に乗り込み、左右には魔族の中でも選りすぐりの美姫を侍らせている。
真魔王は悲願達成を前にして、いささか緊張しているのか、酒精を満たした杯を持つ手もかすかに震わさざるを得なかった。
「あら、お殿さま。お風邪でも召されたんでありんすか?」
「抜かせ。これは武者震いだ」
「ほほ、それは頼もしい限りでありんすね」
「云ったな。ニンゲンどもの国など、我が天下無双の軍団で瞬く間に滅ぼしてやるわ」
「ならば、その暁にはわっちをかわいがってくださるとお約束を」
「ああ、腰が抜けるほどにな」
余裕綽々といった様子で酒精を空けると杯を投げ捨てる。
無理もない。
この日のための雌伏の日々を思い起こせば感慨深くもなるはずである。
――地下で見ていらっしゃるか。先代魔王よ。我が軍税の頼もしさを。
地獄の番犬ケルベロスに引かせた戦車軍三万が先鋒に控え、それに続いて八本足で知られるスレイプニル種の軍馬五万が突撃はまだかと嘶いていた。
さらには真魔王軍の誇る歩兵十万が真魔王の腹心であるレイハンとショーブンの二将に率いられ整然と槍を構え連なっていた。
虎の子の近衛兵二万は真魔王本人を囲むよう前後左右に堅陣を形成し、いついかなるときも不測の事態に対応できる。
「あとは地底魔王の軍勢を待つまでか」
真魔王が勝者の笑みを浮かべて居られたのもそこまでだった。
それは信じがたいほどの爆発からはじまった。
軍勢が待機するダンジョンの最奥に位置する大空洞の遥か彼方が、まるで無数の稲光が落ちたかのように輝くと先鋒の部隊が粉々に弾け飛んだ。
「は――?」
思わず真魔王が痴呆のように口を開けたまま言葉を漏らしても仕方がない。
それほどまでに現実離れした状況が起こったのだ。
地竜を食い散らかすといわれる気の荒さで知られる地獄から来た番犬は、まるで小型犬のように軽々と戦車ごと天に巻き上げられている。
「ひっ」
隣に乗車していた美姫が悲鳴を上げた。
落下物は原型をまったく留めない状況まで破壊されたケルベロスの頭部であった。
そうしているうちにも自慢の戦車部隊は竜巻に巻き込まれた木の葉のように、高い大空洞の天井まで次々と打ち上げられてゆく。
(さては、ニンゲンどもの奇襲部隊か?)
真魔王がそのように疑ったのは無理もない。
暴風に晒されているのは戦車部隊だけではなく、弾き飛ばされるものにスレイプニルの死骸が混じり出したからだ。
最初はニンゲンどもが精鋭を選りすぐって魔術攻撃を行っているのかと思っていたのだが、その考えは外れた。
真魔王が神経を張り巡らせ魔力を感知しようとしても、まったくもってその痕跡がまるで掴めないというのはあり得ない。
動揺しているうちに、次から次へと前衛から軍使が本陣にたどり着く。
それは悲報以外のなにものでもなかった。
「真魔王閣下。先鋒の戦車軍三万、ほぼ壊滅しました。アレクサンドル元帥、シャノー元帥、ジュール元帥、ジャック元帥、お討ち死にでございます!」
「真魔王閣下。同じく、先鋒騎馬隊五万、壊滅です。現在、潰走状態に陥っております。クロード元帥、マチュー元帥、ニコラ元帥、ジョアシャン元帥、お討ち死にです!」
悪夢だ――。
今、伝令が名を上げた元帥はそれぞれが万余の兵に相当する武力の持ち主であり、このようなほんの短時間で首を取られるなどとは考えられない。
「馬鹿な。なにをやっておる! 敵の兵力はどれほどだ! もしやニンゲンどもの軍が密かに総攻撃をかけてきたというのか?」
「いえ、現在、虚報が入り混じっております。正確な情報を掴むまで、いましばらくお待ちくださいませ」
「く! ショーブンとレイハンはなにをやっておるのだ! とっとと手当てをさせろ!」
「ただいま、応戦の早馬をっ」
「申し上げます、真魔王閣下。ショーブンさまレイハンさまの歩騎十万、敵の迎撃に出ましたがあっという間に蹴散らされましたァ! お二方の生死は不明でございます!」
ぞくり、と。
はじめて真魔王の脳裏にひとつの死神の輪郭が見えはじめた。
此度の総攻撃はそれがいないと確認してから天祐を受けたと思い真魔王は行動に出たのだ。
前魔王の城にたったひとりで乗り込み、まったく時間をかけずに魔王を討ち取ったあの怪物の存在。
「ぐ、精鋭を。近衛部隊の精鋭を今すぐ本陣に集めろ! 魔人十六将はなにをやっているのだーっ!」
悲痛な叫びが轟いた瞬間、目の前が光で焼き尽くされた。
「ガアアッ」
真魔王は巌のような巨体を震わせて激しく叫んだ。その拍子に車両からすべり落ち、今しがたまで隣に侍っていたナーガ族の美姫を自重でぺしゃんこに潰してしまったが、そのようなことを斟酌している余裕はなかった。
ガチガチと牙が打ち合わされて鳴る。
(おれは、恐怖を感じているのか――?)
