空っぽの植木鉢
◇◇◇
玄関の扉は、ギイイと面倒くさそうな音を出しながら、もうしばらく使われていないかのように重く開いた。
「英子さん」
香織がそう声をかけると、家の中から顔を出したその女性は、パッと顔を明るくした。
「あら、香織ちゃん。久しぶりねえ。それに、大きくなったわねえ」目元の皺を深くするように、笑顔を作る。
「こんなに近くに住んでいるのに、なかなか会えなくて」香織の方も、笑いかけた。
女性は、白い髪を耳の下でまっすぐ切りそろえていて、耳には飾りをぶら下げていた。祖母に近い年齢であるはずなのに、母よりも若々しく見えるその女性は、市村英子と言う名前だった。
「奥にも誰かいるの?」
市村英子は、香織の向こうに視線をやった。香織はこくりと頷き、市村英子との壁になっていた自分の体をどけた。香織の後ろから、相沢由紀と相沢祥吾が挨拶をする。
「初めまして」そういった由紀と祥吾は、笑顔のまま自己紹介をする。ここを訪れるまでは緊張していたが、いざ対面してみると、市村英子は自分たちが思っていたよりもずっと感じが良くて優しそうな人物だった。
そして、その印象が間違いではないことを、市村英子と知り合いである香織は知っていた。
「とりあえず、中に入る? どんな用事か分からないけれど、こんなところにいては暑いでしょう」
まだ九月になったばかりで、暑さは厳しい。事実、香織は額にもう流れるほどの汗をかいていた。
市村英子の言葉に甘え、三人はいそいそと靴を脱いだ。
「それで……こんなおばあちゃんの家に、何の用事なのかしら」
金魚の絵柄が可愛らしい、ガラスのコップに麦茶を注ぎながら、市村英子は言った。
「実は、お聞きしたいことが」一番年上の祥吾が、市村英子が麦茶を持って自分たちの正面に座ったタイミングで、真面目な顔をして言った。その横で、由紀はちゃっかり一緒に出されたお菓子を手に取っている。
「というのは、あの、……英子さんの、妹さんのことなんだけれど」祥吾に続いてそう言ったのは、香織だ。
香織は、少しだけ静かに斜め上方向を見つめ、「今から言うことは、本当に真面目な話なんですけど」やがてゆっくり言葉を選びながら言った。
「ひょっとして、英子さんの妹の“青川京子”さん、まだ、成仏できていないんじゃないかと、思うんです」
市村英子は、一瞬、きょとんとした顔をした。「京子が? えっと、成仏?」小首をかしげるその仕草を見て、由紀は「確かに、香織の言っていた通り、可愛らしい人だ」と感想を抱いた。
◇◇◇
金曜日、一限と二限の間の休み時間に、由紀のいる隣のクラスを訪れた。教室の真ん中あたりで一人座る由紀は、ノートを開いて何やら書き込んでいるところだった。
「由紀ちゃーん」
小声で呼びかけると、近くにいた面識のない生徒がちらりと私を見て、興味なさげに目をそらした。
おーい、と少し声を大きくすると、こちらに気付いてくれる。
「今、大丈夫?」ノートを書く手を止めない由紀に向かって、声をかける。この喧噪の中では聞こえていないだろうが、用事があることを察したらしい由紀は頷いてこちらに来た。
「あのさ、『青川先生』って知ってる?」
由紀は知らないだろう、と思いつつ、その名前を口にした。かつてこの学校でも教鞭をとっていたという、有名なその教師の名前を。
「青川? そんな人いたっけ?」
「ううん、昔、うちの学校にいたんだって。もう亡くなっちゃったんだけど」
「亡くなってるの? そんなの知るわけないよ」
やっぱりそうだよね、と私は頷く。
本当は、香織が『青川先生』について調べようとしているきっかけとなった出来事から話したがったが、授業間の休み時間では少々足りない。残念だが、続きは放課後にしようと思っていた。
「昔いた先生なんでしょ。お兄ちゃんなら、もしかしたら知ってるかもしんないけど」
「そう! それを期待してたんだよ。詳しいことは後で話すからさ、お兄ちゃんに聞いてみてよ」
「じゃ、今日、久しぶりに家来たら? ここんとこ、バレーばっかで遊べてないし」
その言葉に、思わず彼女の手をガッシリつかんだ。香織も同じことを思っていたのだ。ここのところ、全然由紀と話していないように感じていた。部活で忙しいのは百も承知だが、そろそろ寂しさを感じていた。
放課後、車通りの多い交差点。今日はいつもとは逆方向に歩く。
「お兄ちゃん、今日は一日中家にいるはずだよ」
大学の講義もバイトもないんだって、と由紀は歯を見せた。香織は、ラッキーだね、と笑い返す。
