見つめあう
「その少女は。」
俺は、予想より早く現れた父に目礼をし、状況を説明した。
「伯爵家のオリビア嬢です。無理矢理ここに連れ込みました。私の何かに、気づいているようです。」
父は、微かに表情を歪め、気絶している少女を見下ろし、哀れみの含まれた声で呟いた。
「面倒なことになったな。」
俺は同意し、スーツの内側に隠してある小型のナイフに手を伸ばした。
「始末、するべきかと。」
指先が、冷えた感触に触れる直前に、俺は目を閉じた。まるで赤子のように安らかな顔をした、無力で無害な少女。もう何度も。何度も、何度も、何度も、繰り返してきたことだ。俺はナイフを握りこみ、少女の横に移動した。この国で最も安全であるべき王宮ですら、いや、王宮だからこそか、刃傷沙汰は珍しくもない。この小さな命のことも、直ぐに皆の記憶から消えるだろう。
俺は血が飛び散らないようソファに掛けられた厚手の布で、抱え込んだ少女の頭周辺を包みこみ少女の首筋にナイフを当てた。
その時、背後に移動してきた父の手が俺の肩に触れ、強く、掴んだ。
「この少女をか。私達は、いったい。」
見上げた父の顔に表情は無く、だが震えている父の手からその動揺が感じられた。俺は動きを止め、父の次の言葉を待った。
「伯爵家の者なら、二、三日なら黙らせておくぐらいはできる。その間にお前が落とせ、方法は、なんでもいい。」
甘い。俺は首を左右に振った。
「始末したほうがはやいかと。この少女は、何か、嫌な予感がします。」
俺の言葉に、父は駄目だと呟いた。
「まだ少女だ。殺すな。いいか、当主は私だ。」
父の強い口調に、俺は仕方がなく頷いた。
王の側近である父は、社交が上手い。父は、必要な場所に必要な人や物を繋げる能力に長け、双方から感謝されることで確固たる地位と人脈を築いてきた。
そしてそれが、父の生来の質であるから無理が無く、多くの人から愛されている。
だが、余りにも多くの物事を抱えざるを得ない父は、疲れきっている。それでも、この小さな少女とすら先ずは向き合うことを、選ぶようだ。
「分かりました。」
俺はそう答え、ナイフをしまった。
父は甘い。俺が、やらなければ。
俺は廊下脇の休憩室を出て、周囲を窺った。廊下に人は多くいたが、騒ぎにはなっていない。
伯爵は、娘が消えたことに気づいているはずだ。それでも騒がずにいる。様子を見るためか、醜聞を避けるためか、どちらにせよ賢明な判断だ。騒いだところで、伯爵風情が王宮の中を暴くことなどできないだろう。実際、この廊下脇の待合室や個室すら中を確認する許可などおりないだろう。この休憩室も、父が我が家のために密かに都合をつけている部屋で、他の人間は入れぬよう見張られている。
俺は何食わぬ顔で、オリビアをどうするかを考えはじめた。
何かが、おかしい。
体に違和感を感じながら私は目を開けた。そしてすぐにその理由に気がついた。私は生まれてはじめて拘束されていた。椅子に座ったまま、体が動かない。
私は一体、どうしてしまったのだろう。
頭が重くて、何も考えられない。
「おはよう、お嬢さん。」
聞こえた声に、引き寄せられるように私は顔をそちらへと向けた。そして、息を飲んだ。
ああ、また。
黒い。
そして鳥肌が立ち固くなった肌に、私は王宮の廊下での出来事を思いだしうつむいた。
「あの状況で意識を手放すとは、大したものだな、貴女は。」
磨き上げられた大理石の床を見つめながら、私は柔らかい男の声を聞いていた。
柔らかいけれど、硬い。
私を見下し馬鹿にしているその言葉に、私は何かを言い返さなければと思った。思ったけれど、震える体から言葉が出てくることはなく、私はただ唇を噛むしかなかった。
確かに、あの状況で意識を手放せば、あっさり殺されていたかもしれない。私は、愚かな選択をした。
けれど。
