オリビアという少女
私の世界には、少しだけ色が多い。
それは言葉通りの意味で、私の目には他の人には見えない色が見えるようだ。それは例えば、厚い雲の隙間から突然降ってくる稲妻のような鮮やかな黄色であったり、幾重にも塗り重ねられ膨らんだ絵の具のような緑色であった。
その色が、人を囲っているように、私には、見えるのだ。
あまりにも自然とそこにある色を、私は長い間疑うことなどなかった。だからこそ、誰かにその話をすることもなかった。
当然、誰にでも見えるものだと思っていたから。
けれど、あれは私が11歳、兄がもうすぐ15歳の誕生日を迎える頃、私は、突然、自分が普通ではないことを知った。
私が住む人の国では、15歳を成人とみなし、成人するその年の始めに、全国民が魔法の属性検査を受ける。その検査では、特殊な道具を使いその人の属性をみるのだけれど、分かることはそれだけで、そもそも魔法師に向いているのか、どのような魔法に向いているのか、どれだけの魔力量を持っているのか、その様なことは、一切、分からない。
この大陸で、魔法で成功する人はほとんどいない。多くの人達は、少し風を起こしていたずらができるくらいの力を持つにとどまる。
幸か不幸か、私は平凡に生まれた。
私は、中流貴族の三女として生を受けたけれど、顔の作りは地味で垢抜けず、物覚えも良くなかった。加えて、貴族に必要な意気地もなく、それを知った両親は私の貴族教育を早々に諦め領内の有力商人のもとに嫁がせることを決めた。そこに、愛がなかったわけではない。むしろ私は、家族からも使用人達からもとても愛されて育った。才覚がない私は商人のもとへ嫁ぐことになったけれど、ある意味それは、平凡な私を守るためだとも言える。
添う相手は誠実で、10歳年下の私を、丁寧に扱ってくれる男性だ。
それはさておき、私は姉達が退屈な歴史や社会情勢の授業中に少しよそ見をしただけで鞭打たれるのを横目に、大股で屋敷の中を散策する自由を手にしていた。だから私は、11歳のあの時まで、この国のことを、知らなかった。
私の小さな世界は、屋敷の中で始まり、終わっていたのだから。
私が暮らしている王都の伯爵家の屋敷はとても広く、力強い柱や厚い外壁には威厳があり、圧迫感がある。長い歴史を誇る我が家は騎士の家系で、領地の経営も安定している。それでも、広い入口から、豪奢な広間、応接室、来客用の部屋を抜けると、奥の家族用の空間は、とても、質素だ。
この奥の空間から、私は我が家を訪れる他の貴族や、若い騎士達、領民達をよく眺めていた。私は好んで奥ばかりで過ごしていたので、表の人達と直接会うことはあまりなかった。
その日も私は、花が咲き誇る美しい庭ではなく、その庭の端にある、庭に植えられることのなかったラズベリーを採り、それを両手一杯に溢れさせながら小走りで厨房に向かっていた。甘酸っぱい匂いと、真っ赤に熟れた実に胸が高なり、自然と足取りは大きくなりスカートの裾がひらひらと揺れていた。はやくパイが食べたい、私がこんがりと焼けたパイの姿を想像していると、廊下の端に、珍しい人物がいた。
兄は、いつもと違い落ち着きがなく、ラズベリーの汁で真っ赤になった私の両手を見て笑った。兄が子供のように無邪気に笑ったことに驚いて、私は兄が望んでいるのかと思いラズベリーを差し出した。兄は、真っ赤なそれを真っ白なハンカチに移して包み、従者に持たせた。それから私に向かって大人のように軽やかに微笑んで、パイが焼き上がるまでは待てないけれど、紅茶にジャムを入れていただく時間くらいはありそうだ、と、紳士の様に私の手を取りお茶に誘ってきた。大人の男性に、レディのように扱われ誘われたことに舞い上がった私は、空いたほうの手でスカートを持ちあげ軽く会釈をし、ご一緒しますわ、と、澄ました顔で応えた。私達は顔を見合わせて笑いあい、手を繋いだまま食堂へと向かった。
姉達以上に厳しく管理されている兄と、ゆっくり話しをするのは久しぶりだった。
私達は長いダイニングテーブルの両端に座り、厨房から運ばれてきた、できたてのジャムの鮮やかな色に顔を綻ばせた。
「ねえ、オリビア。僕の属性は、何だろう。」
兄は私の名を呼び、私を見つめながら私を見てはいなかった。いつも落ち着いている兄が、夢見る少年のように少し頬を赤く染めて、期待と不安に満ちた瞳で自分の手の中にあるカップを見つめ、握りしめていた。
兄の澄んだ瞳が、意を決したように、少し揺らいでから固まった。そして、兄は口を開いた。