由紀の家の前に着くと、香織は「ちょっと待ってて」と外に立たされた。突然の、しかも久しぶりの訪問なので家族に確認をとるのだろう。
向かいの家で犬が吠えている。どこからか楽器の音がする。由紀の家の近所には吹奏楽部の男の子が住んでいる。きっと彼の音だろう。
「俺に用があるんだって?」
扉を開けたのは、由紀の兄、祥吾だった。祥吾は香織を迎え入れ、リビングに通した。由紀の両親はまだ帰っていないようで、家の中は静かだった。クーラーの効いた室内は、沸騰しそうに熱い香織の体を心地よく受け入れた。
久しぶりに会う祥吾は、背が高くなっていて、服装も洒落ていて、心なしか髪色も明るい気がした。記憶よりも大人っぽくなっている祥吾に緊張しながら、香織は話し始めた。
「青川京子先生、って覚えてる?」以外とすらりと言葉が出てきて、安心した。
「ああ、青川先生。よく覚えてるよ。中三の時に、国語をもってくれてね。担任だったことはないけど」
写真もあるよ、とお兄さんが手を打つ。卒業アルバムを持って来よう、と立ち上がった。
一分もしないうちに分厚いアルバムを手に戻ってきた祥吾は、「俺が中三の時だから、青川先生って何組だったかなあ」零しながら、パラパラとページをめくる。「あ、いたいた。ここ」
お兄さんが見せてくれたアルバムの中、知らない中学生たちの真ん中に、青川先生はいた。
「うわあ……!」
香織と、事情を全く知らない由紀は、同時に感嘆の声を上げた。
香織の想像していたような、少し小太りで短い髪をくるっと巻いた優しい顔の先生はいなかった。代わりに、赤茶のストレートヘアを侍らせて、いたずらっぽくニヤリと笑う若々しい美人がそこにいた。大きな茶色の瞳に見つめられている気がして、集合写真に紛れる一人にすぎないはずなのに、香織はドキドキしていた。
「超、綺麗じゃん! 誰、この人!?」
由紀は興奮しながら、香織と祥吾とを交互に見た。
「この人が、青川先生」香織は思わずため息を漏らした。日本を代表する大女優だと言われても、疑うことなく信じるだろう。まさに、絶世の美人と言えた。色気にあてられたのか、少し頬が熱いような気すらした。
「そう。凄く有名だったよ。今はいないんだ? 転勤かな」
「……ううん、亡くなったそうだよ」
香織がそう言うと、由紀と祥吾は違った反応を見せた。
「全然そんな歳に見えないじゃん、事故?」と目を丸くする由紀。
それとは対照的に、「そうかあ。残念だけど、やっぱりもうそんな歳だったんだ……」と懐かしい顔をする祥吾。
由紀が驚くのも無理はない。写真の中の青川京子は、二十代とまではいかないが、三十代後半といえば通用しそうなほど若いからだ。
香織にも、祥吾のような反応の意味が分からなかった。「やっぱり、って?」香織が訊ねる。
「青川先生って、有名なエピソードがいくつもあるんだけど、そのうちの一つが、年齢不詳ってことだったんだよ。見ての通り、若いだろ? 顔も立ち振る舞いも若者っぽくてさ、それなのに、本人は『もう四十年は教師やってるかな』っていうわけ」
「四十年? ええと、待って、てことは、この時、少なくとも六十台ってわけ? これで?」
由紀は顔を横に振りながら、信じられない、といった顔をした。祥吾が今就職活動をするような年齢になっていることを考えれば、もう七十代でもおかしくはない。
「まあ、亡くなったって言われても、その歳なら、納得できないこともないけど……」
百面相をする由紀の隣で、香織も難しい顔をする。
「青川先生ってさ、住んでいたところはこの近くじゃないのかな?」
「さあ、学校の近くに住んでいる先生の方が珍しいと思うけど。まして、近所にこんな美人な先生が住んでたら二人も知っているんじゃない?」
「やっぱり、そうだよね」香織は、うーんと首を捻った。
祥吾は、懐かしそうにアルバムをめくって、「あ、でも、そういえば」と顔を上げた。
「確か、先生の双子の妹の話を聞いたことがあるな。妹が近くに住んでるって」そういった祥吾の言葉に合わせて、香織が顔を輝かせる。「それ、本当!?」
「うん。ああ、でも、ちょっと待って、今、もっと具体的に思い出せそうなんだけど」祥吾はそう言って、前髪をかきあげ、その姿勢で停止した。しばらく考え込んだ後、「あ」と手を降ろす。
まだ上げ初めし前髪の、と香織を見る。「なんだっけ、これ」
