弱くて愚かな少女、強くて賢い青年
完結します。
暗くて狭い通路に、彼の足音が規則的に響いていた。
私は大人しく彼の腕の中で息を潜めていた。この状態、いわゆるお姫様抱っこ、は恥ずかしい。けれど今はもうそんなことは言っていられない。地上からの地響きで、この通路自体も少し揺れている。もう侯爵の屋敷付近まで、魔族が進軍して来たのだろう。私達の間にあった空気は柔らかいものから一転して緊張感の走るものとなっていた。
良かった。先ほどの話をうやむやにできて。とにかく今は、一緒に外へ出なくては。
そう思いながらも、つい耳元にある規則正しい鼓動に聞き入り安堵してしまう私は、すでに十二分に彼に惹かれてしまっているのだろう。私はそっと、心の中で溜め息をついた。
暫くすると長く一本であった道の先に壁が現れた。彼は迷うことなく、右へと歩を進める。
私はふと、彼の言葉を思い出した。確か、右に進めば東の領地に出られると聞いた気がする。今人の国へ向かえば、魔の国では侯爵と彼は裏切者にされるだろう。私は慌てて、彼の腕を強く掴んだ。
「待ってください。魔の国へ、向かわないのですか。」
私の問いに彼は無言で頷いた。私は驚いて少し暴れ彼の腕の中から地上に滑り降りた。
「そんなことをしたら、人質の命が危険に晒されてしまいます。」
私は侯爵から聞いた話を思い返した。確か、魔の国での侯爵の地位は子爵。その本家の侯爵家は、密偵が裏切った場合は子爵家に縁のあるものを全員処刑すると言っている。その対策として子爵家は密偵の一親等の家族、彼の妹を人質に取ったこと。しかしその妹が子爵家、侯爵家の手を離れ、現在は公爵の妻となっていること。
私の身体を名残惜しそうに手放してから、彼はゆっくりと頭を左右に振った。
「妹は今や公爵家の奥方だ。そうそう手出しはできないだろう。それに今魔の国は情勢不安だ。魔王陛下が、全く人心を掌握できていない。本家の侯爵家がもし、子爵家に縁のあるものを皆殺しにすることを魔王が黙認すれば、魔王への反発は更に高まるだろう。魔王陛下の思考回路は複雑怪奇だが、頭が悪いわけではない。」
私にはよくわからなかったけれど、魔の国の政治的な状況も、彼の妹に味方しているようだ。けれど。
「そうなのですか。私には、よくわかりませんが。その、その公爵自身が裏切り者を許せず、その家族である妹さんとも離縁する、と言い出す可能性だってあるでしょう。もしそうなったら。」
私の最悪の想定に重い空気が流れた。離縁されれば、命の保証はなくなる。首謀者の家族の処刑ならば反魔王勢力にも容認されるだろう。地下は只でさえ酸素が薄いのに、更に息苦しくて、私は喘いだ。
「だが魔の国に渡れば、君はもう二度と人の国には戻れないぞ。それに君の家族がどうなるか、正直わからない。」
彼の指摘に、私は家族の顔を一人ずつ思い出して俯いた。迷惑はかけたくない。けれど彼の妹を危ない目に合わせることもできない。
「陛下は、温厚な方だと聞いています。私が魔の国に渡ることで、家族を見せしめに処刑するようなことはないと思います。例え家が取り潰されたとしても、どうにかなるだけの繋がりを我が伯爵家は持っております。」
力強く断言した私に、彼は一瞬迷いの表情を浮かべた。けれど、もう一度静かに首を左右に振った。
「俺の家族のために、君の家族を犠牲にはできない。」
けれど私も、ここは引き下がれない。
「ですが、もし、妹さんが殺されたら、私は自分のことが許せず後悔します。」
私は一息ついて、続きの言葉を囁いた。
「それに、貴方が悲しむ姿も、見たくない。」
私の囁きに、彼は目を細めると私の腕をつかんで無理矢理目線を合わせてきた。
「随分思わせぶりなことを言ってくれるじゃないか。わかっているのか。君は、魔の国では異質だ。頼れるものは、俺だけになるだろう。」
彼の真剣な表情に私はたじろぎつつ、目をそらすことはできなかった。
「そんな場所で俺に愛されて過ごす覚悟が、君にはあるのか。」
