肌に響く
結婚式から数ヶ月が過ぎ、侯爵家にも馴染みはじめた頃。私は侍女達に囲まれ新しいドレスを誂えるための相談をしていた。
次期侯爵夫人として参加する初めての国王主催の舞踏会用のものを、どういった形にするのか、どこのお店に頼むのか、侍女達は私の身体を丹念に観察しながら議論を繰り広げていた。
「お腹の周りは少し緩めに取りましょう。いつ子ができても対応できますので。」
侯爵家専属のデザイナーは有能で、気が利く。通常のサイズで誂えては妊娠時に生地を伸ばすことはできないけれど、最初から緩めておけば妊娠しても、しなくても少し詰めればいいだけなので、安心だ。
けれどその可能性がないことを知っている私は、咄嗟の返答に口ごもってしまった。
すると侍女達が、少し休憩しましょうと、あれよあれよという間にデザイナーを部屋から追い出しお茶の準備をはじめてしまった。私は心の中で溜め息をついた。身内ばかりだからと、気を抜きすぎていた。侍女達の気遣いに、苦笑するしかない。
彼と私は、世間からは非常に仲の良い夫婦だと認識されている。
婚約者のいる私を奪うように連れ去り結婚してしまったことからはじまり、初めて夫婦で参加した親類の舞踏会では一時も私から離れない彼の姿に驚きと賞賛の声が送られた。
けれど、実際には夫婦が別々のベッドで寝ていることを侍女達は知っている。最初は、口にはせずともなぜと驚き訝しんでいた彼女達だけれど、今ではもうそれが日常となった。そして私達の実情が、彼女達にしてみれば心中複雑なのだろう。若様がやっと見つけた愛する女性だと思っていたのに、蓋を開けたら政略結婚よりもなお酷い二人の関係に、戸惑ったに違いない。同じ女性だからだろうか、私に優しい人が多い。
私はそんな彼女達に囲まれて、穏やかな日々を送っていた。
悪く言えば、何もしない日々を送っていた。朝起きて、一人で朝食を取り刺繍をし、午後は散歩や読書。私がしたいと思うことではなく、してもよいとされることをただこなすだけの日々。
夜には希に彼と言葉を交わす機会が訪れても、周囲の視線を避けて家族のことを聞き出すことはできなかった。
私は、真綿で包まれたように、優しく外界から切り離され一人で孤独と相対するしかなかった。だから侍女達の何気ない心配りに随分と救われている。
そんなことを取りとめもなく考えていたとき、ふと見た見本用の真っ赤なレースに、母の顔を思い浮かべた。
そして私はふとある考えに思い至り、侍女の一人に着ているドレスの襟首を広げてもらえないかとお願いした。それまで、休憩と言いながら、未だにああでもないこうでもないと言い合っていた侍女達が口を閉ざし、何が起こるのかと私達を見守っている。
侯爵家に来てから、首まで覆うデザインのドレスを好んで着ている私は、実はその下に母から渡されたネックレスをつけている。それは少し厚みがあるけれど小さいもので、ドレスの形を崩していないこと、開けることができるペンダントトップには通常遺髪を入れておくため、侍女達も何も言わずにそれを許してくれていた。けれど、このペンダントに入っているのは遺髪ではなく、小さな石だ。それは、私が成人した日に、母が何かあった時に使いなさいとそっと渡してくれたものだった。
この石は小さいけれど、黒地に青や緑が鮮やかに踊り、それを覆うように赤が煌めく不思議なもので、見る角度によって輝き方が変わる珍しい宝石だ。そして真っ赤な髪をした母の面影がある、私にとってとても大切なもの。
「実はこの中には、母から譲り受けた宝石が入っていますの。これを舞踏会で身に付けることはできるかしら。」
私の問いかけに、侍女達がわらわらと集まり私の手元を覗き込んできた。
「まあ、きれい。」
「珍しい柄ですわね。」
感嘆の溜め息がそこかしこから聞こえて、私は石を見せて良かったと安堵した。
その時、一番年配の侍女が若い侍女達の前に腕を出し、後ろへ下がるよう指示した。侍女の厳しい眼差しで、空気が一瞬で変わり、皆が口をつぐみ真剣な表情になった。年嵩の侍女は、チラと石を確認してから他の侍女達を退出させると私に向き直った。
