11「習うより慣れろ」
眠っているといっても、それはあくまで仮眠である。アタミは鳥やイルカのように左右の大脳を片方ずつ休ませる半球睡眠を行うことができた。
しばらく枕元でフランセットの気配を感じていたが、完全に夜半を過ぎたところで彼女が部屋を出て行ったことは確認できた。
甘いような若い女独特の体臭が遠ざかり、はじめてアタミはリラックスすることができた。
いくら美人で害がないといっても、昨日今日知り合った人間を警戒しないで生きるのにアタミの三年間は過酷過ぎた。
自室には鍵をかけていなかったが、イチイチ起き上がるのも億劫なので土日の休みのときのように完全に休眠モードに至らず、脳を片方ずつ起動させながら睡眠を続ける。
(ん。この香ばしい匂いはスープとコーヒーか)
ギルドの格安で住める寮にはそれぞれの自室に簡易的であるがキッチンがついている。
単身者はここでスライム燃料や鉱石材を使って調理をしたり湯を沸かす。
「あの、アタミさん。朝ですよ。起きれますか?」
機嫌を窺うような自信のない声だ。
「きゃっ、あ、起きてらっしゃったんですね」
跳ねるようにベッドから身を起こすと、そこにはエプロンをつけたフランセットがおたまを持って目をぱちくりしていた。
「あの、朝食用意したので、お加減がよろしければ」
「フランセット、ひとついいたかったんだけどさぁ」
「な、なんでしょう?」
昨日のことを詰られるとでも思ったのか、フランセットはおたまを持ったまま身を固くした。
アタミはぴょこんと跳ねた髪をガシガシやりながらいった。
「おまえは俺の先輩なんだぜ。敬語はなしにしてくれよ。それとメシはいっしょに食べようぜ。そのほうがきっと美味い」
「は――はいっ」
フランセットの作った朝食は大変に美味であった。量は以前アタミが食堂で食った量を想定して牛馬に食わせるほどあったが、なんなく平らげた。
「あら、もう調子は大丈夫なの。無理しないで今日くらい休んでればいいのに」
てっきりフランセットと出勤してきたことをからかわれると思っていたのだが、むしろアンジェルは気遣うような素振りを見せたのでアタミは戸惑った。
「わからないところがあったらドンドン聞いてね」
「これ実家で積んだお茶よ。身体にいいらしいの」
「お菓子あげる。お客さまのいないときに食べてね」
それどころか今まで距離を置いていた受付嬢たちもアタミの下にやって来てやいのやいのと世話を焼いてきた。
(おいおい、どうしたんだ。俺はなにかしたっけっか?)
「ま、誰しもひとつくらいはいいところがあるものね。アタミ、昨日のアンタはたいしたもんだったわ。仕事の覚えがちょっとくらい悪くても女のために身体を張れる男は大事にしなさいっておばあちゃんもいってたし。ほら」
アンジェルはそれだけいうと照れ臭そうに飴の入った袋を手渡してきた。アタミはボーっとした顔で袋を受け取ると包み紙を解いて躊躇なく口の中に放り込む。
「ん、サンキュ」
ガリゴリと飴を噛み砕く。甘い糖が口中に行きわたりアタミは多幸感に包まれた。
「もっと味わって食べなさいよ」
「りょーかい」
ひとしきりアタミを囲む会が落ち着くとフランセットが寄って来た。
「新しい制服サイズはどうですか?」
「ピッタリだ。服も新しくなってイイ感じ。もっとも前のもほとんど着てなかったけど」
フランセットが微笑を浮かべると入り口の扉を押し開けて一組の男女が姿を見せた。
「ああ、愛しのフランセットさんっ。あなたのフェリックスが戻りましたよ!」
大剣を背に担いだオールバックの男が軽装の女を従えカウンターの上に乗りそうな勢いで叫ぶ。
厄介者と判断したアタミはなにかをいいかけたフランセットを制して前に出た。
「なんだおまえは。とりあえず利用客なら静かにしろ。ほかの人に迷惑だ」
「おまえか」
オールバックの男は敵意を露にしてアタミを睨みつけた。
「風の噂で聞いたがちょっとばかりオークを説得したからって調子に乗るんじゃねぇぞ」
「なんだ、おまえは? どっかで会ったか」
「ハンッ。このオレのことがわからないとは所詮もぐりだな! この冒険者ギルドで『疾風』のフェリックスと聞けば知らぬ者がいない豪傑よ!」
「なあ、その『疾風』てのはなんだ?」
「著名な冒険者の方には大抵二つ名があるんですよ。アタミさんはA級の方に直接会ったことはまだなかったですよね」
「すみません、フランセットさん。オレが数日依頼でギルドを留守にしたせいで、大陸渡りのオークに酷い目に……! これからは、ずっとオレが側にいてまもっ――」