「え?」香織がきょとんとしていると、由紀が「――林檎のもとに見えしとき、じゃない?」初恋だよ、と続ける。「島崎藤村の『初恋』っていう詩。国語で習ったでしょ」
「ああ、それだ。そう、国語で『初恋』を習って、それで、先生の初恋の話になったんだ。ほら、あの詩、“久しぶりに会った幼馴染が大人っぽくなっててドキドキしちゃった”っていうところから始まるだろ。先生の初恋も、幼馴染だったんだって」
『久しぶりに会った幼馴染が大人っぽく――』そう言われて思わず心臓が跳ねた香織には気付かなかったようで、祥吾はスッキリした顔で遠い記憶を教えてくれた。
「初恋の話がどうして、双子の妹の話になるわけ?」由紀が言う。
「よくある話だろ、双子が同じ人を好きになっちゃうんだ。けれど、幼馴染が選んだのは結局妹で――っていう、切ない恋の話」
「ふうん。確かに、あんな美人が恋に負けるなら、同じ顔してる双子相手くらいだろうねえ」
妙に納得した顔で、由紀が頷く。
「いや、ところが、そうではないんだ」祥吾は苦笑する。「どうやら二人は似ていない双子だったらしい」
当時、青川京子が『幼馴染が私をさしおいて選んだ妹は、実はこの近くに住んでいる』と言ったとき、教室が沸いた。先生に似た美人と、うっかり出会ってしまうかもしれないからだ。
青川京子は、そんな生徒たちの思考を読んだかのように、こう注釈を入れた。『ただし、見つけようというのは至難の業だ。私たちは双子だけど、顔の造りは違うし、正確は真反対。おまけに彼女はもう結婚していて、名前も違う』
「ええっ、じゃあ、選ぶ余地はあったわけね。きっと別のタイプの美人なんだわ、妹の方」映画に出来そうな美人姉妹の物語を想像し、由紀は一人楽しんでいる。
ところでさ、と祥吾は話を切り上げた。
「香織ちゃんは、どこから青川先生のことを知ったの?」
それを聞いて思い出したように由紀も香織を見た。
「そうそう、聞きたかったんだ。なんで急にそんなこと知りたがるのか」
ああ、と香織は言った。三日前のことなんだけれど、と。
◇◇◇
香織が『青川先生』という人物を知ることになったのは、この日がきっかけだった。
車の行き交う交差点。信号の向こう、右手側に進めば、住宅地がある。赤い屋根の家、無骨なガレージのような家、おしゃれな木々が目立つ庭のある家、個性豊かに、一見無規則に並べられている。
左手に進めば、一面が田んぼだ。どこを見ても同じ緑色、同じ四角形、同じ姿勢で風に靡く雑草。よく見れば、ずっと見ていれば、個性が少しだけ見えてくる。
帰り道、交差点を右手に曲がるのが由紀だ。左手に曲がるのが香織。
「また明日ね! 明日、がんばって」
信号を渡り終えてから、一瞬立ち止まって由紀に声をかける。バレーボール部の由紀は、明日、大会のレギュラー発表があるのだという。
「別に、今さら頑張ることないんだけどね」
今日の練習で、「既にメンバーは決めた」との言葉を受けたという由紀は、そう返した。この会話は、今日の帰路でもう三回はした。けれども、香織はやはり、一回目と同じ言葉で返した。「でも、頑張って」
何回やるのよ、この流れ。
二人で顔を見合わせ、笑って、「じゃあね」と背を向けた。
由紀と別れて一人になってから、香織は足元を見て歩いた。慎重に歩いた。先日、この道で犬の糞を踏みつけたからだ。それで、翌日由紀に大笑いされたからだ。
しかし、下ばかり向いて歩くのに飽きて、ふと前へ視線を向けた。
「うん……?」
道の遠く、しかも真ん中に、何か白いものが置かれている。逆光でよく見えないが、何かあることだけは分かる。白くて、石というには大きすぎるし、看板にしては小さすぎる。
車通りの少ない広い道で、夕日に染まるこの空の下、その白はあまりにも不自然であった。
駆け寄って近付いてみると、どうやらそれは植木鉢のようだった。
土の中心点から双葉が明るく顔を出している。が、その土は乾ききっていた。
とにかく、こんな場所に置いてあったら車の邪魔になってしまうと鉢を持ち上げた。もっとも、急がなくてもこの道を通る車などほとんどいないのだが、全くいないわけではない。
幸い、置き場所に困ることはなかった。近くに手頃な公園があるのだ。公園といっても、ベンチが置いてあるだけの空き地だ。ベンチの脇に目立つようにその鉢を置いたとき、香織は気付いた。
『2年1組 青川きょう子』
植木鉢の側面に貼られたシールに大きな字で書かれていたのだ。字は掠れていて、ずっと昔に書かれたようにすら見えたが、かろうじて読むことが出来た。