私は何を言われているのか一瞬わからず、考え込んだ。頼れる人は一人だけ。その人は私を愛している。らしい。要するに、私が彼を愛してしまうような状況に追い込まれてもいいのかと問うているのだろうか。
私はくすりと笑ってしまった。彼は一見強引そうにみえて、私の意志を最優先で考えてくれている。
その瞳に、私も口先だけのごまかしは失礼だと覚悟を決めるしかなかった。
「私は。」
なんと言えばいいだろう。自分のことを言葉にするのは、とても難しい。
「私はそのように、誰かから愛されるべき人間ではありません。」
覚悟を決めた私に、彼も正面から向かい合う。
「侯爵にも、言いそびれてしまったのですが。あの方は、まるで私を聖女か何かだと勘違いされたようで。私は、そのような素晴らしい人間では、ありません。」
侯爵に伝えるべきだったかはわからない。私のもう一つの秘密を知れば、侯爵だとて私のことを優しいとは表現できなかったことだろう。私は、優しさとは対極にいる、そんな女だ。
「聖女。あの、貴族でありながら、平民にも無料で魔法を使ったという、癒やしの聖女のことか。」
私は頷きながら彼から目をそらし俯いた。
「聖女様は、高度な水の癒やしの魔法を、誰にでも無料で平等に使ったと聞いています。侯爵は、私があの能力を使わないのは、使うことで他の人の人生に影響を与えてしまうかもしれない。他の人のことを考えてだと、私のことを優しいと、私の至らない説明のせいで勘違いされたようです。」
侯爵との会話を思い返しながら、同じ誤解を招かないように私は言葉を選んだ。彼に知られたら軽蔑されるかもしれない。それでも、私の本当の姿を、知って欲しい。
「違うのです。本当の私は。私は、自分の幸せのために、他の人が魔法のことで苦しんでいても、見て見ぬ振りをしてきたのです。」
私は、優しくなんかない。
「私の母は、光属性魔法の持ち主です。」
この世界に魔法があることは恩恵だと言われている。けれど本当にそうだろうか。私には、呪いのように思えてしかたがない。
「けれど戦争に行ったことはありません。恐らく、他の属性で登録されているのだと思います。」
母は、魔法の才能は全くないといつも笑っていた。私はその嘘を、笑顔で受け入れていた。
「私はこの能力が特殊だと知った時に、光属性の魔法師は戦地に赴かなければならないことも知りました。怖かった。直接は関係ないけれど、この能力がきっかけで母が嘘をついていることが公になってしまったら。まして戦争に行くことになってしまったら、どうしよう。」
私は自分の体を抱きしめて、なんとか震えをやり過ごした。
「私は、国や他人のことなど、考えていない。自分の幸せだけを、望んでいるのです。こんな能力は、なかったことにしようと、ずっと思っていました。私は、貴方に言われたとおり、弱くて、そして、とても、とても愚かなのです。」
涙は流さない。責められるべき人間が泣くのは、狡い。
「オリビア。こちらを向いて。」
軽蔑されるかもしれないと身構えていた私に対して、彼の声は、優しかった。その優しさが、胸に響く。涙が溢れそうになる。けれど私は、泣いてはいけない。
「君が苦しい理由は、なぜ。考えてみて。」
小さな子供をあやすように、彼はゆっくりと私に問うた。
「私は、私達家族は、狡い。」
懺悔の言葉は重く、唇がうまく動かなかった。けれど伝えたい。彼が私に話してくれたように、私も、彼に。
「光属性の女性は、皆戦地に行かされています。けれど、母は、隠されて、守られて。」
女性が戦地へ赴くのは過酷だ。まして母の実家は子爵家。母が犯されようが、狂おうが、死のうが、何も言えないだろう。言っても、それが国のためだと一蹴されるだろう。
女性にとって、戦地での敵は敵兵だけではない。もちろん、規範はある。けれど血は人を狂わせる。愛国心の固まりのような父、陛下に人生を捧げている生粋の騎士である父が、母を隠し通すほどに戦地での状況は過酷なのだと思う。
私は母が好きだ。戦争になど行かせはしない。だから答えは決まっている。この能力を世に出せば、当然両親は調べられるだろう。例えば、遺伝なのか、どうか。そうすればもはや母を守ることはできない。だから、この能力は隠し通す。最初から答えは、決まっているのだ。
