ブライクさま、と呼ばれたい。
あの日から十月
「リビィ、調子はどう。」
私を気安く愛称で呼ぶようになったブライクさまが、ぽこりと膨らんだ私のお腹に視線を落としながら尋ねてきた。
「体調は悪くないのですが、体が、重くて。」
ふうと息を吐きながら私が椅子に崩れ落ちると、ブライクさまの手が伸びてきて私の腰を支えてくれた。
ありがとうございます、とお礼を言いながら、今日こそはあの話題に触れてみようと私は意気込んで口を開いた。
「ブライクさまは、あの、周りの、皆からは、その、なんと、呼ばれているのでしょうか。」
何気なく話しはじめたつもりだったけれど、なんだか気恥ずかしくて私の言葉はしどろもどろになってしまった。
そんな私の隣に腰掛け、ブライクさまは不思議そうな顔で私の顔を覗き込んできた。そして全く私の話の意図を理解していない的外れな返答をよこしてきた。
「ご主人様。だが、それが何か。」
そんなことは知っている。ブライクさまがこの屋敷の使用人達からそう呼ばれていることは、もちろん私は知っている。どうしてここで、この場面で、私の照れた表情を見ながら、そんな答えが思い浮かぶのだろうか。私は眉根にしわを寄せて再び口を開いた。
「いえ。あの、その、もっと親しい方々からは、なんと。」
ああ、なるほどそういうことか、と頷いて、ブライクさまが固まってしまった。
その間の抜けた表情に、私は目を丸め必死に笑いをかみ殺した。一体どうしたのだろう。あの顔。いつも落ち着いているブライクさまがあんなに間の抜けた顔をするなんて。いつも一歩、いいえ三歩も十歩も先を読んで物事に対応するブライクさまは、当然相手の返答も予測して対応しているのでめったに表情を崩すことなんてない。それが、あの、顔、ぷぷぷ。
固まっていたブライクさまの体がゆっくりと動き出し、一点を見つめていた黒い瞳が上下左右に不安げに動き出した。
もしかしたら、触れてはいけない内容だったのだろうか。私は考え込んだ。ブライク、という名前は今流行りの名前ではない。古い物語に出てくる立派な騎士が名乗るような、重くて少し仰々しい雰囲気を持っている。ブライクさまにはとても似合うと私は思うけれど、もしかしたら嫌いなのだろうか。あるいは、ブライク、は切りどころが難しく愛称がつけにくいという欠点があるからかもしれない。
私が考え込んでいると、ブライクさまがゆっくりと話し出した。
「君は、俺のことを、ブライク様、いやブライクサマ、さま、と呼ぶだろう。」
この突然の指摘に、私は苦笑いを浮かべた。私は最初、この名前をうまく発音する事ができなかったのだ。ブライク、と、様、を繋げて言うことができず、結果的にブライクさまと発音していた。誰にも注意されることはなかったけれど、本人からすれば不愉快だったのかもしれない。
人の国に居た頃、「ブライク様」という呼び方がブライクさまのイメージ通りの呼び名だったので、私も何度も何度も呼び方をなおそうとした。けれど、結局、「ブライクさま」としか発音できなかった。それからだんだんブライクさまが変わり、私も変わり、最近では「様」よりも「さま」のほうが合っていると私が勝手に思い始めたのでそのままになっていた。やはり気に障ったのだろうか。
真剣な表情になったブライクさまに、申し訳ない気持ちが膨らんできて私は俯いた。
「実は、はじめてその呼び方を聞いた時は、その、あまり馴染みがなかったので、あまりいい気分ではなかった。」
言葉を選びながら言葉を発したブライクさまに、私はうなだれた。涙が出そうだ。恥ずかしい。
私は深々と頭を下げ謝罪した。
「申し訳ありません。これからは、ブライク様、と呼びますので。」
「様、とも発音できるのか。」
驚いて少し大きめの声を発したブライクさま、様に、私も驚き小さく頷いた。
「はい。はじめは言えなかったのですが、今は言えるようになりました。」
私の口元をじっと見つめ、ブライクさま、様は、何かを悩んでいるようだ。