これは思わぬ手掛かりだった。字の拙さからして中学二年生ではない。きっとこの近くの小学校に通う子供の持ち物だろう。
それにしても、近所に「青川さん」なんていただろうか。
この辺りの人とは幼い頃から皆顔見知りだ。しかし、青川という名は聞いたことのないものだった。
とにかく、鉢を危険な位置から移動させられたので満足し、家に帰った。
「ただいま! ねえお母さん」
青川さんって人が、と言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。
振り返った母に横目で見られたが、母はすぐ背を向けてパタパタと奥へ入ってしまったからだ。忙しいところだったか、と声をかけたタイミングを後悔する。
自室に入り、セーラー服のリボンをむしり取った。ベッドに放り投げ、スカートを脱ぎ捨て輪を描く。そのままベッドに飛び込んだ。
あの植木鉢。白い天井を見ながら、ついさっき運んだばかりの植木鉢を思い出す。
どうしてあんなところにあったんだろうか。それから、持ち主の「青川きょう子」ちゃん。もしかして、鉢を捨てるつもりだったんだろうか。それとも、あんなところに忘れていったんだろうか。困っては、いないだろうか。
いてもたってもいられなくなってしまい、香織は思わず一階に駆け下りた。固定電話機の前で深呼吸し、電話帳を見ながらボタンを押した。
「はい、南部小学校です」
受話器の向こうから、半年前に卒業したばかりの母校の名前が告げられた。
「あの、もしもし、村上香織といいます。あの、去年、あの」
「香織? 久しぶりじゃん、どうしたの」
懐かしいハイテンションなその声を聞いて、「やっぱり」と思った。第一声から電話口にいるのは三浦先生ではないかと予想していたのだ。
「三浦先生?」
「そうだよお。ちょっと香織、寂しくなるには早いんじゃない?」
六年生の頃担任をしてもらった、若い女性の先生だった。優しく明るく、時に厳しく、子供にも親にも好かれる凄い先生だった、と記憶している。もちろん香織も例に漏れず、三浦先生が大好きだった。
「寂しくて電話したんじゃないですう。あのさ、先生」
話している相手が三浦先生だと分かった瞬間、一気に緊張が解けた。卒業する前に戻ったように、ゆるゆると言葉を探す。
「二年一組に、青川さんって子、いる?」
「二年一組? 今二年生はもってないからなぁ。どうだろ。どうして急に?」
「落とし物があって、その、植木鉢の」
「植木鉢? また大きな落とし物じゃん」
「そう。よっぽどウッカリしてんだと思うよ、その子」
三浦先生は少しだけ電話口を離れ、戻ってきてすぐ、「うぅーん、そうだなぁ」と唸った。授業で私たちが元気よく間違えると、先生はたいてい、困った顔をしながら同じように唸ったものだった。
「いないみたいだね、青川さん。二年一組どころか、うちの学校にはいなさそう」
「えっ、そうなの。じゃあ他の学校の子が忘れていったのかな。植木鉢を? あんなところに?」
先生と会話しているのか独り言を言っているのか、途中からあやふやだ。
香織は口をきつく結び、眉を潜めた。てっきり青川さんはすぐに見つかるものだと思っていたからだ。
「ちなみに、フルネームでいうとなんて名前?」
「青川きょう子ちゃん。『きょう』だけ平仮名で書いてあったかな」
「青川きょう子、ねえ。……ん? 青川、きょう子」
「知ってるの?」
先生が意味深にやけにゆっくりと繰り返すものだから、思わず遮るように尋ねてしまう。
「どこかで聞いたことがある気がするんだけど……。思い出したら、また連絡するわね」
気になるところでお預けにされてしまった。仕方がないので、「ありがとう」と電話を切った。
先生に焦らされたのは束の間で、折り返しの電話は予想以上に早くかかってきた。二日後のことだった。
家に入った瞬間、「あら、ちょうどいいところに」と珍しくトーンの高い母の声。受話器に向かっての声だった。
「香織、三浦先生から電話だけど」
何をやらかしたんだ、と怪訝な表情で母が受話器を渡してくる。香織は「悪いことじゃないんだよ」目で訴えながら受け取った。
「もしもし、先生?」
「今朝、すぐに思い出したのよ。あの名前。『青川京子』さん。彼女、私の恩師よ」
「恩師?」
思わず首を傾げた。先生は大人だ。大人である先生の「恩師」ということは、もっと大人だ。青川さんが、先生よりももっと大人だって?
