プロローグ
人は我慢して生きている。
この世界は不平不満でできている。
努力も頑張りも報われない。
必要なのは、自分が何に向いているのか気付くこと。
それに気がつけば、大概良い道を選ぶ事が出来る。
何に時間を使って何を諦めるか。
限られた命に費やす時間の割り当てを決める事が出来る。
成功者の大半はこの「気付き」が早かったのだと思う。
そして俺はーー遅い方だ。
俺が初めにそう感じたのは、ずいぶん昔のことだった。
小さい頃、元気が有り余ってヤンチャ過ぎた俺は母の親戚が経営するボクシングジムへ入った。
もともと身長が高く他の子より運動神経も多少良かった俺はすぐに強くなり、試合をすれば次々と勝利を納め結果を残していった。
でも、上にはもっと上がいた。
そいつはその親戚の子供で、いわゆる英才教育を受けてきたエリートだ。
練習量では負けていないつもりだったが、どうしても勝てなかった。
特に中学生になると、その差は歴然だった。
試合でも練習でも悔しさしか感じなくなった。
やればやるほど、月日が流れるほど差は開いていった。
思い悩む俺に追い打ちをかけるかのように、その頃から視力の低下もみられるようになった。
これが現実。
努力では埋まらない壁。
俺は当時その事に気がつく事が出来なかった。
どれだけやろうと、無理なものは無理だった。
そして時間だけが浪費され、俺は中学校を卒業するとともにボクシングを辞めた。
ーー高校へ行っても同じだった。
部活に入らずアルバイトばかりして腐っていた俺に、通っていたジムのコーチから連絡があった。
目が悪くても活躍している選手もいると、総合格闘技のジムを紹介して貰った。
俺にはこっちの方が合っているかもしれない、と。
通い始めは、ボクシングを初めて習った頃の感覚に似ていて楽しかったが、やはり目の悪い俺は実力者達にとってかっこうの練習相手でしかなく、最後には楽しみも苦痛に変わっていた。
高校卒業と同時に総合格闘技も辞め、俺はやっと自分が、格闘技は好きだが向いていない事に気が付いた。
就職しようとした俺に、母が大学に行きなさいと言ってくれた。
バイトと格闘技しかなかった俺にせめてやりたいことをさせてあげたい、と。
俺にもうひとつやりたい事があるとすれば、それは絵を描くことだった。
小さい頃の夢は画家になる事だったくらいだ。
俺は母に頼みこんで美術大学へ通った。奨学金制度も使い、六畳一間のボロアパート住まい。
それでも俺は好きなことに打ち込める喜びを噛み締めていた。
二年、三年の夏休みには、バイト代全てを注ぎ込んで武者修行と銘打った海外旅行に単身乗り込んだりした。
大学生活は充実し、満たされていた。
ただ四年生になり、卒業製作を行う中で思い知ったのは、月日と才能の差。
就活では、小さい頃から絵画一筋、描き続け表現し続けてきた人でさえ、美術に紐づく仕事にはなかなか就けないという現実を見ることになった。
そしてスカスカの俺の経歴は、就職氷河期だった当時、誰にも見向きされなかった。
俺が就活で四苦八苦している頃には、高校の友人達は社会人として第一線で働き、大学の友人達は親の口利きで良い就職口を見つける者もいた。
美大に来る様な人間は、大半が元々お坊ちゃんやお嬢様だ。
俺には何にも無かった。
自分が好きな事で稼いでいくなんて土台無理な話しだった。
俺はそれに気がつくのに二十数年の歳月を浪費していた。
全ては気付きだ。
俺は、遅すぎた。
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「……寒っ! …あれ?」
気がつくと俺は背もたれの深いコマ付きの椅子にずり落ちそうな体勢で座っていた。
昔の夢を見た感覚がぼんやりと頭に残っていたので居眠りをしていたんだと分かり、姿勢を直して深く腰掛け大きく伸びをした。
「あー、腰痛ぇ…」
コンタクトレンズをしたままだったせいか目が霞んでいて、右ポケットに入れていたドライアイ用の目薬を取り出し直ぐに両目に差した。
まだ目の中がゴロゴロする。
軽く瞬きを繰り返していると視界のボヤけが無くなりピントが合ってきた。
そして目の前のノートパソコンの画面から浮かぶ英文の資料が俺をまどろみから現実へ引き戻した。