「私は、この能力は戦争を激化させるし、人を不幸にするものでもあると考えています。それは本心です。」
私は母から渡されたペンダントをドレスの上から握りしめた。もしかしたらこれは、お祖父様とお祖母様が母のために準備したものかもしれない。
「けれど、それ以外にもできることがある。癒し手が増えれば怪我人が減ります。戦争に勝てば平和が訪れるかもしれない。それがわかっていても、私はこの能力を使わないことを選びます。母を、隠し通すことを、家族の幸せを、選んでしまうのです。」
瞼の裏に、笑う母の姿が見えた。姉御肌の母はいつもカラカラと笑っていて貴族には珍しく豪胆な女性だ。
そして、走馬燈のように浮かんでくる、不安そうな、苦しそうな人々の顔。
「魔法のせいで、苦しむ人達を、沢山見てきました。私が真実を伝えれば、その人たちの苦しみを、和らげることができたかもしれない。彼らは、幸せになれたかもしれない。でも、私は何も言わなかった。」
彼は一度口を開きかけ、閉じた。慎重に、言葉を選んでいるようだった。
「君が、彼らに対して申し訳ないと思っているなら、君は、十分優しいと思う。本当に優しくない人間は、自分を優先した上で、他人のことで泣いたりしない。」
彼の言葉に、泣いてはいませんと口を動かした私に、彼は苦笑した。泣いているように見えるよ、と私の瞼をなでる。私は触れられる心地良さに目を閉じた。
「けれど結果は一緒。どんなに泣いても申し訳ないと思っても、結局は自分を選ぶのですから。優しくないのと、一緒です。私は、彼らを救えなかった。いいえ、救おうとすらしなかった。」
私は自分の手の平を見つめた。小さくて、細い。白くて、苦労知らずな手。頼りない。誰も、何も、掴めそうにない手。
「オリビア。人の人生はその人のもので、君が、背負うべきものではない。その人が選んだことで、悲しみや苦しみがあったとしても、喜びもまたあっただろう。例えそれが最善の選択ではなかったと君が知っていても、その人の意思を尊重すべきだ。君が彼らの幸せの責任を背負おうなんて、無理な話だ。それにありがた迷惑だ。彼らの人生は彼らの手に委ねる。それでいいと、俺は思う。」
私の手に、そっと伸ばされた手は大きく節くれだった力強いものだった。
「ですが、私は、正しくないでしょう。私には、人としての正義とか、愛国心とか倫理とか。そういうものが、ないのです。」
大きな手は、小さな手を握りしめた。けれど、私の震えは、止まらない。
彼の腕が遠慮がちに私の体を包み込んできた。
「俺にも、正義はないよ。君を殺そうとした。」
そんな彼の言葉に、私は小さく頭を振った。
「騎士である貴方は、国と民のために命をかけています。侯爵もそう、政治家として、国のため、民のために働いていました。」
私はずっと怯えていた。この能力を隠すために、目立たず、親しい友人も作らず、ひっそりと生きようと思っていた。
「複雑な事情がありながら、貴殿方が国を、民を愛しているのは、この地を見ればわかります。」
私はこの領地の美しさを思い出した。
木々が青々と茂り、沢山の果実や木の実をつけている。麦穂が風に揺られ黄金色に輝き、赤青緑黄と色とりどりの野菜が大地から顔を出す。鮮やかに色づいたこの領地は、力強く、生き生きとしていて息を飲む程美しい。
それに比べて北の王都は、いつも曇っていて薄暗く肌寒かった。植物は細くて弱々しい。人もなんとなく、いつも青白い顔をしていた。
侯爵の屋敷では、使用人達がまるで自分の家族のように侯爵や彼のことを見守っていた。彼の幸せを願って、私のことを大切にしてくれた。
この地の領民の声も聞いた。次期侯爵の結婚を祝うために訪れた多くの人々。心からの祝福と歓声。侯爵が亡くなった時の、絶望と悲しみ。