ああ、私はまた何かを間違えたのだろうか。ひきつりそうになる口元をどうにか我慢し、私は考えた。ああ、そうか。この石の価値が低すぎるのね。実家の伯爵家は裕福ではない上、母は二人の姉達にも同じ様な、いいえ貴族として生きていく姉達にはもっと高価なものを渡したであろうから、この石が高価であるはずがない。
「あの、ごめんなさい。侯爵家に見合うようなものではないわね。」
おずおずとした私の言葉に、侍女は首を左右に振り両の手で私の手を包み込み、中にある石を握り込むように促した。
「若奥様。そうではありません。この石は、高価すぎるのです。」
侍女が何を言っているのか、私はすぐに理解することができなかった。私の呆けた表情が驚きに変わった時、侍女はゆっくりと言葉を続けた。
「これは侯爵家で扱えるようなものではございません。このようなものを舞踏会で身に付けては、悪目立ちしてしまいます。どうか大切にしまっておいてください。」
侍女は考え込んだ私を見て、そっと一礼してから部屋を出ていった。
高価すぎる宝石。
母は私が将来何かに巻き込まれたり、お金が必要になると予測していたのだろうか。なぜ。いいえ、もしかしたら娘三人ともに高価な品を渡したのかもしれない。いいえ、それはないわ。我が伯爵家の台所事情は芳しくなかったはず。持参金がないから三女は貴族に嫁げないのだと陰で言われていたことは知っている。実際はそこまで逼迫はしていなかったけれど、余裕があったとも言い難い。
まさか。母は気づいていたのだろうか。私の秘密を知って、苦労するのではと案じてこれを持たせてくれたのだろうか。
私の心臓が、ドクンドクンと大きな音を立てはじめた。
この心臓が止まる時まで誰にも言わずにいれば、無かったことにできるのではないかと思っていた。私は臆病で、誰かの人生を変えてしまうことが恐ろしいと、ずっと思っていた。けれど彼に捕まり侯爵とも話し、自分の能力に目を向けざるをえなくなった。でも本当はもっと前から、救える人達がいたのではないか。私が真実を話せば、楽になれた人達がいっぱいいたのに、私は、何も、言わなかった。
これもまた、罪なのだろうか。私は、罪を犯し続けているのだろうか。ああ、なぜこんな能力を持って生まれてしまったのだろう。私は何をしてよくて、何をしてはいけないのか。
ぞく、背筋を這い上がるこの悪寒は、彼の気配だろうか。あの日舞踏会で感じた恐ろしさは、大量の魔力に反応したものだと今は理解している。魔力が肌に響き、全身に鳥肌が立つ。それは人族か魔族かの問題ではなく、単純に、魔力の量の話。気付いたのは夫人に会った時だった。
人からでも、私の肌には、鳥肌ができるのだから。
バタンバタンと乱暴に扉が開けられ、侍女達の悲鳴の様な声が続いた。若様おやめください。制止の声を振り切り私の部屋に現れた彼は、切羽詰まった表情をしていた。
「魔族が攻めてくる。来い。」
私はなされるがまま硬く大きな手に二の腕を掴まれ、引っ張られた。
「皆はやく逃げるんだ。いや、家族のもとへ。」
彼の声が屋敷中に響き渡り、使用人達が下へ外へと右往左往する中、私達は上を目指して侯爵の私室へと辿り着いた。
彼はすぐに双眼鏡を取り出し、ぐるっと領内の様子を見回してから隣接する侯爵の執務室と会議室へと焦点を絞った。
「皆揃ってるな。」
ごくりと唾を飲み込んだ彼の背中に、緊張が走る。
「やはり、だめか。」
その呟きは、ドンという爆発音にかき消された。私は建物を揺らしたその衝撃に抗えず、床に膝をついた。自然と震えはじめる身体を叱咤し、壁を支えに立ち上がりかけた時、会議室が中から弾け真っ黒な煙に覆われた。花火のように火花が散り、ゆっくりと真っ黒な雨が降る。
「あぁぁ。」
カラカラに渇いた唇からは、まともな言葉は出てこなかった。跡形もなく消えた会議室には、この領地の重役達が集められていた。