「昔、すごぉくお世話になったの。私、香織ちゃんが今通ってる南中の出身だって話はしたっけ? 私が中学三年生のとき、南中で青川先生にもってもらってね」
三浦先生は、明るく緩やかに、青川先生の話をする。香織の想像の中の「きょう子ちゃん」が少しずつ成長していき、やがて中学校の黒板の前に立った。三浦先生の中学時代は、頑張っても想像できなかったけれど。
「けど、青川先生は……」
先生の声がくぐもって聞こえた。受話器から離れでもしたような。
「青川先生は、三年前に亡くなっているのよ」
え、と香織が言いかけたとき、「あっ」と三浦先生が声を上げた。「ごめん、そろそろ会議が始まっちゃう」
三浦先生がバタバタと動く音がこちらまで聞こえた。
「ごめん、今日はもう切るわね。本当に寂しくなったら、いつでも遊びにおいで」
少し早口に、三浦先生は言った。ニコッと口角の上がった三浦先生の顔がありありと想像できた。
しかし、「んー、どうだろ」私は、『遊びにおいで』という三浦先生の言葉に、いつも通り元気よく頷くことは出来なかった。
「私、もうすぐ引っ越すんだよ。すごおく遠くに」このことは、もちろん由紀や祥吾には内緒のことだった。
え、と三浦先生が言いかけたが、「じゃあ切ります。わざわざ電話ありがとう」と受話器を置いた。前は先生が気になるところで話を切ったのだから、これでおあいこだ。
そういえば、引っ越しを誰かに伝えるのは、これが初めてだった。
本当は、青川さんの話が終わったら、引っ越しのことだけじゃなく、『由紀ちゃんが一年生なのにレギュラーに選ばれたんだ』とか『この間のテストでは、クラスで二番目の成績だったんだ』とか、話したい事があったのだが、会議というのなら仕方がない。
香織は、一段飛ばしで、音を立てないように気を使いながら階段を上がった。
◇◇◇
「青川先生が亡くなっていることは知っていたけれど」香織が、眉を下げたまま、祥吾と由紀を見る。「ずっと昔の、遠い昔の先生の植木鉢が、どうして今更あんなところにあったのかが不思議で……。それに、出来るなら、持ち主に返してあげたくて」
と、由紀の家を訪ねるにあたった経緯を話した。
祥吾と由紀は納得したように頷く。「確かに不思議だ。だって、もう五十年以上前の鉢だろ? それに、本人は亡くなっているのに、どうして……」
「やっぱり、幽霊的な、アレじゃないかしら」
「お盆も夏休みも終わった、こんな時期に?」
うーん、と首を捻る。
「その植木鉢、見に行ってみない? まだ夕方だし」
植木鉢を見に行ったところで何かが変わるとも思えなかったが、あの不可解さは実際に見ればより伝わるだろう、と承諾した。
三人は、家を出て、香織の帰路を辿って歩き始める。いつの間にか、空は真っ赤に染められていた。香織の家は、その落ちかけの太陽の方向にあった。
「ここ。ここに、昨日、鉢を移動させたんだよ」
香織は言いながら、公園とも空き地ともいえるその場所に足を踏み入れた。植木鉢は、変わらずそこにあった。
「……なんか、随分と綺麗だな」
祥吾は訝し気に眉を顰める。「何十年も前のものとはとても思えない。今でもずっと綺麗に磨かれているのか、でなきゃ、青川先生が小学二年生の時代から飛んできたって言われても信じられそうだ」
真っ白で、ひび割れもなければ蓄積した汚れも見受けられなかった。買ったばかりのような、今ここで名前を書いたような、そんな植木鉢だった。
「裏とか、何か書いてないのかな?」
もう少しじっくり調べようと、由紀が植木鉢を手に取る。
重いだろ、俺が持つよ、と祥吾が手を伸ばしたその時だった。案の定、由紀がバランスを崩して鉢を横向きに倒してしまう。
土は存外、軽かったらしく、サアッと一気に流れ落ちた。
「あーあ、やっちゃった」
香織は、植木鉢から双葉が出ていたことを思い出し、草の安否を心配して土をかき分けた。見つからない。
植木鉢を起こした祥吾が、「あ」と言った。
「見て、これ」
植木鉢の底に、黒く掠れかかった文字で、『市村雄一』と文字が書いてあった。この文字だけは確かに何十年前と言われても納得できるほど不鮮明だ。