「おまえか。真魔王ってのは」
その男はまるでその場に最初からいたかのように立っていた。
「アタミさま」
「おまえはどいてろ。悪いけど範囲攻撃までは守れない」
「ご武運を」
アタミと呼ばれた男はエルフの女を遠ざけると、刃こぼれだらけになった長剣で肩をトントン叩きながら真魔王をジッと見上げた。
特別に気を発しているわけでもなければ、なんら挑発行動を取っているわけでもない。
であるのに真魔王はアタミという男を本能的な直感で我が大業における一番の障害であると見抜いた。
「キサマはアタミというのか。差し詰めニンゲンどもの奥の手といったところか。我が精鋭をここまで完膚なきまでに打ち倒すとは天晴だ。だが、我が真の力を――」
「あのさ、前置きはどうでもいいんだよ。とっとと済ませよう」
その言葉を聞いた瞬間、真魔王は先ほどまで感じていた本能的恐怖を塗り潰す極大の怒りに駆られて戦闘を開始した。
真魔王は太い柱のような、固く、重く、強力な触手を無数に持っている。
この武器はシンプルであるがそれだけに攻略を見出すことができないフェイバリットであった。
「ああああっ」
叫んだ。
恥も外聞もなく叫んだ。
この戦いに誇りは要らない。
目の前の男はそれほどに強く、絶対的なものと真魔王の目には映った。
大地が裂け、天が割れるほどの咆哮を放ちながら触手の鞭をしならせて連打する。
竜種ですら一撃で昏倒させる破壊力だ。
息継ぎする暇はない。
勢いを止めてはダメだ。
最初から最後まで全力で行かないとやられる。
やられるわけにはいかない。
心臓が熱く脈打っている。
触手の嵐は的確かつストレートにアタミを打っている。
手ごたえはある。
固い、この星そのものを打っているような錯覚に脳髄が満ちてゆく。
勝つ。
勝つんだ。
勝利のために雌伏して来た。
そのために軍勢を鍛え、策を練り、幾夜も眠れぬ夜を過ごした。
「うっだらあああっ!」
吠えた。
トドメのつもりだった。
城をも一撃で消し去る真魔王の奥の手にして最高の技を――。
「真魔撃滅砲!」
自ら名付け秘していた究極技を放った。
開け放たれた口腔から貯めに貯めた全魔力を――。
魂から振り絞って目の前の男に解き放った。
極大のエネルギー波がアタミを捉えた。
ああ、これでは残っていた残存兵もどの程度生き延びられるかと思ったが、たとえこの場で全軍が消滅してもアタミさえ倒せれば帳尻は合う。
視界を覆っていた粉塵が徐々に晴れてゆく。
真魔王がコトリともしない静寂の空間に微笑みかけたとき――。
「クソ。また制服が……」
その男は立っていた。
真魔王がせめてはこの先の戦闘に繋がる傷をと、その思いを無情に打ち破る体で微塵の負傷も見せずにアタミは佇立していた。
「またダメになった。被服課に申請しなきゃなんねーじゃんか」
「キサマは、やはりニンゲンどもの最終兵器ではないか。我が渾身の拳の連打も魔力エネルギー波も……傷ひとつないとは……キサマは何者なんだ?」
「ん? 俺か。俺はだな――」
アタミが長剣を下ろして首を捻る。
これが最後のチャンスだ。
さあ、今こそ奇襲を。
そう思うのだが真魔王の身体はピクリとも動かない。
命が――。
魂が――。
抵抗を拒否している。
「通りすがりの事務職員だ」
男が跳躍して剣を振りかぶる。
なんてことのない斬撃だ。
だが、剣の切っ先に込められたスピードもパワーも。
真魔王程度の実力では知覚することもできない、隔絶した世界の理そのものであった。
額にするすると動く刃の輝きが近づく。
その瞬間、野望も、世界も、宇宙も、ありとあらゆるものが――。
遠くに消え去った。
「終わったな」
アタミが握っていた剣の柄が長年風雨に晒されていたかのようにボロボロと砂となって砕け散った。
ヴェロニカはその場にすとんと両膝を突くと、なんでもないかのように崩れ去る真魔王という存在を眺めるアタミに神意を感じていた。
ああ、この者こそ、神がその御心を具現化した結晶なのだ。
思えば、移動魔法陣を共にくぐってからのアタミの活躍は到底言葉で表すことのできない神の意志そのものであった。
猛然と襲いかかるケルベロスを――。
地響きを踏み鳴らしながら突進して来るスレイプニルを――。
奔馬の手綱を握って突撃して来る魔物の軍団を――。
まるで紙人形を千切っては投げるようにして、残らず吹き飛ばしてゆくアタミの強さは神話そのものであった。
ヴェロニカは言葉で言い表せない感動に打ち震えていた。
強さは貴い。
ただ強いということがこれほどまでに荘厳であることを知らなかった。
仕えたい。
ただひたすら自分そのものを供物としてアタミに捧げたい。
肉も魂も、それこそ運命さえも誰かに捧げたいと感じたのは生まれてはじめてだった。
強いということ。
強さの前には言葉は無力だ。
「オイ、なんだよ。どっか怪我でもしたのか?」
ヴェロニカはこの稀代の英傑と目が合った瞬間、激しい恍惚感を覚えながら口元からよだれを垂れ流し、はしたなくも絶頂した。
連合王国の記録によると、某月某日、真魔王の死により真魔王軍全面撤退する、と記録にある。その記録の中にもアタミの名はどこにも存在しない。




