32「事務職員の優雅な帰宅」
「デッカイ書店も案内してもらったし。さ、帰って小説の続きでも読もうかな」
紙袋に戯作小説を満載したままアタミは鼻歌混じりに帰路を急ぐが、途中で飲み屋街に通りかかったとき、どこかで聞いたような女の声にふと足を止めた。
「だから困ります。本当にやめてください」
「そんなこというなよ、姉ちゃん。どこの店だよ、あ?」
僧衣を着込んだまだ幼げな少女が酔漢に絡まれていた。
フランセットのときと違って相手はひとりだが、やけに恰幅がよく少女は杖を引っ張られて往生していた。
(ありゃ、ゴブリンのときの僧侶のお姉ちゃんか)
絡まれていたのは冒険者のクリスティーンであった。
少女はほとんど泣きそうな表情で拒否しているが、周囲の人間は誰も助けようとはせず、むしろよい見世物だといわんばかりに口笛を吹いている者さえいた。
「金はあるんだってよ。な、夜はこれからじゃねぇか。おれはお堅い尼さんの恰好でイジメられんのスゲー燃える性質なんでよ。げへへ、そのカワイイ指で楽しませてくれたら、金はいっくらでも弾むからよう」
「わたしは、本当に、モジャコの僧侶なんですよ。こんなことをしていると、あなた、神の天罰が必ずくだりますからねっ」
「ふぅーう。そそる、そそるねぇ。じゃ、じゃあ店は教えてくれなくていいからさ。一杯飲むべえよ。そんでもって、そのあとは、その、ひ、ひひひ、個人的に、よ?」
(オヤジ。こんな宵の口にもならんうちからドンだけ飲んでるんだよ。ったく)
見捨てるのもあまりに情がない。
それに今日という休日の締めくくりを善行で終えるのも悪くない――。
と、アタミは柄にもなくそんなことを考えるほど気分がよかった。
「オッサン、そのくらいにしとけよ。嫌がってるだろ」
「ああん? テメーは誰だ! 邪魔すんじゃねぇや!」
「あなたは、職員のお方……!」
「おう、そういうおまえは……まあ、名前はともかくとして。このオッチャンは俺がプロの事務職員として説得するから安心していいぞ」
「なぁーにが説得だ。放せってんだ!」
「きゃあ! アタミさん!」
「気にするな。ビンタの一発や二発。人はそのくらいでは壊れはしない。そもそもだな。このくらいのことで頭に来るほど俺は短気じゃないからな」
「ああん? 調子コキやがって、この若造が。お、その袋の中身はなんだ?」
「ああ、これか。オッサン、酔ってるくせに中々目敏いな。これは市内の書店で購入した俺イチオシの戯作小説でな――」
男はアタミから本を取り上げるとペラペラめくり、顔を歪めて悪罵を吐いた。
「カッ。ガキの絵本じゃねぇか! くっだらねぇ。艶本じゃねぇーのかよ、ぺっ」
「なにすんだコノ野郎」
アタミの拳が男の顔面を捉えた。
男の身体は凄まじい衝撃波ではるか彼方のにまで吹っ飛んで屋台へモロにぶつかると骨組みを粉々にして動かなくなった。というか本人も粉々になった。
「あ、やべ……」
屋台は完全に倒壊し物売りが尻を地面に落として恐怖に震えていた。酔漢はアタミの拳を正面から食らったのだ。どう見ても生きている可能性は低かった。
「あ、逃げたぞ」
野次馬が騒ぎ出す前にアタミはクリスティーンを横抱きにすると、ゴブリンから助け出したときのように、あっという間にその場から姿を消した。
「あの、あの、下ろしてください。もう、大丈夫ですから」
「お、そうか」
アタミはクリスティーンを下ろすと背後を振り返った。
――今日はつくづく女を助ける日だな。
「アタミさんですよね。以前、わたしをゴブリンの群れから助けてくださった」
「そういや、そんなこともあったな。じゃ、夜も遅いからこのへんで」
「ちょっと待ってください! お話があるのですがっ」
サクッと帰ろうとしたところアタミはズボンの裾を掴まれ転びそうになる。
「なにすんだよ。俺はおまえを助けたんだぞ。解放してくれ」
「その、まだ先日のお礼も済んでいないというのに、また今日も助けられてしまって。このままお帰しするなんてっ……!」
「わかった。わーかったから、落ち着け。そもそもおまえはあんなところでなにをしていたんだ」
「は? いえ、その、わたしこの街で寝泊まりしている修道院のシスターにお使いを頼まれまして。けれど、この土地はまだ来たばかりで不案内なものですから。知らず知らずのうちにあのような穢れた地区に入り込んでしまいまして」
「端的にいうと飲み屋街に迷い込んでしまったというわけか」
「はい……」
「わかった。とりあえずおまえをその修道院に送ってやるが、その前にひとつ聞かせて欲しい」
「なんでしょうか?」
「その修道院、実は悪辣な地回りや権力者から地上げにあっているとか、そういう裏設定はないんだよな?」
「なんですか、それは」
「俺はこれ以上物語を展開させたくないんだよ……」
アタミの言葉には切実なものが籠っていた。
クリスティーンが厄介になっている修道院はありふれた小さなものであったが、歴史は古く地域住民との関係も良好でアタミが危惧していた災厄の種は見つからなかった。
「あらあらまあまあ、これはウチのクリスがお世話になりまして。さ、アタミさん。尼の作る田舎料理ですがよければ食べていってくださいな」
「もうっ、シスターったら」
修道院を預かる老齢のシスターにそういわれてアタミは夕食を馳走になった。修道院は親を亡くした多数の孤児がいる以外には、これといって変わったことはなくアタミに難題が降りかかることもなかった。
「それじゃあアタミさん。クリスをよろしくお願いしますね。この子ってば冒険者ギルドには優しくて強くて頼り甲斐のある職員さんがおられるって、もうくどいくらいにいっつも話しているんですよ」
「もうっ、シスター。わたしも本気で怒りますからねっ」
「……あの、そろそろマジで帰っていい?」
トボトボと寮に向かって帰路につく。
「そういや最後の会話だけは戯作小説みたいだったな」
風呂に入って身体の垢を落としベッドに横たわる。
買って来た戯作小説を読む時間はついになかった。
天井には直径三センチほどの穴が開いている。
アタミはあえて穴のことを考えるのはやめた。
(明日はちょっと早起きして朝食を自分で作ってみようか)
アタミの有休を使った休暇はこのようにして幕を閉じた。
「え、アレっておまえの仕業じゃないの?」
「私はアタミさまの申しつけ通り昨日は自己鍛錬として依頼をこなしていましたが」
余談として、アタミの天井に穴を開けたのはヴェロニカではなかったらしい。
奇妙な謎だけが深まってアタミはちょっと気持ち悪かった。