「なんて書いてあるんだろう。名前っぽいのは、分かるんだけど」
と祥吾が目を細めると、
「市村雄一、じゃないかな」香織が見たままを答える。
「え?」
「こっちの人は、知り合いだよ。雄一さん。近所に住んでたの」
「そう言われたら、そう見えてきた。なるほど、この字、『雄』って書いてたわけ」
知っている人でなければ見えなかっただろう、その字を見て、由紀が笑顔を見せた。
こんな分かりにくいところに近所に住む男性の名前。これが青川京子の初恋の人、つまり幼馴染とみていいだろう。それが三人の結論だった。
「この“市村雄一”さんの奥さんが、青川先生の妹なんじゃないかしら」
「と、いうことは、英子さんね。そっちも知り合い。――確かに、綺麗な人だわ、英子さん。青川先生みたいに圧倒的って感じじゃないけど、見れば見るほど可愛らしいの」
「ビンゴじゃん!」由紀が顔を綻ばせる。
香織には不思議な確信があった。たった一枚の集合写真でしか知らない青川京子と、市村英子に繋がりを感じたのだった。
その掠れた名前を見ながら、香織がふと零す。「ところでさ、青川先生って、結婚はしてなかったの?」
「そうだね。確か、そう言ってた。『思春期の子供ばっかりこんなにたくさん育ててるのになぁ』って言ってたし」
顎をこすりながら祥吾が言う。
「よく覚えてるもんだねえ」と由紀が感心する。そして、「青川先生にそんなに興味があったの?」といたずらっぽく笑った。
「そういうわけじゃない」と言いながら、祥吾の頬は少し赤い。斜めに射し込む太陽のせい、ということにしておこう。
ほとんど真横という位置から、太陽が一方的にこちらを照り付けていた。香織の顔の左半分だけが輝いて、よく見えない。
香織の口が、ゆっくりと開いた。
「それじゃあ、やっぱり、ずっと好きだったのかなあ。雄一さんのこと」
三人は黙った。
青川京子の持ち物、植木鉢。市村雄一の名前が刻まれたまま、ずっと長い間隠されてきた想いが今になって見つけられたことには、意味があるような気がしていた。
「市村さんの家、行ってみない?」
その発想は、当然のように出てきた。由紀が言わなければ、香織が提案するつもりだった。
香織は頷いて、それと同時に、根っこまで無事な様子の双葉を見つけた。
安堵した様子の香織のそばで、「それがいいね」ひっくり返した土を戻しながら祥吾も同調する。
幸いなことに、今日は金曜日で、明日は土曜日だった。
◇◇◇
麦茶を一口飲んでコップを置くと、香織は、真剣な眼差しで英子を見た。
「それで、私たち、こう考えたんです」
ついに結婚もしなかった青川先生は、実は生涯ずっと、市村雄一のことを想っていた。しかし、彼には既に大切な奥さんがいた。その奥さんというのが、大切な妹だった。
彼女は、英子が選ばれたその時から、自分の想いを隠していた。しかし、ついにそのまま亡くなってしまい、隠しきった想いは未練となって残ってしまった。
せめて伝えたかった、という未練に。
彼女の想いが残されているのは、あの植木鉢だけ。誰かが見つけて、うっかり中身をひっくり返して、そして市村雄一に想いが届けばいい、と。何十年も前から時空を超えて、この場所に告白の証である鉢を呼び寄せたのではないか。
SFめいた、まるで現実味のない仮説だったが、英子は真剣に聞いてくれた。
「あなたたち、凄い推理力だわ。そうなのよ、私の姉は、青川京子っていう名前で、私の夫は、私たち姉妹の幼馴染で……」
市村英子は、穏やかな顔つきで話した。
幼い頃から、喧嘩の原因はいつも市村雄一だったのだという。彼と二人で遊びに行っただとか、たまたまプレゼントをもらっただとか、そんな“不平等”があった時は、直接「ずるい」と怒りはしないけれども、片方が無視を決め込むのだと。
「姉はどちらかというと恋の多い人だったけれど――あの日、私が雄一さんとお付き合いを始めた日、姉は、私とひとつも口を聞かなかったわ」
確信はもてないけれど、と英子は置いた。「姉が雄一さんのことをずっと好きだと言われても、納得できてしまうわねえ」
三人は顔を見合わせた。
