26「ゴブリンキング」
「ん、んごごごがっ」
鼻提灯がパンと割れると同時にアタミは浅い午睡から覚醒した。視線の先にはヴェロニカの顔が自分を見下ろしている。
(状況が掴めない)
「おはようございます」
「んのわっ。あ、あれっ。俺、どうしてたんだっ。もしかして寝ちまってたのか」
「はい、大変ぐっすりと休まれていました」
「不覚……」
立ち上がって袖口で目をこする。知らず、アタミは警戒を解いてヴェロニカの膝の上で寝入っていたようだった。
(ヤバい。いくらなんでも気ィ抜き過ぎだ。襲われてたら……まあ、平気だろーが)
「おい、てか、ビギナー軍団のおこちゃまたちはどうした?」
「彼らなら、すぐ近くの洞窟を探索に出かけたようです。なんでもゴブリンの痕跡を見つけたとか」
「ん?」
アタミは無言のままダラダラと脂汗を流しはじめた。木陰からトラヴィスたちが薬草を摘んでいた場所まで二〇〇メートルは離れている。アタミはエルフが人間などに比べてはるかに聴覚が優れていることに気づき、納得しながら眠り込んだ自分を呪った。
「オイオイ、なんで止めねーの。監視役だろ、俺らは」
「お言葉を返すようですが、私は便宜上アタミさまの警護役。あの少年たちが自己の判断で依頼を撤回しほかの行動に移ろうと、私にはそれを制止する権利などありません。冒険者はギルドから依頼を受けますが、放棄するのも自己判断です」
「で、あの中でゴブリンたちにぶっ殺されようが、すべて自己責任てか」
「どちらへゆかれます?」
「決まってるだろ。坊ちゃん嬢ちゃんたちをとっ捕まえて来る」
「アタミさまは勇者の使命を果たしたので、市井に下りて事務職員に転職なさったとおっしゃりましたよね」
「なんだよ」
「あなたはもう誰彼を問わず救う勇者ではなく、ただのギルドに務めるいち職員なのですよ。ならば、受け止めるのは成功か失敗かのどちらかの結果です。職員が初心者ばかりだとはいえ、心配だとそこに首を突っ込むのはフェアではない。行き過ぎた越権行為といえましょう」
確かに、ヴェロニカの言葉のほうが倫理的には正しい。アンジェルがアタミを初心者パーティーに同行させたのは研修の一環である。
そもそも事務職員であるアタミに戦闘の技術は求められていない。そのため、護衛にS級冒険者であるヴェロニカがつけられたのだ。これは危機にあっては自己を守ることを第一にせよというギルドの規則でもあった。
「でも、ちょっと様子見るだけならいいだろ」
「そうですね、行きましょう」
アタミには逆らわないヴェロニカだった。
とことこ歩いて洞窟の近くに行くと投棄された移植ごてと鎌が落ちていた。アタミが膝を突いて仔細に見聞するとバラバラに千切った草の根っこが落ちている。
あたりを見回すと木の籠があった。
中には申し訳程度に摘んだ薬草らしきものが入っていた。
「ぬう。めんどくさがりな若者たちめ。俺だってもうちょっとくらい根気あるぞ」
「この程度のことを放り出すのであれば、なにかを成し遂げるなど不可能でしょう」
アタミの意見に同意したヴェロニカがぴくりとエルフ特有の長耳を動かした。
自然とアタミは洞窟の闇に目を凝らした。
荒い息遣い――。
ボーっと突っ立っているアタミの胸に血塗れになったニーナが飛び込んで来た。
「うっわ、どうした」
「ゴ――ゴブリンが!」
「アタミさま、前を失礼いたします」
間を置かず数十のゴブリンが手斧や短剣を手にドッと湧き出して来た。
だが、ヴェロニカは腰の長剣を静かに引き抜き水平に振ると、討ちかかって来た小鬼に群れは声も上げずに首を刎ねられ前のめりに倒れてゆく。
「怪我は、ないのか。そうか、この血はゴブリンのものだな」
ニーナはアタミにしがみついたままブルブルと小刻みに震えている。察するに、ニーナは自分の体臭を消すため倒したゴブリンの血を自分の衣服にたっぷりと塗し、命からがら脱出に成功した、というところか。
周りに仲間の姿がないことから、初心者たちのはじめての冒険は無残に失敗に終わったことは誰の目にも明白だった。
「アタミさま。別段、珍しいことではありません。幾つかの初心者たちが失敗し、やがてはゴブリンを討伐できたものが冒険者として生きてゆくことができる。ここは、そういう世界なのです」
「囲まれてるぜ」
「ですね」
ニーナの肩を抱いたままアタミがぽつりと零すと、ヴェロニカがありふれた天気の話をするかのように相槌を打った。
「え……?」
ようやく安全圏に逃れられたと思っていたニーナはぽかっと口を開けたまま周囲を見回し、そして戦慄した。
洞窟は森の中にあり、あたりは隆起した土でほどほどに囲まれている。つまりアタミたちは落ち窪んだ不利な地形の中に孤立しているということができる。
「きゃ」
それは狩人が獲物を囲い込むときに使うような威嚇の鳴り物だった。
周囲には数え切れないほどのゴブリンが武器や防具で身を固めギラギラした瞳を輝かせている。
アタミが視線を上げると盛り上がった丘の向こう側で、幾匹ものホブゴブリンに輿を担がせた異相かつ巨体を持ったゴブリンが姿を現した。