「ずっとギルドにいたら食っていけないでしょーが」
「ほぐっ」
軽装の女がフェリックスの無防備な頭をすぱーんと叩いた。
「いっでーな。なにしやがんだよ、ボニー」
「痛いじゃないでしょ。さっさと依頼の報告済ませて。あたしはまだ朝食も食べてないのよ。それに、いっくらフランセットさんにつき纏っても無駄だっての」
ボニーと呼ばれたそばかすの女冒険者は宿の鍵を指先でくるくる回しながら面倒臭そうにいった。
「ば、馬鹿なこというなっ。至誠天に通ずというだろう。フランセットさんもオレの地道なアタックでそろそろお食事くらい、ねえ?」
(うわぁ。こりゃモテない男の典型だわ)
総合的に見れば革鎧をビシッと着こなし男前の部類に入るフェリックスであったが、フランセットに笑いかける表情は客観的に見て魅力的なものではなかった。
妙に媚びていてニチャッと粘液質なのだ。
「あの、アタミさんがいますから。ご心配なさらなくともわたしは大丈夫ですよ」
「くうっ。バサッとやられたっ」
フェリックスは胸を押さえるとその場にばったりと倒れながら、ボニーに引きずられてギルドを退場した。
「あいつなにしに来たんだ?」
「たぶん、心配して様子を見に来て下さったのかと」
苦笑しながらフランセットはわずかに肩をすくめて小さくなった。アタミは彼女の心拍数が早まったことから、昨日のオークのことを思い返し怖がっているのだと判断した。
「とりあえず今日からは警備も随分と増えているしそれほど心配することはないぞ」
アタミにいわれて気づいたのかフランセットはロビーのあちこちで目立たぬように警戒している職員の数に気づき目を見開いた。
「ダメですね。わたしってあれくらいのことで怯えちゃって……」
「ま、俺もなるべく受付を離れないようにするから心配するな」
「は、はいっ」
朝だということなので、ひっきりなしに客は来る。アタミはフランセットの昨日のショックが影響しないか少し心配であったのが彼女はさすがにプロだった。仕事に没頭したのが功を奏したのかメンタルの顕著な揺れは見えなかった。
アタミ自体はひとりで受付業務がこなせないので自然とフランセットの手伝いをすることになる。
朝のラッシュが終わって一服したあとアタミは目が合ったフランセットに訊ねた。
「そういえばさっき会ったナントカって冒険者A級だとかいってたな。結構レアなのか?」
「ええ、A級冒険者の方は少ないですね。事実上、ギルドで活躍するトップランカーにあたりますから」
「上にはS級ってのがいるんだろ」
「S級の方は、ほとんど生きた伝説に近いですし、その、わたしがいうのもなんですが、変わった人が多いですから」
「変わり者の寄せ集めか。そりゃ難儀だな」
「ちなみに、ほかのランクの方たちはこんな感じです」
そういうとフランセットはアタミに冒険者の階級情報をまとめたメモを見せた。
S級 オリハルコン 15名
A級 プラチナ 120名
B級 ゴールド 200名
C級 シルバー 350名
D級 アイアン 750名
E級 ブロンズ 1200名
「ちなみにそれぞれの数は暫定的なものです」
「なんでなの?」
「その、仕事柄、常に変動が予想されますので」
「バックレとかくたばっちまうとかか。冒険者もいろいろ大変なんだな」
「アタミさんはちょっとストレート過ぎです」
受付の仕事は多岐に渡る。冒険者に対する依頼の斡旋に始まり、各種商品の売買、新規入会者の登録やギルド幹部に対する面会受付など覚えることは多い。
冒険の過程で手に入るマテリアルの買取は基本的に事務所の二階にある専門の委託業者が執り行っているが、簡単なものであれば受付カウンターでも行うのでそれなりの目利きが必要とされる。
「これが品目リストです。アタミさんは徐々に覚えていってくださいね」
フランセットに手渡されたファイルはずっしりと重かった。
「おまけにスッゲー分厚いし。これってどのくらいあるの?」
「確か、二千そこそこのはずですね」
「げ、そんなに覚えられるかな」
「……実はわたしも全部は覚えていないのですよ。こんなこというとアンジェルさんに怒られちゃうかもしれませんけど」
周囲を気にするような口ぶりでいってフランセットはちろりと舌を出した。
(ああ、なんだ。びっくりしたな。こんなん覚えられねーし)
そのようにアタミとフランセットが熱心に話し込んでいると、入り口からワッという人々の歓声が上がった。