自分たちの仮説は、突拍子もないことだったが、もしかしたら正解なのかもしれない。時を経て行われたその告白はあまりにもドラマチックで、興奮を隠せなかった。
香織は、話を聞きながらもうお茶を飲み干してしまった。
「でもね」
英子は苦笑した。
「実は、その植木鉢、タイムスリップしてきたわけではないのよ」
英子は、申し訳なさそうに笑う。
英子の話は、こうだった。
青川京子は結婚もしなかったので、子供はなかった。もちろん、学校で出会う大勢の子供を除けば、の話だ。
しかし、市村英子と雄一の夫婦には、三人の子供が恵まれた。そのうちの一人が花好きだったので、青川京子が花の苗を植えてプレゼントをしたことがあったのだという。『この鉢は捨てるに捨てられないから』という不可解な理由で。
やがて子供は成長し、その子供も誕生した。市村英子の孫にあたる子供だ。花好きの血を受け継いだ子供に、その鉢は引き継がれた。
綺麗好きで几帳面な英子の性格も三世代に渡って受け継がれたらしく、いつも綺麗に磨かれたその鉢は奇跡的に壊れたりすることなく、今も孫の手元にある。
「この間の夏休み、孫が『置き場所に困った』と言ってね。この家に運び込むことにしたのよ」
まさか、鉢の底にそんな秘密が隠されていたなんて知らなかったけど、と英子は言った。
「どうせここに運ばれる予定だったのなら、今持ってきましょうか。公園に置きっぱなしの植木鉢」
「あら、それは助かるわ。あの子ったら、どうして道端に放り出したりしたのかしら」
三人は英子の家を出て、なあんだ、と笑いあった。
「途中までは良い推理だったんだけどね」
「やっぱりタイムスリップなんて、無茶だったわね」
英子の家を訪れたのは昼頃だったが、今は既に若干陽が傾き始めている。
前方に人影が見えた。小さな影。女の子のようだった。何かを運んでいる様子で、ちょこちょこと歩いている。
「あの子……、あの植木鉢を持ってない?」
由紀が目を細めて、女の子をじっと見た。香織も同じようにして手元に注目すると、確かに大きさも色も、例の植木鉢によく似ていた。
女の子が近付いたとき、祥吾が「やあ」と声をかける。「もしかして、今からそれを市村英子さんの家に運ぶところなのかい?」
女の子は、少し訝しげに三人を見てから、小さく頷いた。
「ということは、彼女のお孫さんだね。それ、青川京子さんの植木鉢だよね。私たちも一緒に行っていい?」
香織が笑いかけると、女の子はさらに眉を寄せた。突然高校生たちから行先やら持ち物やらを当てられたら不審がるのも無理はない。当然の反応だ。
香織は、かいつまんで現在の状況を話すことにした。
「何日か前ね、この道路のど真ん中でその植木鉢を見つけたのよ。持ち主は困っているかもしれないって思って、その植木鉢にある名前、“青川きょう子”ちゃんを探していたら」
青川京子というのは、市村英子の妹に当たる、遠い昔の子供であったことを突き止めたのだ、と、自信たっぷりに香織は言った。
女の子の納得した顔と、ついでに「なぜあんなところに鉢を置いたのか」という疑問が解決されることを期待して、香織がちらりと女の子を見た。
しかし、そこに思い描いた反応はなかった。
女の子は、より強くなった不信感をむき出しにしていた。「お姉さん、何を言ってるの?」
え、と三人は声を合わせた。
「この植木鉢、ずっとこの場所に置いてたよ。一週間も前から。道路なんかに置いたりしてない」
え、と再び三重奏。
慌てて三人が公園に確かめに行くと、それはもう消えていた。
「どういうこと?」
「言われたことをそっくり信じるなら、こういうことだ」祥吾が言った。「あの女の子が一週間前、公園に植木鉢を置いた。で、どういうわけか、道路に移動して、それを香織が見つける。そしてそれを、――奇跡的に、さっきの女の子がもと置いた場所と同じところに運んだ」
香織は混乱していた。
自分の見た鉢は、確かに道路にあった。普段の香織なら、わざわざ公園なんて覗かないからだ。あんなに目立つところにあったから、驚いてその鉢を手に取ったのだ。
もともと邪魔にならない場所にあった鉢がなぜ道路にあったのか、というのが不可解な点だった。
誰が移動させたのだろうか。何のために?