侯爵と彼は、魔族だ。領民を裏切っている。けれど、いいえだからこそ、その領民を愛し、彼らのために尽くした。私には政治的なことはわからないけれど、領地を豊かにすることが領民へのお詫びだったのかもしれない。いいえ、もしかしたらもっと深い意味があるのかもしれない。
私はどうだろう。この能力を隠すことしかしてこなかった。
「ああ、私の一番の罪は、何もしてこなかったこと。私は、私は、最低です。」
今、気がついた。なぜ、私は何もしてこなかったのだろう。
母を守るために、剣術を習えばよかった。魔法の勉強をすれば、お金を得る方法を考えれば良かった。
苦しんでいる人がいれば、声をかけてあげればよかった。泣いている人がいたら、一緒に泣けばよかった。
能力は関係ない。私は自分のできることを、すればよかったのではないか。
「俺は今までの君を知らないけど、君が俺を生かしたのは確かだ。君は俺を生かそうと必死になってくれた。ありがとう。俺は、君に救われた。」
彼の額が私の頭に押し付けられた。彼の温もりが私の体を包み込んだ。
よかった。この人に、手を差し伸べることができてよかった。この人を、救えてよかった。
「オリビア。俺は、君がどんな選択をしても君を愛そう。君が君を否定しても俺は君を肯定する。」
私を抱きしめた両腕にぎゅっと力がこもり、私は幸福に包まれた。
この人は、愚かな私でも、かわらず抱きしめてくれるのだ。
「父が最後に言っていた。君を大切にしろと。ずいぶんと吹っ切れた顔をしていた。きっと、君にだからこそ話せたことがあったのだと思う。」
侯爵の顔を思い出す。妻がかわいいと、無邪気に笑っていた。妻の代わりに子供たちを犠牲にすることにしたと、泣いていた。これから沢山の犠牲者を出すと、苦しんでいた。
ずっと一人で背負ってきたものを吐き出す事で、少しは楽になれただろうか。
私は目を閉じた。間に合ったのだろうか。こんな手でも、少しは救えただろうか。最後に見た侯爵は、笑顔だった。
そして彼も、ここにいる。
存在を確認するように、私は彼の背中に腕を回し力いっぱい抱きしめた。
頭の上から、安堵のような溜め息がこぼれてきた。
「オリビア。君が自分のことを弱く、愚かだと言うなら、それでいい。君は迷って泣いて苦しんで笑えばいい。そんな君を守るために、俺は強くて、賢い男になろう。」
ずっと目を背けてきた。怖かった。知られれば母を失うと怯えていた。この能力のことを考えないふりをして、ずっと囚われて何もせず震えていた。
けれど無理矢理さらわれて、この能力について考えさせられた。いつも私に優しかった家族。がんじがらめの侯爵。今まで出会ってきたすべての人々。そしてはじめて手を伸ばした彼を、思う。
私は目が覚めた。
私は弱い。愚かだ。美しくもない。臆病で卑怯だ。
けれど、それでいいんだ。私は、そんな私のまま、出来ることをやればいい。能力のことは、今はいい。できることを、できるだけやってみよう。
「私だけ、格好悪いですわね。」
恨めしそうな顔で彼を見上げると、彼がくくと喉の奥で笑い私の額に軽く口づけた。
そして真っ赤になった私を抱え上げると、彼は躊躇なく歩み始めた。
「一緒に行こう。魔の国へ。俺達は多分もう、離れられないだろう。」
茶目っ気たっぷりの彼の笑顔に、私は頷くしかなかった。
私達は多分もう、一生離れることはないと思う。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。
オリビアとブライクの恋の話はこれで完結です。
拙い文だったと思いますが、感想や評価などいただけたら非常に嬉しいです。よろしくお願いします。
さて、実はまだこの二人、これからもっと大きな出来事に巻き込まれていきます。このまま続けようと思っていたのですが、オリビア中心では何かと書けない部分が多いため、国王陛下に登場してもらうことにしました。違う物語になりますので、そちらもよろしくお願いします。
同時に、他のカップルも何組か書いていきたいと思います。次は、アンジェリカとユージーンかな。
もう暫く、この世界にお付き合いください。
よろしくお願いします!
2017年5月28日 一子