「あの、ブライク様、どうしたのですか。」
全く動きのなくなったブライクさまに、私はおそるおそる声をかけてみた。すると大きな両手が、私の薄い両肩におかれた。そして今までで一番真剣な表情で、ブライクさま、様は、とぎれとぎれ言葉を発していった。
「いや。違うんだ。最初は、確かに、その、軽そうな娘だと思った。」
私は唇を軽く噛んだ。
「けれど、なぜか、その、何度も聞いているうちに、その。」
ブライク様はなぜかしどろもどろで必死に何かを伝えようとしていた。一体何なのだろう。気になり私がブライク様の黒い瞳をとらえると、それはゆっくりと反らされた。そしてブライク様は観念したように一気に言葉を吐き出した。
「かわいいと思えてきたんだ。」
私は一瞬その言葉が理解できず、つい、え、と聞き返してしまった。
するとブライク様は私から背けた真っ赤に染まった顔を更に下に向け、もごもごもごもご口の中で何かを呟いた。
「だから、かわいいと思えてきたんだ。いや、思っているんだ。だから。」
ぼっと体が燃えるように熱くなり、私は真っ赤になった頬を両手で抑えた。
「ブライクさま、と呼ばれたい。ということなんだ。」
私はあまりの恥ずかしさに耐えられなくなりたくましいブライク様の胸に顔を埋めた。けれどそこには私以上に緊張して早鐘を打つ心臓があり、その音を聞いていたら私は全く心を落ち着かせることができなかった。しばらくそのままその音を聞きながら目を閉じ体重をブライク様にあずけていると、舞い上がっていた心はしずまりむしろ落ち着いて心地よくなってきた。私は見上げて、頷いた。
「わかりました。ブライクさま。」
それにしても、ブライクさまのこの照れた表情や動作はとても意外だった。ブライクさまは表情など変えずに甘い言葉などいくらでも囁くのではないかと思っていたからだ。
「意外でしたわ。ブライクさまは、もっと慣れているかと思っていたので。」
私は動揺していて、つい思ったことを口にしてしまった。口にしてから、後悔した。こんなこと本人に言うべきではなかった。
事実、正面のブライクさまは気まずげに、視線をさまよわせてから重たい口を開いた。
「オリビア。言い訳ではないが、あれは、情報収集だったんだ。俺が行える一番手軽な方法だった。」
情報収集。突如ブライクさまの口からこぼれたこの状況に似つかわしくない単語に、私は唖然とした。ブライクさまが流していた数多の女性達との浮き名は、情報を得るためのものだったのか。
「彼女達には、美辞麗句を並べていた。けれど君には通用しないだろう。」
ブライクさまはすっと私の顎の下に指を添え顔を上向かせると、鼻と鼻がつきそうなほどに顔を寄せ、低い甘い声で囁いた。
「オリビア。どうかその美しい瞳は俺を写すことだけにつかって欲しい。」
通用します。私はあまりの甘さに目を開けていられず、クラクラしてきた頭を振った。けれどもうしばらく酔いしれていたい気持ちもある。こんなことを皆に伝えていたのだろうか。私はお姉様がブライクさまのことを女の敵だと言っていたことを思い出した。当たっている。この人は女の敵で間違いないだろう。
はぁと心の中で盛大に溜め息をついて、きっと私を見て笑っているだろうブライクさまに視線をやった。
案の定ブライクさまは私の反応を見て笑っていた。くっ君は本当に初だな。と楽しそうに笑っている。そして大きな手を私の頭に乗せるとさらりと髪をなでた。
「オリビア。俺が今まで並べてきたのは、いわば定型文だ。」
この人は本当に女の敵だ。定型文で女を落としてきたなんて、姉が聞いたら怒り狂うだろうなと私は楽しくなってきた。
「けれど君とは本音で、向き合いたい。」
ブライクさまの黒い瞳の中に私を写った。
「本音を口にするのは思っていた以上に勇気がいるし、恥ずかしい。けれど君は、聞いてくれるだろ。」
私はにこりと微笑んだ。不器用なブライクさまが愛おしい。私だけのブライクさま。