運命
不思議と地面に落下した衝撃はなかった。人が死ぬ瞬間って痛いものだと思っていたけど、全然痛みを感じない。痛みを感じなかったのは、頭から転落して一瞬のうちに意識を失ってしまったせいだろうか。
ただ目の前が真っ暗い闇の中にいる。私は死んだのか。人は死ぬと無になると思っていたけれど想像していたよりもあたたかく居心地の良いものだった。
すると遠くから声が聞こえる。声の方へなぜか体全体が強引に押し出される。
ーー光だ。眩しいほどの光が見える。
息が苦しい。
死んだのに息が苦しいと思うなんて。
私は思いっきり深呼吸した。
そして、大きな声で叫んだーー‥‥。
うっすらと右目を開ける。左目は固く微動だにしない。視界がぼやけていて、あまりよく見えなかった。
視界に写った白いテーブルらしき物の上にぼんやりと小さな金の箱が見える。
ーーあれは、幼い頃に知らない人からもらった絶対に開かない箱。……え? 待ってよ? あれほど、開かなかったはずなのにわずかに隙間が開いてる。あれ? これって確か絶対に開けてはいけないんじゃなかったっけーー??
私はベッドに横になりながら手を伸ばしたが、全然届かない。起き上がろうと思い、上半身を起き上がらせる訳だけど、うまく力が入らない。
ーーそうか、屋上から転落したんだものね。生きているだけでも奇跡。事故直後の体は相当ダメージを負っているみたいね。痛みはないけれど、絶対安静全治6カ月というオチかしら?
ベッドに寝転びながら天井を見上げる。やたら低い天井に大きく張ったクモの巣。私の部屋ではない。古いどこかの病院の中にいるのかしら? こほん、こほん。ホコリで咳が出て、悪いけどこんな所にいたら病気になってしまいそう。周りに誰か、誰かいないのかしら。
「ローズクリスティナお嬢様? ああっ、お義母様! クリスティナお嬢様が目を覚まされました!!!!」
ーーは? ろーず……くりすていな? 一体なんのこと?
「クリスティナお嬢様、お熱はもう下がりましたか? 少し体温を確認させてくださいね?」
ーー!? 全く知らない子供にいきなりおでこや頬を触られる。それどころか、洋服のボタンを外して胸の上辺りを遠慮なしに触ってきた。初めてあったばかりなのに、距離感が近すぎる。まるで慣れ親しんだ姉妹みたいな接し方だった。
「クリスティナお嬢様? 汗をいっぱいかいたでしょうから、お着替えしましょう。気持ちよくなりましょうね?」
私は我慢の限界だった。誰かに体を触られるのは好きではない。それも、洋服のボタンを全部外され、袖から腕を外される。
ーーや、止めなさいーー!!!!
そう言ったつもりだった。しかし、口から出たのは、単調な、同じ音を連ねただけの、舌ったらずな言葉だった。
「クリスティナお嬢様が喋りましたわ!!!」
それでも、女の子は目を輝かせ喜んでいた。私の瞳を見て確かにクリスティナと呼んでいる。人違いだろう。違うと言いたかったが喉の奥から出てくる言葉はまた違ったものだった。
「どうされました? ああ、おなかが空いたのかしら? 特製のミルクがありますよ? さあ、これを飲んでねんねしましょうね?」
横になっていた私は軽々と抱き寄せられる。ここで違和感の正体に気づいた。この子、妙に大きくない? いや、違う。私、手も足も何だか短くない? 特製のミルクとやらをスプーンで飲まされそうになり、私は必死で拒んだ。そのせいでお洋服にミルクがかかり女の子は慌てて私を抱っこしながら洗面台へと走る。洗面台と言っても、部屋の隅に水が張った樽と桶が一つ。柱に鏡を取り付けただけの簡単な手洗い場所。私は鏡に写った自分の姿に驚愕したーー……。
柔らかそうな頬っぺたにパンのようにムチムチとした両手両足。瞳と髪の毛は真っ黒だったものの、髪の毛がやたらと短い。それどころか、赤子!?!? これは一体どういうこと!?!?
「お嬢様の薬指の痣、だんだんと大きくはっきりとなっている。お医者様は珍しい形の蒙古斑だ、本来なら成長とともに消えるはずだが、これはどうかその時ではないとわからないと言ってたけど、女の子なのに本当に大丈夫かしら……」
私の左手薬指には禍々しい痣が消えずに残っていた。動かしても痛くないし、骨折しているわけでも壊死しているわけでもない。ただの痣なのだが……。それを彼女はずっと気にしてくれていた。
「リゼ。先程からドタバタと慌ただしい足音が屋根裏部屋から聞こえますけれど、どうかしましたの?」
すると床下から低く強張った女性の声がした。
「何でもありませんわ、お義母様」
ーー何だか、このやり取りどこかで聞いたことがある。
「今、クリスティナと一緒に降りていきますわ……」