賢い姉達なら、状況を把握して逃げ出す策を考えつくのだろうか。あの恐怖の中で、できるのだろうか。
男が私に近づき、噛まれて血がにじむ私の唇に手を伸ばし、赤い血を拭った。
「馬鹿にしているのは、理解できるんだな。」
私は頭を振り男の手から逃れると、黒の中心に目を向けた。そこには侯爵家のブライクさまの顔があり、私は、初めてそれを見ていた。
唇の両端が少しあがり、笑っているように見える。けれど、その目が、ただの石のように黒く、光を持っていなかった。底の無い穴のようなその目の中に落ちそうになって、私は震えた。
男は震える私の頭を掴み、私の耳に唇を寄せ、優しい声で、囁いた。
「オリビア嬢。単刀直入に聞こう。貴女の知っていることを、教えてくれ。」
いや。
なぜ。
私の秘密をこんな男に教えるなど耐えられない。はやくここから出たい。誰か助けて。こんなのは何かの間違いだ。きっと夢を見ているのだ。悪い夢ならはやく覚めて。
私の頭の中は私の心の叫びで渦巻いていて、まともな思考が全くできない。
秘密を知られないためにはどうすればいい。逃げるには。そのための方法は。誰かが助けに来てくれるの。分からない。私には、分からない。
私には、何も、分からない。
う、うぁ、うう。
絞り出すように口から出てきたのは嗚咽で、あふれ出る涙も、私は止めることができなかった。何も考えることができない。なぜ泣いているのかさえ、もうよく分からない。
話すことなど、できない。
はぁ。
あからさまに不機嫌なため息が聞こえて、私の体が固まった。男は私から離れ、話しはじめた。
「貴女は訓練された人間ではない。訓練された人間は、窮地で意識を失ったりしない。貴女には才覚もない。私という交渉相手が目の前にいるにもかかわらず、交渉しようとすらしなかった。コネも力も美貌もない、弱くて愚かな少女だ。」
男の言葉には、表情がなかった。心の底からつまらなそうだった。私をつまらない人間だと、言っているのだ。
私はいたたまれない気持ちになって、何かを言わなくてはとまた歯を食いしばった。けれど、涙と鼻水がじゃまだからか、私の唇はただ空気を吸い込むことしかできなかった。
男は、そんな私に、最終通告を行った。
「オリビア嬢、貴女に残された選択肢は二つ。」
男の声は柔らかく、優しかった。
「一つ目は、知っていることを全て話すこと。二つ目は、死。」
私の世界が、止まった。
視界は真っ黒に染まり、音も匂いも感覚も、全てがなくなった。身体も動かない。心臓も止まり、息もできない。それなのに、頭の中に渦のように言葉がおしよせてきて、私の心を、揺さぶった。
死ぬ。ここで。理由も分からないまま抵抗もできないまま。死ぬの私。お父様お母様ごめんなさい。私がもっとしっかりしていればこんなことにはならなかった。あの時この男と目が合わなければ。この男から逃げていればよかった。ごめんなさい。私が悪かったのだ。いいえ。いいえ。私は悪いのかしら。悪くない。私は何もしていないのに。地味に目立たず生きてきたのに。悪いのは全てこの男。
なんなの、この男は。
逃げようとして体を動かそうとした私は、感覚がなくなり言うことを聞かなくなった体に絶望した。それでも、私は叫ぼうとして口を開けた。けれど音がなくなった世界に声が響くことはなかった。私は知るために、目を開いた。けれど真っ黒に染まった全てがじゃまをして、真実を掴むことなどできなかった。
「どちらがいい。」
音のなくなった私の世界を破った柔らかい声に、私は苛立ち、息をすることを思い出した。私は喘ぐように空気を吸い込み、生きることを、決めた。
この男の好きになど、させない。
私は顔をあげた。
黒い目が、私を捉え観察していた。
こわい。
こわい、こわい。
私は歯を食いしばり、震える心と体を宥めた。そしてゆっくりと、口を開いた。
こうして私は、11歳の時にできた秘密をはじめて誰かに明かすこととなった。