「あ、やっべ…寝てた? 何時?」
慌てて体を起こし時計を見る。
時刻は午後三時を回ったところだった。
「やべーやべー…早いとこ資料作っとかんと…」
同僚ゼロ、部下ゼロ、俺専用の事務所で本社への報告資料作成を再開した。
ただ寝起きの頭は上手く動いてくれないようで、仕事がどうしても手に付かない。
俺は仕方なく缶コーヒーを買いに行くがてら、気分転換に少し外へ出ることにした。
…まあ、本日三度目の気分転換だけど。
「おおー、外は冷える…! 目が疲れた…100円あったっけ…?」
目頭を軽くつまんでマッサージしながら小銭入れの中の硬貨の数を思い出していた。
この事務所周辺には、片側一車線の道を挟んで正面にあるコインランドリーの横の自動販売機しか飲料を買う場所がなく、俺は日に3度はこの自動販売機にお世話になっている。
『午後もお仕事頑張ってねー』
「ありがとさん」
俺を応援してくれるのはこの自動販売機くらいだ。
落ちてきたお目当ての缶を手に取りすぐに開けて口に含む。
「今回のも美味いな、また来るわー」
自販機に背を向け手を振った。
「本当、今日は冷えるなぁ…」
三月半ば、快晴だがまだ肌寒い気候に飲む微糖のホットコーヒーは、その温度で再び俺をまどろみに誘っているようだった。
「しかしまあ、外資系メーカーの事務所ってどこもこんななのかな…。 いくらアジア圏の売り上げは全体の数%程度だって言ってもな…」
愚痴をこぼしつつ道を挟んで向こう側に見えるプレハブの様な事務所に再び足を向ける。
一応3棟横並びの建物のうち中央が俺の事務所だが、ここに配属されてからの三ヶ月半、両サイドにある建物のシャッターが開いているところを俺は見たことが無かった。
建物に面している駐車場には五台ほど車を置くスペースはあるが、ずっと乗られていないであろう軽トラックが一台だけ放置されていた。
俺は今年三十二才になる。
三ヶ月前までは別の会社で働いていたが、その会社を昨年末で退職し、現在は奇跡的にこのイギリスの鉄鋼メーカーへ転職することが出来た。
過去五年間の営業経験に加え、大学時代に詰め込んで覚えた英語の知識を人事担当者にひどく気に入られて入社することになった。
転職理由は簡単、給料アップの為。
男に生まれたのなら1度は高給取りになってみたい。
そして友達に仕事を聞かれたとき、外資系のーーって言うのがなんとなくカッコいい…本当にそんな単純なことだ。
根本的に見栄っ張り、プライドが高く外面ばかりを気にする…性根は元から捻じ曲がっている。
ーー仕事は大っ嫌いだけど、重要な役職には就きたい。
ーー面倒臭くて動きたくないけど一目置かれたい。
なんという矛盾だ。
格好つけたいだけ…それだけの為に今までの社会人生活は仕事漬けの日々だ。
昔は、好きな事を仕事にしてメシを食う…
そう思っていた時期が俺にもありました。
でも実際はそんな事が出来るのは、時間を有効活用してきた一部の人達だけ。
そこから妥協に妥協を重ねた社会人九年目、四回目の新入社員。
「最初は警備員だったな…俺よく頑張ったよな…」
この仕事、基本的にアポイントが無ければひとりで自由に仕事が出来るし、何より就業場所には俺ひとりなので小うるさい上司も居らずストレスがかからない。
「日本企業じゃ考えられんよなぁ…」
始めたての頃は必死で勉強し、食らいついていく気概もあった。
でもやはり、誰も見ていない状況、自由にしていい状況。
こうなると人間誰しも…怠けてしまうものだとつくづく思った。
前職だと…怠けでもしたら怒号が飛び、更にどう改善するのか報告して、オマケに始末書までついて回るだろう。
それにまわりの目がある状況でそんなことをするとか、日本人気質の俺には出来やしない。
自己管理って本当に大変だとつくづく思う。
「…人生の遅れ…、少しは取り戻せたんだろうか」
そんなことを考えながら事務所のドアを開けて中へ入った。
本当…必要最低限の物だけ置いてある殺風景な事務所だ。
無機質な事務机に飲みかけの缶コーヒーを置き、先程まどろみへ連れて行ってくれた椅子に深く腰掛ける。
「あー、面倒だけどやるかぁ…」
「寒いけど眠くなるし…暖房つけるのはやめとこう」
大きく伸びをしてから、改めて作業を再開した。