「騎士の家の生まれだから、やはり、火属性が、良いよね。」
それは、私に問われたのか、兄の願望がつい口から漏れだしたのか、私には分からなかった。そもそも、私は兄が何を言っているのか、分からなかった。
私は小さく、首を傾げた。
「兄さま、ヒゾクセイガイイ、とはどういうことですの。」
兄の視線が私を捉えると、ああ、と頷いた。
「オリビアは魔法の事、まだ、学んで無いね。」
そして、小さな少女に勉強を教える家庭教師のような顔つきで、兄は続けた。
「魔法には、火水風土光闇の六つの属性がある。僕はいずれ戦いに出るけど、あまり剣術向きじゃ無いから、可能ならば攻撃魔法を身につけたい。そうすると、火属性だと助かるんだ。火属性なら殆どの魔法は攻撃魔法だから、攻撃魔法向けの鍛練を続ければものにしやすいからね。それに比べて水属性だと、癒し系、攻撃系、補助系もある。魔法の属性検査では自分の系統までは分からないし、系統によって鍛練の仕方も違うから、自分の系統では無い鍛練をしてしまって、全くの無駄になる可能性があるんだ。だから水属性を極めることは凄いけど、同時にリスクもあるということ。まあ何にせよ、我が人の国では15歳の成人の年に魔法の属性検査を行う。少し血を採って、それでみると聞いているよ。」
いつにない兄の年相応の表情は、楽しそうで不安そうで嬉しそうで辛そうな、複雑な表情だった。口調にも、兄弟特有の親しみが含まれているのに速くて、私は何だか気おされそうになって、呟いた。
「まあ。そう、でし、たの。」
同時に私は、息を、飲んだ。
兄の言葉が、理解、できない。
いいえ、言葉は理解できるのだけれど、兄が何を言っているのか、私には分からない。
私は、人を囲う色が、その人の属性と合っていることを知っていた。
私は、人を囲う色の形が、その人の系統と合っていることを、知っていた。
確かに、私は魔法の勉強をしたことはないけれど、あの子はなんとか属性だから、なんとか系統だからと皆が噂している内容と、私の目に映る、その人を囲う色と形が合っていることを、私は、知っていた。
「私には、よく、分かりませんわ。わざわざ血を採って、検査を、する、なんて。」
話の内容が整理しきれず呟いた私に、不出来でかわいい妹に教えるために兄は優しく語りかけてきた。
「魔法は我が国にとって、無くてはならないものだからね。一人でも多くの優秀な魔法師が必要なんだ。血を採るくらいは仕方が無い。でも実は、かなりの量を採られるみたいなんだ。」
兄はため息をついたけれど、あまり困ってはいないように見えた。
「腕かららしい。痛いだろうな。属性が、目で見えたら良いのにね。」
兄は少し眉をひそめて血を採るために切られるであろう腕をさすってから、大げさに痛がる素振りをみせた。
いつもの私なら、きっと一緒に笑っていた。
けれど、私は、混乱した頭で、うまく、話せなくなっていた。
「見えない。」
「色が、目で、見えない。」
震える唇から、喘ぐように出てきた言葉は弱くかすれていて、けれどそれは私の日常を揺さぶるほどに強く、重いものであった。
「水属性だけは、勘弁してもらいたいな。」
兄は自分の考え事に夢中で、戸惑っている私には気づかなかったようだ。そして躾の行き届いた仕草で、煮込まれて更に赤くなったジャムをスプーンですくい、口に運んだ。
落ち着くために紅茶に手を伸ばした私は、いまだに鮮やかに染まったままの自分の手のひらに驚いて、両手を顔の前に持ってきた。誰かを傷つけてしまったような、真っ赤な手に、私は震えて息を飲んだ。私は目を閉じ、頭を振り、ゆっくりと目を開けると、震えている両手の隙間から、違う景色が見えた。
引き寄せられるように、私はその青に目を向けた。
兄は、とても穏やかな人。
まるで凪いだ湖のような、透明感のある、青い、人物だ。
私は兄に、何も言えなくなってしまった。
水属性は嫌だと笑った兄に、私は、何も言えなかった。
兄を気落ちさせたくない、けれどそれ以上に、私は自分の異質さに、気がついてしまった。
国をあげての属性検査は、人を囲う色が見える人物が私以外にはいないか、もしくは、少ししかいないか、どちらにせよ、希少だということを示していた。
この時、平凡であることが幸せであることに気がついて、私は両手を握りしめた。見えなくなった赤に安堵して、私は小さな声で、色など見えない、そう、呟いた。
色など、見えない。
私はそう自分に言い聞かせ、目を、閉じた。