それに、と香織は顎に手を置く。土をひっくり返したあと、なんとかして探し出した、あのなんらかの花の双葉は、少女の腕の中には無いように見えた気がした。これについては、確信は無かったが。
「香織、暑さで幻でも見たんじゃない?」祥吾があっけからんと言った。
「手に持てる幻を?」由紀が首を捻る。
香織は、『幻を』という問いには答えず、「青川先生なのかな」と誰にともなく呟く。
帰り道を塞ぎ、幻覚を見せてまで、何がしたかったのですか。香織は空を仰ぎ、会ったこともない青川京子に問いかける。
ああ、その問いの答えも分かるような気がしていた。
「幻だったとしたらさ」香織は言う。「見つけてほしかったんだろうね」
三人は道路の脇に立ち尽くしていた。まだまだ青いばかりの空をぼんやりと眺める。
「植木鉢を?」由紀が訊く。
「その底にある名前を、じゃないかな」と祥吾。
「やっぱり不思議な人ね、青川先生って。亡くなってから三年も経って、ようやく想いを伝える気になったの?」
そう言われて、香織は「確かに」と頷く。「青川先生の仕業だったとしたら、どうして今頃になった告白しようだなんて思ったんだろ」
そう言ってから、はたと気付いた。そういえば、自分も腹に隠した秘密ごとがあったことを。
「もしかして、青川先生、見ず知らずの私の背中を押してくれようとしたのかも。“手遅れになる前に告白しなさい”――って」
心の中の問いがうっかり口に出てしまい、あっ、と香織が口元を押さえた。
「え?」
「香織、告白したいことでもあったの?」
ええと、と香織は口ごもってから、「一応、ある、うん」
本当はずっと、もっと早くに言いたかった。でも言ってしまったら、なんとなく、何かが変わる気がして、言えなかった。
「あのさ、由紀ちゃん。祥吾くん。これは、私の告白なんだけどね」
新品のように綺麗な白い植木鉢が、脳裏に蘇る。磨かなくても変わらず青いその空を一度見てから、香織は言った。
「私、引っ越すんだ。もうじき」
由紀と祥吾は、驚いたような顔をした。その表情は、香織の想像していたものと同じだった。
「いつ? いつ、いなくなっちゃうの?」
焦ったような、泣きそうな顔をする由紀を見て、香織はむしろ落ち着くことが出来た。「来月、くらいかな」
眉を下げたままの祥吾が、それでも冷静に、「どこへ引っ越すの?」と言った。
香織は、顔を暗くする。凄く遠くだよ、と、蚊の鳴くような声で言った。祥吾に「そうじゃなくてさ」と地名をせがまれ、それにも答える。
「なあんだ、会いに行けるよ。ね、由紀」確かに遠いけどさ、と祥吾は笑う。そんなふうに背筋が伸びて落ち着いている祥吾の様子を見て、ずっと慌てていた由紀も、ようやく呼吸を取り戻したようだ。
あっさりと「会いに行ける」だなんて言われてしまった香織は、振り絞った勇気の行方が分からず、へらりと笑った。握りしめていた拳も開いて、「そっか、会えるか」と言う。祥吾は香織と目を合わせ、にっこりと笑った。
次に、青空に吸い込ませるように、深く一呼吸おいて、由紀が手を打った。
「とりあえずさ、英子さんの家、戻らない? ……ここ、暑いし」
「それがいい。ウン十年ぶりの告白の行方を見届けなくちゃ」
三人は踵を返し、少女の後を追うように元来た道を歩き始めた。影はまだ短い。長くなるのはこれからだった。
こんなに暑いせいだろうか。香織は、歩きながら、空に幻を見た気がした。真っ白な植木鉢の中で、溢れんばかりの笑顔を咲かせる、向日葵の幻だ。