唇を重ねる
私は、王都にある侯爵家の屋敷を離れ、侯爵領の中にある屋敷へとうつされた。
道中馬車の窓は閉じられ、私は罪人のように両手を背の後ろで縄で縛られ、監視されながら新しい屋敷へとやってきた。はじめは、背筋を伸ばし座っていた私だったけれど、すぐに、揺れと気疲れで体がまっすぐ伸びることを拒み、座っていられなくなってしまった。侯爵家の馬車の座席は柔らかく眠気を誘い、私はうつらうつらしているうちに、時間が過ぎてしまった。
屋敷につき馬車を降りると、私の視界はひらけ、腕も自由になった。けれどまわりを見渡す気力も意思もなくなってしまった私は、監視の者に背を押され、仕方がなく歩を進めていた。
すると突然、あたりが騒がしくなり、私はそちらへ顔を向けた。私の方へ寄ってきた屋敷の者達が朗らかな笑顔で私に頭を下げ、楽しそうに話しかけてきた。無愛想で鋭い視線を持つ監視達との違いに、私は、驚いて立ち止まった。
私とあの男は、あの男からの熱烈なアプローチの末結ばれたという設定のようで、私は侍女達から蝶よ花よと可愛がられ侯爵領での日々を過ごしていた。
若様を本気にさせた私、を、屋敷中の者達が大事にしてくれる。
「若様はいつも他人に対して無関心で。」
「結婚も家の損得ですると思っていたので。」
「やっと愛する人と巡りあえて。」
良かった、と皆が口を揃えて言う。
「小さい頃は素直だったのに。」
「成人してから大人ぶって。」
だから安心した、と言うのだ。皆が。
私はその度に、この人達を裏切り続けているあの男の姿を思い浮かべた。慕われれば慕われるほど、辛いのかもしれない。
「でもまさか、若様がこんなにも情熱的だったなんて。」
「やっぱり、血筋かしら。」
若い侍女達が私のお茶を準備しながら、普段のブライクさまはどういった方なのですか、という私の問いに対して大いに盛り上がっている。
「旦那様も、奥様を迎え入れるためにあらゆる手段を使ったのだから。ふふふ。」
二人は顔を見合わせると、声のトーンを一段落として囁いた。
「旦那様は、王族ですでに婚約者がいた奥様を口説き落とすために、毎日手紙とプレゼントを送ったそうです。」
「奥様が油断した隙に、あっさり既成事実を作って陛下から結婚の承諾を得てしまったのですって。」
き、き、きき。
既成、事実。
何て、はしたない。
王の側近である侯爵家の嫡男が、婚姻前の貴族の娘に手を出すなんて。あるまじき行為だわ。それはもう、徹底的に糾弾されるべき。しかも、相手はただの貴族の娘ではない。王族の、お姫様。王族に、手を出すなんて。
王族に、手を、出す。
ですって。王族に手を出すことなど、そもそも、許されるの。許される、はずがない。
婚約者のいるお姫様が、強引な侯爵に無理矢理さらわれ、結婚させられる。
なんとなく。似ている。いいえ、似ていない。いえいえ、とても、似ている。私の、今の状況に。似ているような、似ていないような、侯爵夫妻の婚約事情に、何か深い事情があるのだろうかと私は疑ってしまった。
まさか、夫人も、脅されたのだろうか。
いいえ。あの男は、任務についているのは侯爵のみと言っていた。夫人はきっと、何も知らない。
夫が魔族だと知ったら、王族の夫人は、どうするのだろう。
「はじめまして。私とても嬉しいの。娘が新しくできるなんて。」
そう優しく囁いて、私を抱きしめた侯爵夫人は、とても美しく、凛とした女性だった。侯爵と寄り添う姿がとても自然で、ため息が出そうになった。
侯爵夫妻と私の顔合わせは、とても和やかに過ぎていった。男は私に寄り添い、私の足りない部分を自然と補ってくれた。私を見つめて微笑み、私の言葉を聞いて頷き、まるでお姫様のように扱ってくれた。けれど私を可愛がるその姿が、実は母親を騙すためだけの行為だということを私は知っている。侯爵も当然、息子が演技をしていることには気づいているのだろう。
自分の母親を騙すことは、辛く、とても淋しいだろうと私は思った。侯爵もこの男も、いったいどのような気持ちで毎日を過ごしているのだろう。それとも国のためならば、このようなことは当たり前のことなのだろうか。私がその立場にいたら、同じことができるだろうか。私は母の顔を思い浮かべた。私には、とても、できそうにない。
和やかなお茶会は、私にはとても居心地が悪かった。
「まあ、遠乗り。では乗馬ができるのね。素敵だわ。」
夫人に何が好きかを問われたので、私は男に視線を送った。男が目で私に答えるよう促してきたので、私は強張った肌を落ち着かせて口を開いた。両手に噴き出している汗を握りしめて隠し、私が遠乗りと答えると、夫人は思った以上に興奮して目を輝かせ、それから、呟いた。
「あの子も遠乗りが大好きだったわね。」
夫人の言葉に私は嬉しくなった。ここで乗馬ができたなら、少しは気が紛れるかもしれない。
「まあ、誰のことでしょうか。是非今度ご一緒したいですわ。」
私は何も考えず、夫人に尋ねた。
その時、ずっと穏やかだった夫人の顔がひきつり、体が震えだした。侯爵が夫人の肩を抱きよせ部屋から出るよう促し二人は立ち上がった。私は二人の後ろ姿を呆然と眺め、そして聞こえてきた音に、耳をそばだてた。何だろう、この音は。それは小さな獣の赤ちゃんが、初めて見る相手へ送る威嚇のような、小さな呻き声のような音だった。それが徐々に大きくなり、いつの間にか、声に変わっていた。
