01「最強無敵の勇者」
その日、連合王国の首都は魔王残党軍の激烈な攻撃によって危機に晒されていた。
連合王国が誇る十万の兵は半ばが打ち崩され、このままでは全滅も免れない。
虎の子と称された白薔薇騎士団も戦線を支えるのがやっとである。
魔王残党軍を率いる魔族幹部は猛烈な勢い王都に迫る。
連合王国には刻一刻と破滅の刻が迫っていた。
「アハハ、マジかよ」
ここにひとりの男がいた。
王城の左方にそびえる蔦の絡まった古ぼけた塔。
連合王国が誇る白薔薇騎士団の幹部が居住する塔の一角。
そこには緊張感に欠けた表情でベッドに寝転びながら戯作小説に読み耽る者がいた。
その男の名は――。
アタミ
と、いった。
彼の名を初めて聞いたこの世界の人間は首を傾げるだろう。
この世界で一般的とはいえない珍奇な名を持つ男の経歴――。
それらはすべてが謎に包まれていた。
二十代半ばから後半だと思われる年齢のアタミに際立った特徴はない。黒髪黒目で中肉中背。鍛えているのでそこそこに筋肉はついているのだが、目を引くほどではない。
寝転びながら戯作小説を繰る彼の指は酷く醜かった。
背丈が一七〇程度の男にしては異様に拳が大きいいのだ。さらに、その指も傷だらけで太かった。ページを繰る爪は著しく変形している。幾度も剥がれたせいであろう。再び生え変わった爪は固く、まるで獣のように鋭角的であった。
くつろいだままアタミが小説の挿絵に視線を落としていると、部屋の扉が狂ったような勢いで乱打された。
「アタミ、そこにおるのはわかっておるのじゃぞ! わらわ相手に居留守を使うのもほどほどにせよ!」
若い女の声だ。やけに甲高いその声は切迫したものを感じさせるがアタミはまるで気にならないといった様子で視線をページに走らせている。
だがアタミを呼ぶ女の声は次第に大きくヒステリックな度合いを増した。
アタミの視線が虚ろなに紙片の上を素早く右往左往する。その動きは現実逃避をするかのような意図的なものだった。
「おお、ここでラッキースケベな展開が入るのか。作者め、日和ったな」
「おいっ。わらわの声が聞こえているのじゃろ! 絶対意図的に無視してるじゃろ! 緊急事態じゃ! 王国の危機じゃぞ? のう、いいかげんにせぬかっ!」
悲痛な叫びが塔に木霊す。
次の瞬間、木製の扉は粉々に砕け散って濛々と立ち昇る白煙の中からひとりの女が飛び出して来た。
ウェーブのかかった金髪の女はアーモンド形の大きな瞳を三角にして吠えていた。
静かにしていれば相当な美人であるが血相を変えて怒鳴る姿は、容貌が整っているだけ余計に壮絶だった。
「聞こえておるなら返事くらいせぬかっ」
「るっせーな。聞こえてるよ。のじゃエルフめ」
「だーれーがのじゃエルフじゃ! わらわのことは公の場ではキチンと騎士団長さまと呼べといっておるじゃろうが! 勇者アタミよ!」
アタミはむくりとベッドから身を起こして目の前に立つ色白のエルフを見た。
「あのな、ミモレット。俺は一カ月ぶりの非番なんだ。連戦オブ連戦でさすがにダルい。ついでにいうと、十分前に北西部から帰島して今ようやくくつろぎ出したとこ。もう、今日は放っておいてくれよ」
「それどころではないわ! 王国は魔王軍の残党に奇襲を受けてピンチなのじゃ! 騎士団長として命じる、今すぐ出撃して残党及び魔獣ボーグマンを撃滅せよ。これは王家からの勅命なのじゃ!」
「ったく、しょうがねーな。ちょっと待っててくれ。支度すっから」
「そんな暇はない。今すぐわらわの飛竜を出す。こうしている間にも刻一刻と仲間たちの命が危機に、危機に! みなが勇者の到着を待ち望んでおるのじゃぞ」
「はいはい、わかりましたよ。それいえば俺が折れるって思ってるんだろう。まったくそのとーりだよ」
アタミは黒外套を翻すとベッドから飛び降りて首を左右にコキコキ鳴らした。
連合王国が唯一認め、「勇者」の称号を与えた男の表情はどこか弛緩していた。
「まぁーた、靴も履きっぱで! 休むときくらいはキチンとしたらどうじゃ、まったく。やはりそなたのような者には伴侶が必要なのではなのいかのう。たとえばわらわのような尽くすタイプの女が。のう?」
ミモレットは自分の頬を挟み込むように両手を当てながらくねくね腰を振る。
危機的状況で興奮しているのかミモレットの頬は紅潮していた。
「のう、これが今生の別れかも知れぬ。最後に熱いベーゼをじゃな」
「急いでいるんだろ。とっとと行くぞ」
「わらわはお主のそういうところが嫌いじゃ」
アタミはミモレットの操る飛竜に乗って塔を飛び立った。
厚い雲を突き破って高高度に達すると飛竜のスピードがゆっくりになる。
「敵はどこだ」
「主軍はおそらく王都より西の平原へと迫っておる」
「のんびりしてる暇はないってか。けどさ、ひとついいか」
「なんじゃ! こっちは時間がないので目一杯飛ばしとるんじゃ!」
「これ、ふたりで乗るには、ちょっとばっかり小さすぎやしないか」
「……」
ミモレットは黙った。