「あれは、ゴブリンキング――」
ヴェロニカがわずかに眉を顰めた。
「なんだ、それ?」
「このあたり一帯のゴブリンを纏める頭目にして、最強最悪のモンスター。冒険者ギルドにおいても高難易度な討伐対象として認定されております」
「そうなんだ」
ゴブリンキングは輿の上で左手にじゃらりと鎖を持ったまま、空いたほうの手で巨大な樽の中身を呷っていた。
離れた位置からでもゴブリンキングが飲み干す酒精の強烈な臭気が漂って来る。左手の鎖の先には、手のひらに穴を穿たれ繋がれた囚人が呻きながらどうにか立っていた。
「どうしたヴェロニカ。こえぇえ顔して」
「ゴブリンキングが連れている囚人。先月ギルドから討伐の依頼を受けて行方がわからなくなったA級冒険者のグループです」
「マジでか」
アタミが視線を転じると小高い丘の上に移動したゴブリンキングの周囲を家畜のように繋がれた男女が引き回されていた。
虜囚になった際によほどの拷問を受けたのだろう。
性別を問わず身体のあちこちに激しい傷跡が残っている。男は禿頭に髪を剃り上げられ、女性は腹部に焼き印を捺されていた。
「たぶんアタミさまの認識は違っております。A級冒険者ともなれば、ここにいる数百程度のゴブリンなど単騎で壊滅できる実力を誰しもが備えております」
「て、ことはあのゴブリンキングが物凄く強いのか」
「それもありますが。ゴブリンの強みは数です」
「数?」
「ご存じの通りゴブリンは島のどこにでもいるありふれたモンスター。一匹二匹なら農夫にも追い払われる脆弱なものですが、ひとたび彼らをまとめる王が出現すると数は集団から軍に編成され、小さな街なら立ちどころに滅ぼされてしまう。これを我ら冒険者はゴブリン津波と呼んでおります」
「なんか、はた迷惑な津波だな……」
「そこにいるニンゲンよ。隣の若いエルフ女を我に捧げよ。さすれば命だけは助けて奴隷として扱ってやろう」
びりびりと森中に響く大声でゴブリンキングが語りかけてきた。
「なんだ。モジャコ共通語が喋れるのか?」
「ゴブリンの王は人語を操り奸智に長けたているといわれております。見かけの野卑な姿に惑わされてはおりません。キングは愚かでも間抜けでもないもっとも狡猾にして隙の無い戦略家です」
(マジか。ゴブリンてそんなに凶悪なモンスターだったんだ)
アタミが勇者として活動していたころ、主に戦っていた相手は上級魔族やドラゴンなどのいうなればパワーに特化した誰もが思い描く凶悪な存在でゴブリンのようないわば珍しくもないモンスターとの交戦経験は極めて乏しかった。
「さっさと決断せよ。でなければ、不遜にも我を倒そうとやって来た街の冒険者のように鎖に繋がれ生き地獄を味わうことになるぞ……」
「ゴブリンキングよ。私はS級冒険者のヴェロニカだ。貴様は魔物の癖にニンゲンの情報にも精通していると聞く。喧嘩は相手を見て売るものだ。たかが、数百のゴブリンで私たちと勝負になると思っているのか?」
「エルフのヴェロニカよ。我は阿呆ではない。確かにここにいる軍勢程度ではおまえが仮に本当のS級であったならば抗しようもないだろうが。もし我が万余の兵を手にしているとすれば、どうかな?」
「……ここ数か月各地でゴブリンの被害が少なかったのはおまえの策略なのか?」
「ククク、愚かなニンゲンとそれに与するエルフよ。我は都市を落とすために、迷宮に潜りこの日のため密かに数万の軍勢を集めた。今、おまえたちが立っている地は我らが決起の日。ストラトポンを落としてニンゲンの女を手に入れ、我らの軍事力は倍増する。そして我はこの地を収め本物の王に取って代わるのだ」
「誇大妄想だ。少なくとも私がそのようなことはさせない」
ヴェロニカが長剣を構えて前に出るとゴブリンキングは手にした樽を投げ捨てた。
それが合図だったのか――。
木々の陰から巨躯が現れ、ずうん、と音を立て醜悪で異相のゴブリンが姿を現した。
「我が名代にして懐刀。我が騎士の雄大さにひれ伏せ」
「ゴブリンナイト。それがおまえの答えか」
ヴェロニカの言葉にゴブリンキングはニッと野太い笑みを露にした。
ゴブリンナイトは角の生えた甲冑と分厚いプレートメイルを装着し、人間なら両手持ちがやっとの二メートル越えのグレートソードを片手で楽々と握っていた。
「我も兵力を無駄に減らしたくはない。そしておまえのように強く美しいエルフの女はそうそういるものではない。そこで賭けをしようではないか。我がもっとも信頼する騎士を退けることができたなら、おまえは我が妻になることを受け入れろ」
「馬鹿な……!」
「強がるな。冒険者ギルドもじき我の手に落ちる。ヴェロニカよ。おまえは我が王国のために貴い精をその子宮に受け、すべてを受け継ぐ王子を生むのだ。ククク、我のモノはエルフやニンゲンなどと違って太く丈夫だ。後悔はさせぬぞ」
ゴブリンキングは血走った目で、ヴェロニカの身体へと装備の上から獲物を舌なめずりする野獣のように視線を這わせた。