「一緒になど行けないのよ。あの子はどこにもいないのだから。あの子はいったいどこへ行ってしまったの。ああ、どうかあの子を私のもとへ帰してちょうだい。」
それは、悲鳴だった。
そこには確かに言葉のようなものが並べられていたけれど、私にはそれは悲鳴にしか聞こえなかった。そしてそれはまた徐々にただの音になり、呻き声になった。夫人は頭を抱えて夫の腕の中で泣いていた。
「先に退出するよ。申し訳ないね。」
侯爵の言葉とともに、二人は扉の向こうへと消えていった。突然の沈黙に、私の心臓の音が、男の元まで届いてしまいそうだ。
私が放心していると、微笑むのをやめた男が、無表情に、紅茶を一口すすり、話し出した。
「母にはもう一人娘がいて、10歳の時に行方不明になった。」
男は変わらず、坦々としていた。まるで他人事のように坦々としていた。私は不思議に思って、つい尋ねてしまった。
「貴方とは、血が繋がっていないのですか。」
同じ母親から生まれたのに、血が繋がっていないわけがない。そんなことは分かっている。分かっているのに、男のあまりにも無関心な態度に、私は思わず愚かな質問をしてしまった。
当然、男はなぜと不思議そうな顔をした。黒い瞳が怪訝そうに私を見ていた。そして頭を振った。
「いや。血の繋がった、正真正銘、私の妹の話だ。」
ワタシノイモウト。その言葉に私はなんと返していいのか分からなくなった。悲しそうならば何か声をかけようと思うのだけれど、あまりにも起伏のない説明に私はどう反応すべきか、悩んでしまった。
「そう、でしたか。失礼いしました。それは、とても、心配、ですね。」
ぎこちなくなってしまった私を、男が見つめてきた。それから少しの間の後、男が私の頬に自分の手を添え、お互いの目が合うように促した。私は始めて、黒い目を間近で見つめることになった。
「妹は、魔の国にいる。17年前、妹は行方不明になった。連れていったのは、父。その直前に、魔の国に居た祖母が危篤となり、妹を連れて行くしかなかった。」
この突然の告白の意味が、私には分からなかった。けれど私がやっとその状況を理解しはじめた頃、男が疲れたように呟いた。
「私達は誰のためにも働いていない。ただ、人質になっている家族を守りたい、それだけだ。」
はじめて見たその本心と淡々とした姿に、私はつい男の方へ手を伸ばそうとして、やめた。自分の行動に驚いて、私は両手を握りしめると、はやく大きくなっていく心臓の音を止めようと必死で息を整えた。
「そこでオリビア嬢、貴方の弟が優秀だと聞いた。私の手元で、育てたい。」
弟。弟を、手元に、置く。なぜ。混乱した頭で、私は必死に考えた。
「ご両親に打診したら、ぜひ任せたいと。」
ああ、この男は。人質をとられる悲しみを知りながら、同じことができるなんて。
私を見つめる黒い瞳が、深い穴のように思えてきた。きっとこの男には、血も、涙も、何もない。私は笑えてきた。先日、私はこの男を聞いていた魔族と違うと言った。魔族は、人族を見れば襲いかかるような野蛮で、言葉も通じない狂人、この男をそうではないと、私は言った。
ああ、私は本当に愚かで人を見る目がない。
この男は間違いなく、魔族だ。
この男は、狂ってる。
あれから私の心は凍ったまま、男と会うこともなく一月が過ぎた。通常貴族の結婚には婚約から結婚式までに一年くらい時間をかける。それをこの侯爵家は、一月で進めたようだ。
私は白いドレスとヴェールをまとって、微笑んでいた。隣で男も、幸福そうに微笑んでいる。
沢山の人達が祝福やらからかいの言葉を投げかけてきた。男はそんな人々の声に応えるように手をあげると、私のヴェールを持ち上げた。一月ぶりに見た黒い目は、今日も無表情で、静かに私のことを見つめていた。
私はこの一月を、結婚の準備に加え侯爵家や貴族としての勉強や練習で目が回るような忙しさの中で過ごしてきた。
夫人とは一度だけお茶をした。恥ずかしいところを見せて申し訳ないと謝る夫人が小さく見えて、私も申し訳なさで自分に腹が立った。私がきちんと貴族の情報を覚えていれば、あの話題をそらすことができたはずだ。認めたくはないけれど、やはり、私は未熟で愚かで、きっと侯爵家の新妻としてはふさわしくない。
この男とは一度も会うことがなかった。騎士である男はそもそも領地の屋敷には帰らず、ずっと王都の屋敷にいるらしい。戦争の噂があり帰ってこれないのだと、騎士である男をかばう侍女達に、私は心の中で違うと否定した。帰ってこれないのではない、帰ってこないのだ。私に会う必要などないと思っているのだろう。
それでいい、私も、会いたくない。
けれど、会わなければ、話さなければ、何も聞くことができない。私は、何をどう考えて、誰を責めればいいのか、分からない。
そして迎えた今日という晴れの日、男は私を見るなりニコリと微笑み、大げさに私の体を抱きしめてきた。私も、少し抱きしめ返した。これでいいのだろうか、私の役割は。
何も考えずとも式は進み、二人は唇を重ねた。交わされた口づけは味気なく、私はとても悲しくなった。なぜ私はここに立っているのだろう。私は伯爵領で、優しい婚約者と結婚するはずだったのに。